夏休みが終わる。
八月三一日の漠然とした物寂しさの中に俺はいた。
大量のセミの鳴き声が嫌でも耳に入ってくる。
残り少ない時間。それを知ってか知らずか、こいつらは懸命に泣き叫んでいる。今という時間を生きている。
「よォオし。俺も生きるぞ。やるぞォオ!!!」
「おう。起きとったか、心蔵」
障子を開けてヒゲ面が現れる。俺の祖父だ。
「何の用だよ、ジイちゃん。ノックくらいしてくれよ。いきなり入ってきたら恥ずかしいじゃねえか」
「お前、明日から学校だったな」
「そうだけど」
「だったら、今日のうちにやっておかんとな。ついてこい」
そう言うとジジイは俺の腕を引っ張る。
それもすごい力で!
引っ張り返そうとしてもびくともしない。運動会で本気出して柔道部員を五人も投入してきやがった白組との綱引きを思い出す。この細腕にどれだけの力があるっていうんだ。
「ちょ、ちょっと待てよ! また修行ってやつか!?」
ジジイは住職である。俺が生まれ育ったこの寺の。
仏教的には和尚ってやつだ。
そんで俺は寺の三男坊。寺の将来はというと親父が、次いでその長兄である清蔵の兄キが継ぐことがほとんど決まっていて、俺はそんなものとは無縁の気楽な学生生活。
だというのに、ジジイは修行と称して、やたらと俺にヘンな訓練をさせたがる。
「勘弁してくれよ! 俺の自由は残り少ねえんだよォ!」
「安心しろ。今日の『カリキュラム』は時間も手間もそれほどかからん。文字通り、朝飯前だ」
『カリキュラム』の部分が浮いて聞こえる。慣れもしない外来語を使いやがって。
「ほんとかよ、ったく」
ジジイの手がようやく離れる。
「ま、お前の心が『清く正しい』ものであればの話だがな」
『清く正しい』の部分が浮いて聞こえる。心にもない言葉をクチにしやがって。

「暗いな、おい」
通されたのは『瞑想用の部屋』とか呼ばれているがらんどうの広い部屋だ。おっと、モノホンの伽藍堂じゃあねえぞ。広さはだいたい十二畳くらい。四方には窓も障子もなく、光の入る隙間もない。
ジジイは黙って燭台の蝋燭に火をつけると、今入ってきた襖を閉めた。こうなるとさらに暗い。
「火の揺らぎを見つめろ」
この場で唯一、光を発する蝋燭の火。だがその光は頼りなく、輪郭が曖昧だ。
「目に焼き付けたら、目を閉じろ。閉じてからも、目の中で火を灯すのをやめるな」
言われた通りに目を閉じて、さっきまでの火を想像する。仄暗い部屋を照らすぼんやりとした光を想像する。想像の奥に、まぶたの向こうでまだ灯っている火の明るさを感じる。
その明るさが不意に消えた。本物の火が消されたってことだ。
「まだ火はついているな」
ぼんやりとした光のビジョンは消え失せて、真っ暗な空間にただ蝋燭の火だけが残る。他には何もない。
「火の揺らぎはお前の心の揺らぎ。その火が消えた時は、お前の心から雑念が消えた時だ。火が消えたら、目を開けろ」
そんなものは俺の肚ひとつだろ。と思うところなのだが、俺の意志で消そうとしてもなかなか火のビジョンは消えてくれない。これがこのジジイの不思議なところだ。ジジイの言ったとおりにしていると、言われたとおりのイメージが湧き上がり、見たくもない幻が見える。
これが信心の賜物ってやつかとも思ったが、息子である俺の親父に言わせれば『ジイさんの道楽』らしい。ちなみに親父も兄キたちも、このジジイの幻術に掛かったことはない。俺だけが誑かされている。
仕方がないので、余計な雑念を頭から追い出す。無だ。火のことだけを考えろ。
考えるうち、蝋燭は縮み、火は萎んでいく。萎んでいき、最後にはふっと消えた。
「火は消えたな。目を開けた時、お前の前には道ができている。薄い光の道だ」
タイミング、バッチリだ。ジジイお前、この部屋真っ暗闇だろ。どうやって悟ったってんだ。
そして目を開けると、暗いはずの部屋に言われたとおりの光の筋が見える。十二畳しかないはずの部屋のずっと向こうまで続いている。あーあ、今回も俺はジジイの術中に嵌ったわけだ。
「今からお前は、この光を辿って進んでいく。その最中、さまざまな音がするはずだ」
言いながらジジイは少しずつ透き通っていく。
「音や声に惑わされるな。それらはすべて雑音だ。何の反応も返してはならん。振り向かず、ただまっすぐに進め。いいな」
「中指を立てるのもアウト?」
「当たり前だ。同じことだ」
それだけ言い残してジジイは完全に姿を消した。俺はその方向に中指を立てる。しかる後、歩き始めた。

