男は肩で息をしながらひどく興奮した様子であった。左手にはかすかに洗剤の香りのする三枚の襦袢を持っていた。男はこの時すでに自分がこの魅力に取りつかれていることを悟っていた。自分はまた同じように襦袢を盗むだろうと。
「まて〜!」警官の声が聞こえた。瞬間、男は愛車の中古で買った70年代物のクラッシックなオープンカーに飛び乗った。すぐにエンジンをかける。くたびれたエンジンは少し逡巡した後、重い腰を上げるように唸りながら回り始めた。すかさず男はアクセルを踏む。バックミラーに写っている警官の姿があっという間に小さくなっていった。警官は最後のあがきとばかりに手に持っていた警棒を車に向かって投げつけた。警棒は車の後部座席に奇跡的に乗った。警官は自分で投げたにもかかわらず、「おれの警棒を返せ〜。ジュバン」と怒鳴っていた。以来、この警官は男を見るたびにジュバンと呼ぶようになった。
もう捕まる心配がないと思った頃、ジュバンは車を止めた。そこには何も身に着けていない、骨格のしっかりとした女性がうずくまっていた。ジュバンは言った「お嬢さん、私が襦袢をお貸ししますよ。」もちろん自分のことを言ったのではない。盗んだ襦袢を与えたのだった。女は車の後ろでジュバンに見られないように襦袢を身に着けた。女は礼を言った。「お嬢さん、お名前はなんていうの?」ジュバンは尋ねた。女は骨無事子と名乗った。確かに立派な体格ではあった。ジュバンは無事子に見とれていた。無事子には襦袢がよく似合った。二人はそのまま別れた。
ジュバンはまた車を走らせた。森の中を走っているとき、突然大木が目の前に倒れてきた。慌ててブレーキをかけてかわす。辺りに目をやったジュバンは、日本刀で木を切り倒したその男を見つけた。「なーにやってくれんだよ、あんた。あと一歩でおいら死んじゃうとこじゃんかよ。」ジュバンは口をとがらせて言った。男は静かに、しかし迫力のある目つきでジュバンを睨む。「せっしゃはあんたではない。西から来たもんと申す。」どこからどう見ても極東出身にしか見えなかったが、名前だから仕方がないのだろう。「何でこんな大木倒したんだよ?」ジュバンは尋ねた。来たもんは僅かに顔を赤らめながら、心なしか小さめの声で言った。「せっしゃは純白の襦袢には目がないのじゃ。是非私にその襦袢をくれ。さもなければお前を斬る。」ジュバンに選択の余地はなかった。「わ〜かった、わかった。わかったからそんな物騒なもんこっちに向けないでくれよ。」ジュバンは渋々襦袢を来たもんに渡した。
またまたジュバンは車を走らせる。森を抜け、住宅街にさしかかった頃だった。パーンという音とともに、車が大きく弾む。慌ててブレーキをかけて車を止めたジュバンは、辺りを見回した。電信柱の影に、タバコの煙をくゆらせながらこちらをうかがっている、帽子をかぶったスーツ姿の男の姿があった。「誰だ?」ジュバンは尋ねた。「俺は一限大好だ。」男は言った。一瞬、ジュバンは「一限大好」というのがこの男の名前であることを呑み込めなかったが、まあそんなものかと妙に納得してしまった。「何でおいらの車をパンクさせたんだ?」ジュバンはまた尋ねた。一限は、恥ずかしがるように電信柱の影に引っこみ、帽子を深く被り直して言った。「俺はピンクのランジェリーには目がねえんだ。そいつを俺にくれねえか?」一応頼んでいる口調ではあったが、電信柱の影から銃口をジュバンに向けているのは明らかであった。ジュバンに選択の余地はなかった。大人しく最後の襦袢を一限に手渡した。
ジュバンはスペアのタイヤを取り付け、また車を走らせて自分のアジトに帰った。車を降りるとき、後部座席に警棒が乗っているのに気付いた。「結局今日の収穫はこの警棒かよ。」ため息交じりに呟いた。警棒には汚い字で「銭無警部」と書かれていた。どうやらさっきの警官の名前らしい。「あのじっちゃんも襦袢泥棒相手によくあんなにムキになるよな〜」ぼそりといった。ジュバンはスペアのタイヤを車に積み込んで、その日は床に就いた。
本作品は、実在する人物やその他の作品等とは一切関係ありません。
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