夕方になって太陽が地平線の彼方に沈むと、林の入り口である人物と待ち合わせる。
人物、というのはあまり正確ではない。その存在は我々と同じ言語を話し、同じような思考をし、同じような感覚をある程度持っている。しかしその容貌は二本足の爬虫類が腕を発達させたような出で立ちをしており、およそ人間とはかけ離れたものだ。だから人類はその存在を「ブリンクァスタ人」と呼んでいる。これから来るのはブリンクァスタ人のクァクである。
秋が深まると同時に寒さも厳しくなり、風が吹くたびに全身が震える。人間である自分がこんなに寒いのだから、ブリンクァスタ人はもっと厳しいだろう。彼らは爬虫類の見た目に反さず、寒さにとても弱い。
しばらく待つと、巨大な体躯が音も無く木々の間から現れた。かなりの厚手をしており、体中に懐炉を付けている形跡がある。間違いなくクァクだ。クァクは私を見て大きな黒い目を細めると、持ってきた折りたたみ椅子を字面に広げた。私の分も持ってきていたので、遠慮無く座らせて貰う。
椅子に腰掛けると、我々はとりとめの無い会話を始める。彼と友人になって以来、いつもこんな感じである。文化の違いや政治の話などその内容は様々であるが、今日話題に上がったのは鈴虫についてだった。
私が鈴虫の鳴き声の良さについてクァクに話すと、彼は不思議そうに首を傾げた。曰く、それがなんだかさっぱり分からない、と。リーンリンと鳴くじゃないか、と一生懸命どんな音なのか説明するが、彼にはまったく理解出来ないらしい。種族の違いによる聞こえ方の違いが原因だと考えたが、軍の出した報告書には人類とブリンクァスタ人の可聴域はほとんど同じだとあったはずだ。聞こえていないわけがない。
一時間ほど説明をし、時には草をかき分けて鈴虫を探し、捕まえ、直接音を聞かせた末に、やっとクァクはその「音」を認識した。言われてみればこんな音が聞こえていたようなする、と彼は言った。しかしその音を美しいとは微塵も思わないという。
美しい、いや美しくないという押し問答を続けたが、寒さがかなり応えたのでその日は一旦お開きになった。
次の日の夜、クァクは分厚い本と持ってきた。そして付箋の貼ってあるページを開いてライトを照らす。人間と会っていることが見られると問題なので、光量はかなり落としてあった。
その本は言語学に関するものであった。それによると、普通左脳が言語、右脳が言語以外の雑音の処理を行っているが、幼少期に人類の言語、とりわけ私が属する国の言語を母国語として育つと自然界の様々な音を左脳で処理するようになり、虫の声を始めとする自然の音を言葉の様に左脳で聞くというのだ。言われてみれば鈴虫やコオロギの鳴き声に関する歌は古来から伝わり、「リーンリン」とその音を文字にすることができる。それはきっとブリンクァスタ人にはないものだ。ブリンクァスタ人は言語を彼ら独自の人工言語で統一しており、クァクは私と同じ言語は後から学んでいる。母国語がブリンクァスタ語である以上、彼には鈴虫の鳴き声は単なる雑音にしか聞こえないのだ。
この話題は我々二人にとって大変興味深いもので、クァクは私に自然界の音を言葉にして教えて欲しいとせがんだ。私は川のせせらぎや木々のざわめきを言語化してクァクに聞かせると、彼は満足そうに目を細めた。
別れ際にクァクは空を見上げ、私に何か聞こえるかと尋ねた。色んな音が聞こえるのでどの音か分からないと言うと、クァクはこう言った。
私には星の鳴き声が聞こえる、と。
言語化は難しいが、星の瞬きと共に感じられる音があり、とても心を安らかにさせる音色なのだそうだ。クァクが帰ったあと、私は地面に横になってずっと星空を見つめていたが、その日はついぞその「音」を認識することができなかった。