足を動かすと前に進む感覚があるが、進む先は無限に続いているように見える。
おそらく歩いている気になっているだけで、本当には歩いていないのだろう。その違いも今はわからない。
「きゃははは!」
左右から声が聞こえ始めた。
「あれ、ほんとありえないよね!」
おそらくは俺と同年代くらいの女の騒ぐ声。これがジジイの言う『雑音』ってわけだ。
アマいぜ、ジジイ。俺は現役の男子高校生。女子高生の声なんて慣れっこだ。
「だいたい、やることがわざとらしいんだよね、あいつ」
「休み時間とか、イヤホンしてるのめっちゃ見せつけてくるよね。なんならウォークマン、机の上に出してるし」
「キャラ作りすぎだよね」
「あはは。言えてる」
だから、堂々と大声で為される陰口にも動じない。
「ところでミカ、それ食べてるの何味?」
「ん?ミントだけど」
「マジで!? ただのミント? チョコミントじゃなくて?」
「あははは! なんでミント単体! めっちゃ鼻すっきりするでしょ、それ」
「イヤ、うまいよ。ミント」
「ホントぉー!? でも、ミカって我が道行くところあるからなぁ」
「それ、あるある。徳次郎さんは何味?」
「拙者はオレンジ&レモンのシャーベットでござる。やはり夏は果物系の氷菓が一番であろう」
「あははは、徳さん、さわやかー!」
「わかるかも。ミルクとかそれ系のアイスは冬のほうがいいよね」
ッッッッ!!! あッッぶねえ!!! ツッコむところだった! めっちゃツッコもうとしてた今!
え、武士いたんだけど! めっちゃナチュラルに武士いた!
なんで女子高生の中にナチュラルに徳次郎が混じってんだ!? 何溶け込んでんだ徳次郎が! って言うところだった今! 危ねえッ!
いかんいかん、いきなりルール違反を犯すところだった。無心だ無心。

「ねえねえ」
次に聞こえてきた声は、さっきよりも高く、そして耳に刺さる声。
「ねえねえ、何やってんの?」
つまり、ガキの声だ。おそらくは小学生高学年くらい。
俺がガキの声を無視しているのは、修行中だからというだけではない。実際に街中でこうして話しかけられても同じ反応をしただろう。
俺はガキが嫌いだ。特にこういう馴れ馴れしいガキは。無邪気だなんだと言う奴もいるが、そこにあるのは相手の都合を無視する図々しさだけだ。そして子供の自分にはそれが許されるということを、本能からか経験からか、知っている。
「おーい、シカトかよゥ」
まったく、『子供は天使』だなんて言う奴は、親バカかモノホンのバカかどっちかだ。
ガキが本当に純真と言えるのは、せいぜい自我もクソもない二、三歳くらいまでのもんで、そっからは色んなことを覚えちまうんだ。
罰を覚え、ルールを学び、ルールの中で欲望を解放するやり方を模索する。他者を意識し、衝突し、他者の扱い方を考える。周りに合わせることを覚える。
小学生になる頃には、すでにしょうもない空気読みゲームが始まってるわけだ。人によっては、周りを取り込んで従わせるという快楽を覚えてしまうのだ。
「おっちゃーん、話聞いてよ」
これはそのテクニックの一つ。つまりこういう無邪気ぶった奴ほど、歳上の扱いを心得た小ズルいやつってことだ。だが残念なことに、俺にはガキに対する親しみなどない。
そう、こんなガキ相手に俺は動揺などしない。
「リョウタ、何やってるのー?」
「ん?ああいや、別に」
と、その時、後ろからもう一つの声が現れた。可愛らしい女の子の声だ。
おい、まさかお前。
「その人、どうかしたの?」
「何でもないって。それより遊びに行こうぜ」
「ふーん。じゃあ、どっちの家に行く?」
「俺んち、来いよ。ダブルダッシュやろうぜ」
「私、ヘタだから見てるだけでいい」
「そんなことないって。最初からできるやつ、いないって」
そんな話をしながら、クソガキくんは女の子に連れ去られ、遠ざかっていく。
ガールフレンドってやつかい。……悔しくねーし。むしろ微笑ましいし。本当だし。
「ってか、今日泊まってかない? 親、出張だから」
「いいけど。だったら、着替え取りに一度帰りたいな」
ッッッッ!!! と、泊まっ!!!! く、悔しくね―し! 全然動じねーし。
小学生のクソガキが女と二人っきりでお泊まり会しようが構いませんから。もしかしたら一緒にお風呂に入ったり一緒の布団に入ったりするかもしれないけど、俺には関係ないしどうでもいいですから。本当です。
さあ無心だ無心。殺せ。心を、だぞ。次だ次。

