それは彩花にとっては、永遠にも永く感じられた出来事だった。
彩花は何年ぶりかに故郷へ帰ってきて、昔懐かしむために商店街を散策していた、その帰りだった。商店街は昔と変わらずシャッター街で、平日というのもあり、人通りはまばらだった。意識すれば遠くの人の顔だって見えるぐらいである。彩花は辺りを見回しながら歩き、久しぶりの町を楽しんでいた。
だから遠くから「彼」が歩いて来た時、彩花はすぐに「彼」を認識した。両手にレジ袋を提げ、下を向きながらぼんやり歩いている。彩花はじっと「彼」を見つめたが、「彼」は彩花に気が付きそうになかった。
彩花がもっと近づいても、「彼」は気づかなかった。
彩花がさらに近くに来ても、同じだった。
そして、手を伸ばせば「彼」に届くというところまで近づいた時に、「彼」は何気なく顔を上げた。
一瞬だけ目が合った。
「…!」
さっきまで、「彼」が自分に気付いたら何て言おうかと考えていたのに、気がついたら彩花は目を逸らしていた。
同じ理由で、彩花は何もせずに「彼」とすれ違い、そのまま歩き続けた。
突然怖くなったのだ。
幼馴染が、自分を忘れているかもしれないということが。
立ち止まり、振り返り、声をかけ。
そうやってもまだぽかんとしている「彼」。
その「彼」がしばらく間をおいて、やっと、「あ」と言う。
その間の時間が、彩花には耐えようもなく怖かったのだ。
「彼」…坂下直樹は、彩花の幼馴染だった。彩花が引っ越す前、彼女の家は直樹の家の近くにあった。学校が終るとよく2人で遊び、これからもずっといっしょにいるのだと彩花は信じていた。
自分が引っ越すと分かった時、彩花は部屋に閉じこもって出てこなかった。しかしそんなことをしても引越しが中止になるはずもなく、それから一週間と経たないうちに彩花はこの町を出た。彼のいない新しい町を一週間過ごして、彩花はようやく彼のことが好きだったのだなと気付いたのだ。引っ越すときにこの気持を伝えられればよかったのにと、ひどく後悔した。
だからこそ、彩花は直樹に会いたくなかった。
彩花のいない町で過ごした直樹は、おそらく彩花以外の友達を沢山作り、そして彼女もいるのかもしれない。何にせよ、彼は彩花抜きで生活してきた。当然自分のことなど、すっかり頭から抜け落ちているだろう。そう彩花は思った。
好きだった人に忘れられる。
その事を知るのが怖かったから、彩花は立ち止まらなかったのだ。
彩花は暗い気持ちでアパートに帰りついた。自分の行きたかった高校の関係で、彩花はまたこの町で暮らすことになった。幼馴染と嬉しい再会もはたして、気持ちのよい生活を始めるつもりだった。
(やっちゃたな…)
しかし、いざ彼に会おうとすると、尻込みしてしまった。お陰でこれからも声をかけづらくなってしまった。
(直樹くん、元気かな)
幼馴染の顔は数年前よりもずっと大人びていたものの、小さい頃の面影は残っていた。だが両手に買い物袋をぶら下げた彼は、昔と比べてあまり嬉しそうではなかった。好きではない作業だったのだろうが、それでも彩花は直樹にいつも笑顔でいて欲しかった。
彼は自分のことに気がついたのだろうか、彩花には分からなかった。もし、自分のことに気がついていて、思い出してくれていたら、声をかけてくるはずだと彼女は思った。
(そうじゃないってことは、気が付かなかったか、それとも…)
悪い思考に陥ったと感じた彩花は頬をぱんぱんと叩いた。ネガティブな思考は何も生み出さない。このまま彼のことを考えたらまずいと思った彩花は、部屋の片付けを始めた。昨日この部屋に来たばかりで、まだ全然片付いていなかった。
最初は手際よく物を整理していったのだが、段々その手がゆっくりになってきて、最後には止まってしまった。彩花は床に座り込んで大きく溜息をついた。
(ダメだな私…)
彩花は自分の精神力の強さには自信があった。どんなことがあっても心を揺らさなかったし、戸惑うこともなかった。しかしその強靭な心も、これまでに1回だけ、この町から引っ越すときに大きく揺れた。そして今回が2回目である。こと直樹に関することになると、自分の心がぐらつくということを、彩花は自覚していた。
ふと横を見ると、まだ片付けていない漫画が置いてあった。この町に帰ってきてから続きを読もうと楽しみにていた漫画だ。気を紛らわせようと彩花は手を伸ばしたが、途中で止まった。とても漫画なんて読む気になれなかったのだ。
(直樹くん、今どうしてるかな)
なんとかして昔と同じ関係に戻りたいと、彩花は切に願った。
次の朝、彩花は床の上で目が覚めた。どうやら片づけの最中で寝てしまったようで、周りには片付けようとしていた本が散らばっていた。
早く片付けないといつまでたっても汚部屋のままだと思った彩花は、早く部屋を片付けようと周りを見回した。すると部屋の隅っこに見慣れないものがあった。
(私あんなの持ってたっけ?)