しばらくの間、クァクは約束の場所に現れなかった。その間私は暇であったので、夜になるたびに外出しては星を眺める日々が続いた。しかし周りの音が多すぎて何も分からない。ある時はこの付近で一番高い山に登ったりもした。またある時は夜中にこっそり気球に乗ったこともあった。そうやって地上の音から離れても、何も聞こえなかった。
そうして一ヶ月経ったある日、クァクが再び林にやってきた。彼は星の鳴き声は聞こえたか、と私に尋ねたが、私は首を横に振るしかなかった。
溜め息をついて再び夜空を見上げたその時、凄まじい破裂音が辺りに響き辺り、我々は衝撃波で地面に倒れた。恐らく何かの兵器が誤って近くに着弾したのだろう。
風は止まり、虫も鳴くのを止めた。
世界は無音で包まれる。
そして耳が少しずつ慣れてくると、私はハッとして目を瞑った。今確かに何か――
それは言葉に形容しがたいものだった。二つの光子がぶつかった時に音が鳴るとするならばこんな音なのではないかという音が、断続的に、そして全天球から聞こえてくるように感じられるのだ。聴覚が元に戻り、虫の声や風の音が聞こえるようになっても、注意深く耳を澄ませばその音を聞き取る事が出来る。ただ、その音に安らぎを感じられるかと言われたら、そんな事は全くなかったが。
私と同じように倒れているクァクに興奮気味にこの事を話すと、彼は目を細めて、これは祝福の歌なのだと語った。ブリンクァスタ人は祭りを好み、毎月のように何かの催し物をするが、それが終わると決まってこの音に耳を傾け、今日の平和に感謝するのだそうだ。そしてその音を私が聞けたことをとても喜ばしく思う、と笑った。
遠くで射撃音が聞こえたため、我々は慌てて帰ることにした。クァクは去り際に、鈴虫の鳴き声に少し美しさを感じられるようになったかもしれない、と呟いた。この一ヶ月の間、彼はずっと草むらで耳を傾けていたのだそうだ。私も星の鳴き声の美しさを理解するように努めると言うと、彼は再び目を細めた。そして林の中に消えていった。
それがクァクを見た最後だった。
・・・
戦争が終わった。
結果から言うと、ブリンクァスタ人は一人残らず人類に殲滅された。そしてそれは人類の勝利を意味する訳ではない。双方自然を破壊することを望まなかったので、人類はブリンクァスタ人だけを、ブリンクァスタ人は人類だけを死滅させる兵器の開発に力を注いだ。その結果が同士討ちだった。これは人類とブリンクァスタ人のどちらが速く死に絶えるかというだけの話で、たまたまブリンクァスタ人の方が速かったというだけだ。人類もそろそろ終わりを迎えるだろう。
ライフラインが全て止まった家を捨て、私は例の林に来た。体中にどす黒い斑点が浮き出て、ところどころ出血している。死ぬのも時間の問題だった。いつもの待ち合わせ場所に来ると力なく横になった。雲一つない星空で、人工の光という光が消えた今、溢れそうなほどの星が瞬いていた。そして今まで一番大きい祝福の歌が耳に入ってくる。私にも少しだけ、その良さが分かるようになっていた。
ブリンクァスタ人は死んだ。つまりもう星の鳴き声の価値を知るものはない。私を除いて。
そして残り少ない人類が滅べば、鈴虫の鳴き声の美しさも永久に失われる。
星の鳴き声も、鈴虫の鳴き声も、片方にとっては価値あるもので、片方にとってはただの雑音だ。
しかしもう、音を美しいと思う者も、音を不快だという者もいなくなる。そして音を意味の無い雑音だと思う者も。
私が死んでも音は残る。
しかし、価値は消えてなくなる。
意識がどんどん薄れていく。
最後に私が思い出したのは、クァクが目を細める姿だった。
ああ、もうすぐこの星に訪れる。
雑音のない世界が。
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