「ねえ、サンオイル塗ってくれない?」
「せんぱーい。コンビニ寄っていきましょうよー。ほらほら、おでん20円引きだって」
「エヴァに乗れ」
浜辺のビキニ美女の誘惑を、おっとり系後輩の買い食いの誘いを、振り切って俺は進んでいく。
まあ、ちょろいもんだ。偽物だとわかっているんだからな。この言葉の裏には、すべてあのヒゲジジイの意図があるんだ。それがわかっていれば、惑わされることもない。
まあ、現実の言葉にもだいたいは裏の意図があるもんで、そういう意味ではそんなに……やめておこう。
こんな考え方を現実に持ち込んだら、虚無主義者になっちまうぜ。
「あ、ちょっと、ヤバイ。パンツが!」
ほらほら、きましたよ。もう下ネタに走るしか芸がなくなってきてるんじゃないのかい?
「パンツが踏切に引っかかって……ぐっ、どうしよう!」
!? おい、そりゃどういう状況だ!? どこの部分を引っ掛けたんだ。くそ、見てえぞ!
「あ~、もう、取れない!」
女はパンツを遮断器から外そうと悪戦苦闘しているらしい。声が次第に焦りを帯びてくる。
「まずい、このままじゃ……」
そりゃそうだ。だってこれは踏切の遮断機。その役割ったら……。
『カン カン カン カン カン……』
ッッッッ!!! おい来ちまったぞ、電車が!
「うわぁああ~~ッ、踏切がぁ! 誰か助けて!」
女の叫び声は、遮断器の音と走ってくる電車の音にかき消されていく。パンツは一体どうなってるんだ! 破けちまったってんならまだいい、女ごと上に引っ張られていたら……これはさすがに助けに行ったほうが、いやしかし……。
「トウッ!!」
その瞬間、何かが軽やかに着地する音がした。何者かが降り立ったのだ。
降り立つと同時に、あたりにいい匂いが漂う。何かを焼いた時の匂いだ。
「餃子マン、参上!」
そうだ、餃子だ! 餃子マン!? えらく湿り気のありそうなヒーローが来やがった!
「今助けるぞ!」
そう言って駆け出す餃子マン。その直後、激しい激突音。女の叫び声。それらを覆い隠すように鳴り響く、けたたましい警笛の音と、ガタンゴトンという走行音。一連の音が過ぎ去ったあと、静寂が訪れた。
「大丈夫だったか?」
どうやら女は助かったらしい。どうやって助けたかは謎だが、たぶん遮断器のどこかしらをぶっ壊している。
「あ、ありがと…ヴッ!!」
「ああ、申し訳ない。私の頭の巨大な餃子の放つにんにくの臭いでむせてしまったか」
やっぱり頭が餃子になってるんだな、餃子マン。くう、見たいぜ。
「それにこのままでは貴方の身体が油まみれになってしまう。早く離れたほうがいいな。立てるか?」
「は、はい。ウゴッホ! ガハッ!」
「これからは踏切の近くではパンツに気をつけるんだ! みんなも、約束だぞ! ではさらばだ! トウッ!」
そう言うと餃子マンは『キュピーン』と飛び去っていった。
「あ、餃子マンさん!……ゲホッ! ウグッ!」
さ、俺も行くか。あほらし。無心だ無心。