それはゴミ箱だった。彼女はすでにピンクの花柄のゴミ箱を持っている。こんなゴミ箱を持ってきた覚えはなかった。そのゴミ箱はねずみ色で、頭がすっぽり入りそうな大きさだった。中には紙くず一つ入っていない。
不思議に思いながら、とりあえずベランダに置いておこうと彩花がベランダに出ると、通りを女の子が歩いているのが見えた。最初は誰か分からなかったが、数秒後、その子が誰なのか思い出した。それと同時に彩花は部屋から飛び出し、階段を駆け下り、アパートから飛び出した。
「鈴ちゃーん!」
女の子が振り返る。そして彩花の顔を見ると走ってきて抱きついてきた。
「アヤ姉ちゃん! お久しぶり!」
女の子の名前は坂下鈴。坂下直樹の妹だ。彩花が引っ越す前は鈴ともよく遊んでおり、仲が良かった。ひとしきり再会を喜んだあと、鈴は彩花に話しかけた。
「アヤ姉ちゃんはここに住んでるの?」
「そうね。ここの近くの高校に進学することにしたから、ここに住むことにしたの。それで、鈴ちゃんは何でここに?」
「それは、お兄…じゃなくて偶然ここを通ったの」
「そっかー。どこかに行く途中かな?」
「散歩してただけだよ。それより、アヤ姉ちゃんの部屋入ってもいい?」
鈴がそう聞くと、彩花は恥ずかしそうな顔をした。
「引っ越したばかりで、私の部屋かなり汚れているから…」
「じゃああたしが手伝ったげる!」
彩花はあの汚部屋をあまり人に見せたくなかったが、今猫の手も借りたい状態だった。彩花は仕方なく首を縦に振った。
アパートに入り、階段を登って部屋の前に来て、鍵を開ける。そして鈴が勢い良く扉を開けた。
「わお」
部屋を見た鈴の第一声がそれだった。彩花は両手で顔を隠す。
「だから汚れているっていったでしょう?」
「でもまさかここまでとは…。でも、これはこれで掃除しがいがあるってものね」
そう言って、鈴は腕まくりをした。
掃除を始めると、あれだけ自分を手こずらせた荷持がどんどん片付いていく。昨夜は4時間かけて寝るスペースを作るのがせいぜいだったのに、鈴のお陰で2時間で部屋を片付けることが出来た。すっきりした部屋を見回して、彩花は鈴にお礼を言った。
「本当にありがとう! ここまで早く終わるなんて…」
「お役に立てて光栄です!」鈴はにかっと笑った。「あと、『あれ』どこに置けばいいかな」
鈴が指をさした方を見ると、広くなった部屋の隅にさっきのゴミ箱が放置してあった。目に映ってはいたものの、すっかり存在を忘れていた。
「これ、持ってきた覚え無いのにいつの間にかあったのよ」
「そりゃ不思議だね」
鈴はそのゴミ箱を持ち上げた。
「センスの欠片もないゴミ箱ね。ねずみ色なんて、誰が使うのよ」
「そう思うよねー」
「ねー」
「でもこの部屋に来た時には何もなかったから、私が持ってきたとしか思えないのよ」
「それか誰か侵入したとか」
「ちょっと、怖いこと言わないでよ!」
「でもそれはないでしょ。多分アヤ姉ちゃんのお父さんか誰かのを間違えて持ってきたのよ」
「そうよねえ」
2人で頷き合うと、鈴は立ち上がった。
「じゃあ疲れたし、そろそろ家に帰ろうかな」
彩花もすぐに立ち上がって、鈴を見た。そして、言うべきことを言おうと決心する。
「今日は本当にありがとう。あとっ」
次に言う言葉を意識しすぎて、彩花の声がつい大きくなる。
「どうしたの?」
「あの、えーっと…直樹くんは、元気?」
すると鈴は一瞬驚き、それからとても嬉しそうな顔になった。そしてにこにこしながら言った。
「もちろん元気だよ! 昨日寝てないみたいで目が真っ赤だったけどね」
「そう…それはよかった。それと私が帰ってきたことは、直樹くんには黙っていてね。その…後で驚かしたいから」
「もちろん分かってるよ!」
鈴はそう言って、にこっと笑った。その顔を見て、多分黙っていて欲しい本当の理由も分かったのだろう、と彩花は思った。
「じゃあ、頑張ってね、アヤ姉ちゃん!」
「うん!」
今度こそ、鈴は部屋を出ていった。彼女の振りまいた元気が、まだ部屋に残っているような気がした。
(本当に頑張らないと)
驚かしたいからでない。ただ、自分の存在は自分で伝えなければならないと、そう彩花は思ったから、黙ってもらえるよう頼んだ。
そして次会うことがあったら、引っ越すときに伝えたかった気持ちを今度こそ伝えようと思った。
鈴が帰ってから数時間たった。もう日が沈みかけている。壁紙を変えたり、ぬいぐるみを置いたりと、すっぴんだったのがようやく女の子の部屋らしくなってきた。しかし全然女の子らしくない物体が目の前にあった。
(ほんと、どうしようかな、コレ)
ねずみ色のゴミ箱である。捨てる気にもなれなくて、彩花はずっと放置していた。試しに持ち上げてみると、持っていないんじゃないかと思うほど軽い。そして丁度頭を入れろと言わんばかりの大きさの穴が、彩花に向かって口を開けていた。
(これは被るべきよね…)
その穴を覗いていると、被りたいという欲求が沸々と沸き上がってくる。最初は我慢していた彩花だったが、ついにこらえきれなくなって被ってしまった。しかし、不思議な事が起こった。
(あれ…?)
おかしな事に、被った瞬間そのゴミ箱は消えてしまったのだ。ぺたぺたと頭や顔を触るが、なにもついていない。
(夢だったのかな?)
