「先輩、買ってきましたけど」
『おう、部屋の前に置いといて』
 機械越しの先輩の声。僕は言われた通り、買ってきた肉と野菜を置いていく。もう長いこと本物の声は聞いていない。トランシーバー越しの、雑音混じりの声ばかりだ。
 美川結子先輩は、一言で言うと『変』な人だ。四六時中パソコンと向き合って研究に打ち込んでいて、部屋からはほとんど出ない。親しい人たちに聞いても『年に一回見るか見ないか』だという。

「先輩、ノブに掛かってるこれを出せばいいんですね?」
『頼むよ。速達だ』
 僕はちょっとしたツテがあって、その美川先輩の手伝いのバイトをすることになったのだが、その内容は買い出しを代行したり、書類をポストに入れたりと、先輩が外に出たくないがための雑用係。その僕とも、顔を合わせることもなく、連絡もトランシーバーで取り合う始末。とにかく引きこもり体質の人なのだ。

「先輩、荷物届いてました。何買ったんです?」
『秘密だ。……キミ、絶対に中見るなよ』
 先輩はプライベートな事は何も教えてくれない。寝て起きる時間と何を食べているのかは推測がつくが、どんな小説を読んでいるのか、どの映画を見たのか、2番めのチャンネルは見ているのか、などと聞いても何も答えてくれない。何を聞いても『あー、そうだな』だ。だから当然、密林の中身もシークレット。

「先輩、食材買ってきました」
『…………入ってくれ』
 どきりとする。こんな風に言われるのは初めてだ。
 正直なところ、僕には先輩を女性として意識する気持ちがある。それはもう、非常にある。でなければ、こんな割に合わないバイトはやっていない。文字通り、好きな女性の部屋に初めてお呼ばれしたのだ。浮ついて当然だ。
 先輩はベッドでぐったりしていた。風邪のようだ。
「熱が39度もあったんだよ。多少寝たから落ち着いたがね」
「でも、安静にしておかないとダメですね」
「そうだな」
 先輩が咳をする。久々に聞いた先輩の生声は、喉がガラガラになっていて弱々しかった。少し残念だけどそんなことを言ってる場合ではない。僕はお粥を作って先輩に食べてもらった。
「ありがとう。キミは料理がうまいんだな」
「なんだったら、いつでも作りますよ」
「悪いが断るよ」
 にべもない。
 先輩の部屋は、思っていた以上に殺風景で、整然としている。部屋の整頓はかなり念入りにしているらしい。
「あまり人の部屋の詮索をするんじゃないよ」
 言われてはっとする。あからさまに見回しすぎたらしい。
「何もないよ。人に見られて困るものは隠す主義なんだ」
 普段は部屋に誰も入ってこないというのに、凄い徹底ぶりだ。
「あれだ、乙女は秘密を持つってやつだ」
「先輩も乙女なんですね」
「……今日は来てもらって助かった。もう大丈夫だから帰っていいよ」
「あ、いや、そんなつもりでは」
 なかった、とは言えないけど。先輩が少し茶目っ気を見せたと思ったから、乗っかってみただけだったのに。先輩は厳しい。

「先輩、買ってきました」
『おう。置いていってくれ。……ゆっくりでいいからな』
 僕の働きぶりは少し熱心になった。頻繁に部屋を訪ねて用事がないか聞くようになったし、依頼の達成速度も上がった。またあんな嬉しい出来事がないかと愚かな期待をしているからに他ならない。
 いつも通りの雑音混じりの声も、今は少し心をはずませる。
『まあ、頑張りたまえ。私は手強いよ』
 ……すべてわかった上で、いいように扱われている気がしないでもない。
 それでも僕は雑用を続けよう。いつか先輩の本来の声を聞ける時が来るように。


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