「お前は本当にやる気がないな」
半笑いの男の声。この声は聞き覚えがある。ありすぎるほどだ。俺の親父の声だ。
「ねえって言ってるだろ、ずっと前から」
続いて俺の声。おっと、俺は喋っちゃいねえぜ。俺の幻が喋っているんだ。そして俺はこの光景を知っている。少し前の俺自身の記憶そのままだ。
「清蔵が寺を継いだ時に、健蔵とお前が補佐してくれりゃいいと思ってたんだがな。上手くいかんもんだ」
「悪いけど、そんなに好きじゃねえんだ、寺。まあ、清蔵の兄キがいれば大丈夫だと思うよ」
「お前、親父に懐いてるくせに、寺が嫌いって言うのか」
「逆、逆。ジジイが俺に構いたがるんだよ。あれ、やめさせてくれねーの」
「無理無理。あの人が俺の上司みたいなもんだから。でも親父も親父で、散々妙な修行をやらせといて、まともなことはひとつも教えないんだからな」
「教えられてたって心は変わらねえよ。そんなに素直じゃねえって」
「かもな」
ここで親父が一つ息を吐いて、真面目な顔になる。ってのは覚えてる。
「でもいいんだな。普通の大学で。大学までは出させてやる。だがそれ以後は援助はしないってことで。自分の力でなんとかしろよ」
「十分だよ」
十分かどうかなんてわかったもんじゃねえ。だがこう答えるしかないだろ。
「そうか、まあやってみろ。で、ダメだったってなったら戻ってこい。シゴいてやるから」
「ご免こうむるね」
「ふん」
親父はまた小さく笑うと、ふっと消えた。
「心蔵、お前、やはり寺を出るのか」
今度はジジイだ。これは過去の記憶ではない。ジジイが幻の声を借りて、今の俺に問いかけてるんだ。
俺は黙って歩みを進める。ジジイへのあてつけ、とかじゃねーぜ。
「寂しくなるなー」
あんたにもそんな人の情みたいなものがあるのかい。
「ま、これからはこれまで以上に辛いこともあるだろうが、私との修行を思い出して頑張るんだな」
そうだな。これまでさせられた苦行のことを思えば、少しは楽になるってもんだ。
「フン。言いよる」
なんだ、やっぱ黙ってても聞こえてやがった。
「ま、しっかりやれよ。私はお前を見守っておるぞ」
おいおい、気が早えな、少なくともまだ半年は居るよ。
ジジイがヒゲの奥の顔を綻ばせた気がした。そして、消えていった。あのジジイ、笑ったのなんていつぶりだ。

やがて俺はセミの鳴き声とまぶしい光に包まれていた。
幻の世界が消え、現実に戻ったのだ。襖が開けられ、夏の太陽の光がギラギラと照らしている。
太陽を背にジジイが立っていた。
「まだまだなっとらんな。雑念が多すぎるわ」
「言葉は返さなかったし、振り向きもしなかったぜ」
「音が聞こえる時点で雑念が残っとるんだ」
「ああ? どういうことだよ」
「あの声は私が鳴らしてたのではないぞ。お前の心が生み出していたのだ。すなわち、お前の雑念が声になって現れていたわけだな」
「はあ!?」
俺の頭の中に最初から徳次郎や餃子マンがいたっていうのかよ。
「ま、夢みたいなものだな。あれも普段思いもしないようなものが浮かんでくるだろう」
「なるほどな、道理でジイちゃんが知らないはずの親父との会話が再生されたわけだよ」
「まったく、お前も玄蔵もああいうことはちっとも話さん。おかげで何を考えてるんだかわかったもんじゃない」
「ハッ、祖父譲りですよ。ってかジイさん、全部聞いてたのかよ。恥ずかしいじゃねえか」

一ヶ月ほどして、俺の夏休み気分も抜ける頃、祖父は死んだ。
そりゃもう、コロッと。キレーな老衰だ。あの齢で病気一つしねえとか、どんな身体だって話だけどな。
俺もまあ、ジジイが死んだ日はちょっと泣いたよ。でもまあ、そういうもんってことで、すんなり受け容れた。そうなる予感めいたものは少しあったしな。
祖父が最後にあんな修行をやらせたのは死期を悟ってたからかもしれないと今にして思う。あれ以来は会話も少し増えて、最後の一ヶ月はなんだかんだ楽しかった。ま、ジジイにもいい土産になったってことで。
『ま、そういうことだ。お前も頑張れよ』
うるせえな。最近は聞きたくもない幻聴が聞こえやがる。まだ俺はあのジジイの術中にいるってわけかい。ま、悪い気分じゃねえ。もうちょっと付き合ってやるとするか。


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