そう思ってふと後ろをみた途端、彩花は悲鳴を上げた。なんと後ろにある鏡には、ゴミ箱を被っている彼女がちゃんと映っていたのだ。
(落ち着いて、落ち着いて…)
彩花は震える自分の心を押さえつけた。ここで動揺しても仕方がない、と。彩花は鏡に写った自分をとりあえず観察してみた。
(まず、このゴミ箱は外から中に光は通すけど、中からの光は外に通さないみたい)
しかし、ゴミ箱を被っていなかった時にはそれは成立していなかった。もうこの時点で彼女にはお手上げだった。光を一方だけに通す物質なんて訊いたこともない。このゴミ箱は鏡ではないので、マジックミラーのような仕組みとも考えられない。
「何なの、これ?」
何気なくそう呟くと、後ろから返答があった。
「教えて差し上げましょうか?」
彩花が瞬時に振り向くと、そこには信じられないものがいた。
「ぐりとぐら?」
彼女の目の前に、2匹のネズミが2本足で立っていた。それぞれ赤と青の服と帽子を着ており、まさしく『ぐりとぐら』であった。
「確かに、私たちは『ぐりとぐら』に似せて作られました」
と赤ネズミが言い、
「しかし、私たちは『ぐりとぐら』とは似て非なるものなのです」
と青ネズミがつなげた。
「あなたが被っているそのゴミ箱に関して、私達には説明する責任があります」
「これから、私達の説明をしましょう」
その光景に、自分は夢でも見ているのではないか、と彩花は目を疑ったが、頬をつねってもただ痛いだけだった。
「確かに私達の存在に驚かれるかもしれまん」
「それもそのはず、私達はつい最近作られました」
「作られたって、誰に?」
彩花がそう聞くと、まず赤ネズミが答えた。
「『蜘蛛神』というそこそこエラい神様です」
「私達はその神様の所から逃げ出しました」
と青ネズミ。
「次に私達が何者なのかの説明をしましょう」
「私達は種族を『ミソカネズミ』といいます」
「秘密のネズミと書いて『密鼠』です」
「名前の通り、私たちは隠された存在ですので、人が私達の姿を見ることはできません」
「人間が私達を視認するためには、あなたが今被っているねずみ色のゴミ箱を被る必要があります」
「この不思議物体はあなた達が作ったのね」
彩花が顔をぺたぺた触りながら言った。
「そのゴミ箱に関していえばそうです」
それから、ネズミ達は互いに顔を見て、それからまた彩花の方を向いた。
「そして私達が食べるものについてもお伝えしましょう」
「私達の主食は人間です」
それを聞いて彩花は後ろに下がった。
「人間を食べるの?」
「正確には違います」
青ネズミが答えた。
「私達が食べるのは、人間を人間たらしめるもの」
赤ネズミが続ける。
「すなわち人間の『思考』です」
「思考?」
「そうです」
「ですがどういうことなのかは見てもらったほうが早い」
「ぜひ外について来てください」
そう言って2匹とも扉を、なんとすり抜けて出ていった。驚きながら扉を開けてついていくと、ネズミはそのまま表に出た。そのまま2匹が動かないので彩花もじっと立っていると、一人の男がゆっくりと歩いてきた。そしてその姿を見て彩花は驚いた。
「頭の上にゴミ箱がある…」
その男の頭の上に、丁度彩花が被っているようなねずみ色のゴミ箱が、口を上に向けて乗っているのだった。そのゴミ箱は男の頭にぴったりくっついていて、男が頭を揺らしても落ちなかった。
そこにもう一人、今度は女の人が現れた。なんと彼女も頭の上にねずみ色のゴミ箱を乗せていた。
2人のゴミ箱はどちらも満杯だったが、揺れても溢れたりこぼしたりはしなかった。そして2人は彩花の事を不審な目で見ながらアパートに入っていった。どうやらアパートの住民だったようだ。
「変な目で見られたんだけど、あの2人は誰なのかしら」
「2人とも一般の人ですよ」
「変な目で見られたのは、あなたがゴミ箱を被っているからです」
それを聞いて彩花は、自分がゴミ箱を被っていたことを思い出した。
「そして、あのゴミ箱はどの人間も頭に乗せています」
「あなたはそのゴミ箱を被っているから、それが見えるのです」
「そのゴミ箱って、いったい何なの?」
「それは——」
と赤ネズミが言いかけると、もう一人誰かやってきた。
それは男で、アパートに向かって走ってくる。その男の頭にも勿論ゴミ箱が乗っていた。かなり急いでいるようで、彩花には目もくれない。その男が彩花の目の前を走り抜けた時、男のゴミ箱から何かの欠片みたいなものが一つこぼれ落ちた。拾ってよく見てみると、彩花の頭の中に、あるカードのイメージが浮かび上がった。
「今のは…」
彩花が呟くと、青ネズミが頷いた。
「それが思考です。人間は同時に2つ以上の思考はできません」
「ですから、一つの物を考えている間、他の思考はあのゴミ箱に入れておきます」
「そして別の思考に移るとき、ゴミ箱の中からそれを取り出すのです」
「ですがそのゴミ箱から思考がこぼれることがあります」
「それを俗に忘れたことを忘れるといいます」
「人間は記憶力がいいので、忘れたといってもゴミ箱の奥底に隠れているだけだったりします」
「しかし、思考がゴミ箱からこぼれると、二度と思い出すことはありません」
「今の男性は、どこかの小さなお店で作ったポイントカードの記憶を失ってしまったようです」
「つまり、二度とその事を思い出すことはありません」
「もしどこかで同じ物を見たとしても、その男性にとっては初見となるのです」
「そして、これらの失われた思考こそが、私達の主食なのです」
そう言うと、ジャンプして彩花の手から欠片を奪い取り、二匹で食べてしまった。 「人間は私達を触ることが出来ません」
「しかし逆に言えば、私達も人間を触ることができません」
「ですから、今のようにただ欠片が落ちてくるのを待つことしかできないのです」
ネズミ達は周りを見渡し、人が来ないのを確認すると玄関の方を向いた。
「それでは部屋に戻りましょうか」
彩花はまたネズミ達に付いて行き、部屋まで戻った。ネズミが机の上に乗ったので、彩花は椅子に腰掛けた。彩花は色々な疑問が頭に浮かんでいたので、質問してみた。
「いくつか聞いてもいいかな」
「何でも構いません」
彩花は頭を整理すると、まず一番分からないことを訊いた。
「このゴミ箱」彩花は自分の頭を指差す。「これはあなた達が私に被せさせたのよね?」
「はい。そのゴミ箱の持ち主は、それを被るよう暗示がかけられます」
「その上で、これを私に被せてあなた達に何か利益があるの?」
それが彩花がまず感じた疑問だった。自分にこれを乗せた理由が知りたかったのだ。
「利益も何も」赤ネズミが答えた。「そのゴミ箱をあなたが被っているお陰で、私たちは今こうして存在できるのです」
「どういうこと?」
「昨日、稀に見る『通い糸』の振動がありました」
「かよいし?」
「はい。あらゆる人間の間に張り巡らされている糸です。思考の欠片を凝縮して作られています」
「この糸は感情や思考を伝播させるためのものですが、糸のキャパシティを超えそうになると振動するのです」
「振動したまま放っておくと切れてしまうので、蜘蛛神はそれに対処しなければなりません」
「一本でも切れると他の糸にも悪影響を及ぼしまうのです」
「私達は蜘蛛神が糸の応急処置をしている間に、隙をみて逃げ出しました」
それを聞いて彩花は尋ねた。
「何で逃げたの?」
「それは、私達も飼い殺しになんてされたくありません」
「自由を謳歌したかったのです」
ここでネズミは話を戻した
「さて、この世の全てのものは認識されないと存在しえません」
「逆に、存在することによって認識されている、とも言えるでしょう」
「すなわち、人間に認識されない私達ミソカネズミは存在がひどく不安定なのです」
彩花もようやくそれで合点がいった。
「それで、私にこれを被せたのね」
「その通りです」赤ネズミが答えた。「蜘蛛神から逃げ出した今、蜘蛛神が私達を認識するのを止めた場合、私達はその時点で消滅してしまいます」
「蜘蛛神に私達の脱走がバレる前に、あなたに被ってもらう必要があったのです」
「暗示という強制的な仕様のゴミ箱にしたのはその為です」
「因みにそのゴミ箱は、他の人に取ってもらえばいつでも外せるので、ご安心を」
彩花はしばらく黙った後、もう一つ質問をした。
「何で私を選んだの? 私以外でもゴミ箱を被せても良かったと思うんだけど」
ネズミはすぐに答えた。
「それにも理由があります」
「あなたがゴミ箱を被ってくれていると言っても、やはり私達の存在は不安定です」
「人間一人だけに頼っていては、いつか私達は消えてしまうでしょう」
「ですから私達は、完全に安定した存在を欲しています」
「そしてその際町の人を少々犠牲にしてしまう可能性があるのです」
「もしゴミ箱を被った人がその人の知り合いだったりすると、抵抗される恐れがあります」
「そのような理由で、私達はこの町に何のゆかりも無さそうな、つい最近引っ越したばかりのあなたを選んだのです」
「犠牲にするっていうのは?」
彩花はそう尋ねた。
「はい。糸に問題が起こると、蜘蛛神は応急処置のために糸の持ち主のうち片方に『赤いスカーフ』を巻きます」
「赤いスカーフ…」
「『赤いスカーフ』は『通い糸』をさらに凝縮した糸で織られたスカーフです」
「すなわちそれは思考のエキス。言い換えれば存在のエキスです」
「それぐらい濃縮された存在を食べることが出来れば、私達も存在を得られると考えています」
「しかし、私達は人間に触れられませんし、そんな人間に巻かれたスカーフに触ることも出来ません」
「なので、触れるようにするために、その人間の存在をとことん薄くして私達と同じ状態に持っていくのです」
「薄くするって、どうやって?」
彩花が聞くと、ネズミは続けて言った。
「その人間の思考の欠片を食べ尽くすのです」
「蜘蛛神は運命を司る神様なので、その使いである私達にも少しばかりそのような力があります」
「その力を使って、その人間に思考の欠片をどんどん落とすような状況に持っていくのです」
「思考の欠片を食べつくされた人間は、運が良ければ記憶喪失で済み、悪ければ存在が消滅するでしょう」
「…酷い!」
話が終わると、彩花はネズミ達を睨みつけた。
「あなた達に何の権利があってそんな酷いことするの?」
「すみませんが、私達も消滅するかどうかの瀬戸際です」
「70億人もいる人間のうち1人の事なんて、とても考えていられないのです」
彩花は何も言えなかった。誰だって生きたいに決っているのだ。
「因みに、人間が犠牲になっても誰も困りませんよ」
「存在が薄くなったら誰も気にかけなくなりますからね」
「誰も気にかけないし、本人も消滅か記憶喪失なのです」
「……。」
彩花が黙っているのを見ると、ネズミが語りかけた。
「まあそんなことは気にせずに、ゴミ箱生活を楽しんでみるのはいかがでしょう」
「他人の頭をゴミ箱を覗き込めば、その人のすべての思考を理解することができます」
「他人の思考が覗けるまたとないチャンスですよ」
『他人の思考』で思い当たったのは、直樹の事だった。知りたいし知りたくない彼の気持ちを、彩花は今見ることができる…。
「今はまだ効果が薄いですが、そのゴミ箱を被っておけば他人に気づかれにくくなります」
「要するに覗き放題です」
「私達の存在を維持するために被ってもらってるのですから、この位のお礼は当然です」
どうやらゴミ箱の機能は、お礼のつもりらしかった。彩花は鏡に写った自分のゴミ箱を見ていると、ネズミ達は机を飛び降りた。
「そろそろ遅い時間なので、私達はこれにて失礼します」
「それではまた御機嫌よう」
そう言って、ネズミ達はドアをすり抜けて出ていった。彩花はしばらく呆然としていた。あまりに色々なことがあリ過ぎて、頭が混乱したのだ。
(今日は疲れたな…)
物を考えるのがだるくなってきた彩花は、さっさと風呂と食事を済ませ、ベットに潜り込んだ。
その頃には、自分がゴミ箱を被っていることなどすっかり忘れていた。
次の日、彩花は朝早く起きた。服を着替え、髪を整えて朝食をとる。
(暇だなあ)
ご飯を食べなからそう彼女は思った。本当はこれから部屋の片付けの続きをするはずだったのだが、それは昨日鈴と一緒に終わらせてしまった。もうすることがないのだ。
朝食をとった後、彩花はベットに突っ伏した。しばらく目を瞑っていると、部屋の外を何かが走る音がした。誰だろうと思って頭を上げると、インターホンが鳴り、鈴の声がした。
「アヤ姉ちゃーん! 遊び来たよー!」
彩花はすぐに跳ね起きて、扉まで走った。そしてチェーンを外し、扉を開ける。
鈴は彩花の顔を見て、一歩後ろに下がった。
彩花は鈴の頭の上を見て、一歩後ろに下がった。
鈴が驚いたのは彩花が被っているゴミ箱のせいで、彩花が驚いたのは鈴の頭のゴミ箱のせいだった。鈴は、ゴミ箱を被っているのが彩花だと分かると胸をなでおろした。
「あーもうびっくりしたよー」
「ごめんごめん。驚かせちゃった」
「何でそのゴミ箱被ってるの?」
「それは成り行きで…。とりあえず中入ってよ」
そう誤魔化しながら彩花は鈴を招き入れた。
「よくそんなの被って前歩けるね」
鈴が不思議そうにしたので、彩花は「まーね」とだけ言った。
彩花は鈴をベットに座らせ、自分は椅子に座った。
「ちょうど良かったー。昨日鈴ちゃんが頑張ってくれたから、やることなかったのよ」
「そりゃ余計なことしちゃったかな」
鈴がくすくす笑うと、彩花も笑う。
「ぜーんぜん。それで、今日何する?」
「あたしはアヤ姉ちゃんと話しようと思って来たんだけど」
「話?」
「もう5年だっけ? 引越してから。その間にアヤ姉ちゃんにもいろいろあったでしょ?」
それを聞くと彩花もにこっと笑った。
「たっくさんあるよ。積もり積もって山になっちゃった話がね」
それから彩花と鈴は積もる話に花を咲かせた。
お互いの知らない5年間は何よりも面白い話で、二人はずっと話しても飽きなかった。
しかし。
途中から鈴の様子がおかしくなった。
彩花がしゃべっていると、突然鈴がぼんやりするのだ。声をかけても反応しない。肩を揺り動かしてようやく鈴は我に返った。
「鈴ちゃん? 大丈夫?」
「ごめんごめん、ぼーっとしてただけ」
「ならいいけど」
それが一回だったら彩花も気には止めなかっただろう。しかし、それ以降何度か同じような事が起こったのだ。5度目に彩花が鈴を揺り起こした時、彩花はもう帰ったほうがいいと忠告した。
「鈴ちゃん今日調子悪いよ。家で安静にしてたほうがいいわ」
「うーん、体は全然大丈夫なんだけどなあ」
「昨日ちゃんと寝たの?」
「お兄ちゃんじゃあるまいし、ぐっすり寝たよ!」
そこで彩花は直樹の事を思い出す。鈴によると昨日は寝不足だったらしい。彩花は直樹の体の調子が心配になった。
「鈴ちゃん、直樹くんは…」
「平気平気。今頃ぐっすり寝てるよ」
「ああ、良かった」
彩花がほっとすると、「そういえば」と鈴が何かを思い出した。
「お兄ちゃん最近変なことしてるのよね」
「変なこと?」
「あれ、新しいファッションのつもりなのかな? 全然似合わないのよねー」
「直樹くん、何かしてるの?」
「うん。昨日ぐらいから首に赤いスカーフ巻いてるのよ。アヤ姉ちゃんはどう思う?」
鈴の言葉は、もう彩花の耳に入っていなかった。彩花は急に目の前が反転したように感じられた。
(直樹くんが赤いスカーフを…ということは直樹くんがネズミの犠牲に…)
「アヤ姉ちゃん大丈夫?」
気がつけば鈴が彩花を心配そうに見ていた。
「やっぱりそのゴミ箱外したほうがいいんじゃない?」
言われて彩花は自分がゴミ箱を被っていたことを思い出した。ゴミ箱は中から外がよく見える。そして彩花にとって、人の頭にゴミ箱が乗っかっているのは普通との認識になっていた。彼女がゴミ箱を被っているのを忘れるのも当然のことだった。彩花はこの気に、鈴にゴミ箱を外してもらおうかと思ったが、ネズミが言っていたことを思い出した。
(このゴミ箱を被っていないとネズミが見えない…)
ネズミが直樹を食べるのを阻止しなければならない。ならばまだこのゴミ箱は被っていたほうがいい。
「私は大丈夫だから、鈴ちゃんは早く帰りなさい」
「分かった。それじゃあバイバイ! また来るね!」」
鈴はそう言って扉を出て、小走りで階段を降りていった。
(さて)
彩花は部屋に戻って、椅子に座った。これから直樹をネズミから助ける方法を考えないといけない。だがその為にはネズミを探さないといけない。しかし彩花はネズミの居場所を知らない。
(どうしようかしら)
しばらく考えていたが、彩花にいい案は思いつかなかった。これ以上考えても仕方ないと思ったので、彩花はダメ元でネズミを呼んで見ることにした。
「ネズミさん、いるの?」
返事はなかった。彩花が諦めたように肩を落とすと、廊下で物音がした。見ると、昨日の赤ネズミと青ネズミが扉をすり抜けているところだった。
「お呼びですか? 私達に御用ならなんなりと…」
ネズミがそう言いかけている途中に、彩花はネズミを引っ掴もうとした。だがネズミは素早く、簡単にそれを躱した。
「一体どうしたんですか?」
「今すぐ直樹くんを食べるの止めて!」
彩花はネズミ達に向かって叫んだ。ネズミ達はきょとんとした顔をしている。
「『直樹くん』とは、どちらさまでしょうか」
「赤いスカーフを首に巻いている男の子よ!」
「ああ、あの人が…」
ネズミ達はようやく気がついたという雰囲気になった。
「直樹くんは私の…友だちなの。だから…」
彩花は懇願するように床に膝をついたが、ネズミ達は首を横に振った。
「すみませんが、彼がスカーフを巻かれた以上、私達は彼を食べるしか無いんです。生きるためにも」
「彼があなたのご友人であるとは夢にも思いませんでした。ですが我慢していただけないでしょうか」
「彼が食べつくされたら、あなたは彼のことを忘れられます。どうかそれまで…」
「嫌よ!」
ネズミ達の説得も耳に入れず、彩花は立ち上がった。
「私があなた達を追い払うわ。直樹くんを一欠片たりとも食べさせない」
そう言うと、彩花はネズミを残して部屋を走り出た。
町には人が溢れていた。
誰も彼もが頭にゴミ箱を乗せていた。
彩花はゴミ箱を被って疾走しているのに、誰も彩花のことを気に留めなかった。
(これが、ネズミの言っていた『気づかれにくくなる機能』ね)
確かにこれなら人々のゴミ箱も覗き放題である。しかし彩花にはすれ違う人々の頭の中など、欠片の興味もなかった。彼女の頭の中にあるのは、坂下直樹ただ一人だった。
直樹の家は昔と変わっていなかった。ちょっと古い二階建て。きっと直樹の部屋も昔と変わらないはず、と彩花は考えた。
玄関の前に立ち、ドアノブに手を掛ける。彩花は、このまま不法侵入してしまってもいいのだろうかと一瞬だけ逡巡したが、心を決めて扉を開けた。
中に入ると、懐かしい匂いがした。小さい頃直樹の家に来た時にいつも感じていた匂いだった。これを嗅ぐと心が落ち着いて、自分の居場所はここにもあると彩花は感じたものだった。彩花は靴を脱ぎ、玄関に上がり、深呼吸をする。そして廊下を前に進んでいった。
廊下の突き当りに居間があった。彩花が部屋の中に入ると、畳の上に座った。
(今、直樹くんの家にいるのよね…)
彩花はそう思ったが、まるで実感がなかった。さてどうしよう、と彩花が考えた時、玄関の扉が閉められる音がした。
(しまった…扉開けっ放し…)
扉を閉めた人物は開けっ放しだったことを気にする様子もなく、そのまま2階へ登っていった。
(今の、直樹くんかな?)
彩花は部屋から頭を出して見てみたが、もう誰もいなかった。また戻ってくるかもしれないと、しばらく廊下を見張っていたが、その人物は2階から降りて来なかった。そして彩花が首に疲れを感じ始めた時、ドアが開いて鈴が出てきた。そしてそのまま彼女も2階へ上がっていった。
彩花は忍び足で居間を出て、階段の所へ歩いた。そして1段1段登っていった。2階に着くと、隣合う部屋のドアにそれぞれ直樹と鈴のプレートが掛けてあるのを見た。そのプレートは5年前とまったく変わっていなかった。
(ということは、今もこっちが直樹くんの部屋ね)
そう思って、一歩踏み出そうとした時だった。
「ほっとけって言ってんだろ!」
誰かが怒鳴る声が聞こえた。多分直樹だろう。彩花は急いで部屋の前に来て、ドアを開けた。
そこには床に倒れた鈴と、こちらに背を向けて寝ている直樹がいた。今のはおそらく兄妹喧嘩だろう。だがそれよりも、彩花の目は、直樹の周りにいるモノに釘付けになった。
そこには、ネズミが10匹以上いた。それぞれ黄色や緑、白など色とりどりの服を着ている。そしてそのネズミ達が直樹の周りを取り囲むように立って、直樹の首にある赤いスカーフをじっと見つめているのだった。
彩花はその異様な光景に目を奪われていたが、鈴が起き上がって部屋を飛び出したのを見て我に返った。彩花は鈴が脱ぎ散らかしたスリッパを拾って、ネズミに投げつけた。
「直樹くんに近づかないで!」
しかしそれは狙い通りに飛ばず、直樹の後頭部に当たってしまった。
「あ…」
だが直樹はひとこと呟くと、ベットに潜り込んだ。直樹はしばらく動かなかったが、やがて起き上がり、掛けてあった上着を羽織って部屋の外に出ていった。10数匹のネズミ達も直樹に付いて行こうと動き出したが、彩花がドアの前に立った。
「直樹くんの所には行かせないわよ」
「それは困ります」
黄色いネズミが喋った。
「私達はなんとしてもあのスカーフを手に入れねばならないのです」
「ダメ」
そうして、彩花はずっとネズミ達の前に立ちはだかった。何十分ネズミ達とにらめっこをしていただろうか。そのうちに、彩花の頭の中に違和感が生まれきた。今やっているのは途轍もない無駄であるという予感だった。
(そんなはずはないわ。私がこうしている間だけでも、直樹くんは食べられなくて済むんだもの)
そう思ってずっと立っていた。時計が16時を過ぎ、17時を過ぎた。直樹は帰って来なかったし、鈴も部屋に来なかった。そして日が沈みかけようとしている時に、来訪者があった。
「おや、ここにいたんですか」
「探しましたよ」
赤ネズミと青ネズミだった。その2匹は部屋にいたネズミ達と合流して、彩花の方を向いた。このころになると違和感は彩花の頭全部を支配していた。
(何で、ネズミ達はこんなに余裕なの?)
直樹のスカーフを狙うのであれば、一刻でも早く直樹を食べようとするはずだ。しかし、いざとなれば壁をすり抜けてでも行けるだろうに、ネズミ達は動く様子がまったくない。まるでその必要がないかのように。
「あなた達、何を企んでるの?」
彩花がそうネズミ達に問いかけた途端、ネズミ達が邪悪な笑みを浮かべたような気がした。
「そうですね」
と赤ネズミ。
「そろそろ言ってしまいましょうか」
と青ネズミ。
「何をよ…?」
彩花の中に嫌な予感が駆けまわった。自分は完全に見誤ってしまった。そんな気配だった。
「実はですね、私達は彼のスカーフを手に入れる必要など、まったくないのですよ」
「どういうこと?」
ネズミは沈みかけの夕日を見ながら言った。
「少しばかり運命が操れるからって、2,3日に一度溢れるかどうかの思考の欠片を、そんな大量に落とさせるなんてできませんよ。ですから、そんな方法では時間がいくらあっても足りません」
「じゃあ、自分達の存在を手に入れたいっていうのは嘘だったの?」
「いえいえ。あれは正真正銘私達の願いです」
「じゃあどうやって…」
彩花が考えこむと、ネズミ達が口元に笑みを浮かべながら彩花を見つめた。
「まだ分かりませんか」そして次のネズミがこう続けた。「いるじゃないですか。私達に触ることができて、見ることも出来る、そんな私達に近い存在が」
「……!」
ようやく彩花の中ですべてが繋がった。他人に気付かれないというゴミ箱の便利な機能。そして今朝の鈴のおかしな症状。そしてネズミ達が不敵に笑う理由。
「そのゴミ箱は吸い取っていたんですよ。あなたの存在を」
「ここに住んでいる少年や、他人の思考を覗ける機能なんて、所詮囮なんです」
「本命は、あなた自身の存在」
「でも!」彩花が叫んだ「このゴミ箱さえ外せば…!」
「どうやってですか?」
ネズミが逆に尋ねた。
「あなたがゴミ箱を被ってからもう1日立ちます」
「もうかなり存在を吸い取られているでしょう」
「あなたを認識できる人間なんて、もうこの世には存在しませんよ」
「あなたも分かっているのでしょう? もう誰もそのゴミ箱を外してくれないと」
ネズミの言うとおり、彩花は気付いていた。鈴が今朝様子がおかしかったのは、鈴のせいではない。彩花の存在が希薄になっていたために彩花のことを忘れていただけなのだ。ゴミ箱を被っておけば姿が隠れるというのも、存在が消えていけば誰も気にかけないという、ただそれだけのこと。ネズミ達は、「ゴミ箱を被れば他人の思考が覗ける」「ゴミ箱を被らないと直樹を助けることができない」などという囮を使って、彩花にゴミ箱を被らせ続けていたのだ。
彩花はへなへなと床に座り込んだ。ネズミ達に完全に騙されていたのだ。もう詰みである。彩花はこのまま誰にも気付かれずに、存在を吸われて消滅してしまうのだろう。そう思うと、目の前が真っ暗になった。
「あなたはもう誰にも気付かれません」
ネズミが言った。
「人間の頭はゴミ箱のようなものです」
「自分以外のことは、心の底ではどうでもいいと思っています」
「他人を気にかける余裕なんてありません。他人の事なんていつもゴミ箱に放り込んでいて、たまにそこから拾い出す程度です」
「そんな人間があなたを気付くということがあるでしょうか」
彩花の目から涙が流れ始めた。
「酷い…」
「すみませんが」
ネズミが言った。
「70億人もいる人間のうち1人の事なんて、とても考えていられないのです」
彩花はふらふらしながら直樹の家を出た。どこに行くあてもなくとぼとぼ歩く。あの後、ネズミはこう言った。
『あなたの存在が完全に吸い取られるまでまだ時間があります』
『それまで、あなたが住んでいたこの町を楽しむのはいかがでしょうか』
『流石にそれをさせないほど、私達は非道ではありません』
「どうして…どうして…」
涙はただただ頬を流れていった。
「どうして…私はただ、直樹くんと、笑いながら、この町で過ごしたかった。それだけなのに…」
そんな些細な夢さえ叶わず、彩花はこうして絶望に染まりながら歩いている。
彩花はただ歩いた。
交差点を通った。
一軒家の前を通った。
スーパーの前を通った。
公園の前を通った。
会社の前を通った。
橋の上を通った。
坂道を通った。
学校の前を通った。
バス停の横を通った。
役所の前を通った。
そして、商店街に来た。
そこは一昨日、直樹とすれ違った地点だった。日はとうに沈み、辺りは暗い。彩花は立ち止まった。
(私はここで消えちゃうのかな)
彩花は身を震わせながらそう思った。
そして、ふと横を見ると。
あれほど彩花を悩ませた男の子が、ベンチに座っていた。
直樹は薄い上着しか着て無く、誰が見ても寒そうだった。彼もまた身を震わせながら、虚ろな目で虚空を見つめていた。頭の上にはちゃんとゴミ箱が乗っている。
「直樹くん…」
彩花は幼馴染の名前を呟いて、彼に近寄った。
「助けて…?」
そう言っても、聞こえるはずもない。直樹はほんの少し顔をしかめただけで、他に何も反応しなかった。
「そうだよね…無理だよね…」
彩花の頭の中でネズミの声が響く
『人間の頭はゴミ箱のようなものです』
『自分以外のことは、心の底ではどうでもいいと思っています』
『他人を気にかける余裕なんてありません。他人の事なんていつもゴミ箱に放り込んでいて、たまにそこから拾い出す程度です』
「うぅ…」
もし今。もし今彼のゴミ箱を覗いたならば。そこに自分はいるのだろうか——
「ダメ。そんな事はどうでもいい」
彩花は自分の頬をパンと叩いた。
(自分のことばっかり考えてるのは私の方じゃない)
目の前に、あれほど恋した人がいて。その人が寒そうにしているのを自分は放置している。
(ダメじゃない。そんなんじゃ)
彩花は直樹のすぐ近くまで寄った。
そして、その体を抱きしめた。
直樹の体は冷たかった。彩花は更に力強く抱きしめ、直樹に熱を送った。自分が消えるとか、直樹の心がどうだとか、そういう感情は無くなっていた。彩花はただただ、直樹が愛しかった。
そうやって彩花が直樹の体を包み込んでいると、直樹が少し微笑を浮かべた。彩花がこの町に帰ってきてから初めて見た直樹の笑顔だった。その笑顔は、かつていっしょに遊んでいた時に、よく彩花に向けてくれた顔だった。それを見ると、彩花はもっと直樹のことが愛しくなり、体をぎゅっと抱きしめた。
しばらくそうしていると、直樹が立ち上がろうとした。彩花が慌てて直樹を離すと、直樹はなにか決意したような顔をして、どこかへ歩いて行ってしまった。
彩花はついていかなかった。直樹を離すと、また消滅への恐怖が蘇ってきたのだ。このまま彼を追って何になる、という諦観が彼女をベンチに座らせた。
そのまま座っていると、ネズミがまた一匹、また一匹と増えていった。その数はどんどん増えていき、とうとう20匹になった。
「もういいんですか?」
赤ネズミが尋ねた。
「もうちょっと時間はありますよ」
青ネズミが言った。
「そんな心配するんだったら」彩花は叫んだ。「助けてよ! 私を元に戻してよ!」
叫んだり、嘆いたり。そんなことをしても何も変わらない。そんなことは小さい頃引越の時に実感したはずなのに。彼女は助けを求めて叫んだ。もちろんだれにもその声は届かない。
喉が枯れて、彩花は咳き込んだ。彩花は立ち上がって、ふらふらと歩く、いつの間にか辺りは明るくなり、町が目覚めようとしていた。
それから間をおいて、彼女はこれまでよりも大きく、何回も叫んだ。それは「助けて」という言葉ではなかった。彼女はただ「会いたい」と叫んだ。
「もうそろそろですね」
ネズミが周りを見ながら言った。
「今日は我々が存在を獲得できる記念すべき日です」
「逆にあなたはいなくなってしまいますが」
「違う!」
彩花はまた叫んだ。
「私はここにいるわ!」
しかしほとんど元気が無くなっていた。今まで大声を出していたのは、自分の消滅に対する恐怖から逃れるためだった。だが、その空元気ももうなくなりつつある。
「さあ、もう吸い取りきりましたかね」
ネズミがそう言うと、彩花の頭の周りがぐらぐらしているのが感じられた。存在を全て吸収し終わって、外れようとしているのだ。
「何か最後に言うことはありますか?」
ネズミがそう聞いた。ゴミ箱がゆっくりと横に倒れる。彩花は凄まじいスピードで過去の記憶を思い出していた。
小さい頃一人ぼっちで過ごしたこと。
直樹に会って毎日が楽しくなったこと。
引越しで悲しんだこと。
それからも何度も直樹の事を思ったこと。
そしてまた出会ったこと。
いろいろ言いたいことがあった。自分の事を叫びたかった。それは『直樹は自分を忘れているに違いない』と自分で全てを諦めていたから。しかし彩花は、最後の最後で勇気を振り絞って、直樹を信じた。直樹なら必ず、自分を見つけ出して助けてくれると信じた。だから叫んだ。
「直樹くん、助けて!」
その時、ゴミ箱が頭から外れた。そしてゆっくりとネズミ達が群がる所へ落ちていく。
「ですから、人間が自分以外の事を認識するなんて——」
ネズミがそう呟いた瞬間。
ゴミ箱にヒビが入った。
そしてネズミ達の所に落ちる前に、弾け飛んで粉になった。
その粉はその場でぐるぐる揺れると、まるで持ち主を探すかのように渦巻いた。
それからその粉は揺らめきながら彩花の体へと戻っていった。
彩花は認識されたのだ。
彩花は自分の名前が叫ばれるのを聞いた。顔を上げると、直樹は一生懸命にこっちに向かって走ってくる。
3日前、直樹と彩花はすれ違った。
それから何度も二人はすれ違った。
しかしこの時、直樹はちゃんと彩花の前で止り、彩花の目を見つめた。
「直樹、くん…?」
それが夢なのか確認するように、彩花は尋ねた。直樹は頷いた。
「私が、見えるの…?」
今度は、力強く頷いた。
そして直樹は、彩花の手を握った。
その瞬間、直樹と彩花は繋がった。
直樹から溶け出した何かが手を伝って彩花の中に流れ込んでくる。それと同時に、二人のここ3日間の記憶が、伝わり合った。彩花はなぜ直樹が自分を見えたのかを理解し、直樹はなぜ彩花が消えたのかを理解した。
そして、二人が手を離すと、お互いを見つめ合った。
それから、それぞれが何かを言おうとした途端。横から邪魔が入った。
「はい、お取り込み中の所申し訳ない」
見たことのない人だった。若く、体の大きい男で、蜘蛛のマークのTシャツを着ていた。彼は段ボール箱をカッターで瞬時に開けて、ゴミ箱が弾けて呆然としているネズミ達に被せた。
「よし、捕まえた」
その途端、ダンボール箱の中で凄まじい鳴き声がした。逃げるネズミの鳴き声と、それを追うネコのような声。何度もネズミの悲鳴が辺りに響き渡り、最後には物音がしなくなった。
そして男が段ボール箱を持ち上げた時には、彩花は『ミソカネズミ』に関する全てを忘れてしまっていた。
それから直樹は、その男にいろいろ文句をつけはじめた。彩花はその光景をぼんやりと眺めていたが、直樹の首にあったスカーフが無くなっているのに気付いた。
「直樹くん、スカーフつけてなかったっけ?」
彩花が直樹の首元を指さして言うと、直樹も「あ」という顔をした。
「溶けたんだよ」
驚いている二人を見て、男が言った。
「溶けたって、どういうことですか」
直樹が聞くと、男は直樹の方を向いて説明し始めた。そして同時に、彩花の頭の中でも男の声が聞こえた。
(やあ、色々迷惑をかけたねえ)
彩花がキョロキョロすると、男がちらとこっちを向いて口元に人差し指を置いた。
(今彼にも話すけど、実はこのスカーフ…)
(蜘蛛の通い糸の凝縮されたものなんですよね? ということは、あなたが蜘蛛神さん?)
彩花も頭の中で念じて伝えた。すると男も答える。
(よく知ってるねえ)
(いえ、誰に聞いたかは忘れたんですけど、なんとなく知っていて…)
(いいんだよ、それで。そしてね、その濃縮された糸を通称『運命の赤い糸』と言う)
(えっ…!)
(元々君たちの間には細い糸があったのだが、3日前に二人の思考が同じベクトルに働いて、キャパシティ超えしたようだ)
(じゃあこの騒動は…)
(そう。君たちが起こし、君たちが収めた。ストーリーという二本の糸をより合わせ、通わせ合って出来た、『絆』という名前の強い糸、これで今君等は結ばれている。自信を持つといい。これからは彼と二人で紡いでいくんだよ。いいね?)
(はい。あと…あなたは一体誰なんですか)
(僕の事はどうだっていい。人間の運命を少し弄っては楽しむ、そんな存在だ。それじゃあ、僕はこの辺で)
その瞬間、強い風が商店街を吹き抜けた。1分ぐらい吹き続き、止んだ時には、男はもういなかった。ただ耳元に、「グッドラック」という声が残った気がした。
直樹と彩花は狐につままれたような顔で見つめ合った。そして突然笑いあった。
その朗らかな笑い声は、ようやく人が来始めた朝の商店街に、いつまでも響いていた。
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