四谷から少し外れたところにあるバー「Rouge et noir」は私の第二の家だ。
今日も丁寧にドアをノックしてから入ると、狭い店内のカウンターでマスターが
「やぁ、今日も月がきれいだね」
と出迎えてくれる。
私はシルクハットとテールコートを入り口横のラックに掛け、一番奥の席に座る。
ここが私のポジションだ。
マスターからおしぼりとマッチを受け取り、煙草に火をつける。
煙草を一度ふかししてから注文をする。
「マスター、いつもの」
そう告げると、ほぼ間をおかずにドメーヌ デ スーリエ グルナッシュの赤がグラスに注がれた。
「おいおい、客が注文する前から用意してたのかい? マスター」
「ムッシュの考えは全てお見通しだよ」
「はっは! 面白いことを言うなぁ、じゃあ次が俺に言うことも当てられるかい?」
「小皿ピーナッツと生ハム。おいおい、年寄りの記憶力を試すようなことはよせよムッシュ」
「やっぱりわかってるじゃないかマスター。じゃ、それをお願いするよ」
この赤ワインと「Rouge et noir」のピーナッツ、生ハムが私の血液を構成するすべてだ。


「Rouge et noir」は、東京の喧騒から隔絶された都心の隠れ家だ。
営業してるか一目には分からないこの店はいつも客が少なく、それ故にとても落ち着く。
そして、この親愛なるマスターと夜を過ごすのが退職後の私の日課だ。
「はい、お待ちどう」
今日もピンク色の綺麗な生ハムだ、イベリコ産のものだろう。
一枚を口に運ぶとイタリアの草原の香りが口の中に広がる。
「あぁ今日も最高だよマスター」
「そいつはどうも」
更に赤ワインを口の中に流し込む、それ以上の幸せはない。
しかし、その幸せは突如として崩れ去った。
「おっ! 開いてんじゃんー! おっさーん、3人で!」
乱暴にドアを開ける音と共に明らかに大学生の男が入ってきた。
「おっけー! めっちゃ空いてるぜここ」
男がそう外に向かって言うと、男と女が1人ずつ入っていた。
どちらもやはり大学生のような見た目で、かなりチャラチャラしている。
彼らは、入り口側から詰めてカウンターに並んで座った。
この店はカウンター5席しかないので、私とは1席挟んで横並びだ。
マスターが苦々しい顔をしていることも気にせず、彼らは「外ちょー寒かったね」などと言いながらメニューを決める素振りもなく騒いでいる。
5分ほどしてやっと彼らは「生3つ!」と注文して、また喋り始めた。
私はこの空間を抜け出したかったが、ワインはゆっくり味わうものなのでまだ席を立てずにいた。
「それじゃ、かんぱーい!」
「「かんぱーい!!」」
「今日俺さ、みゆきちゃんとマジ飲みたかったからマジ楽しいんだけど」
「えーマジー? ちょーウケる笑」
「ほんとほんと、洋司さ、ずっとみゆきと飲みたいって言ってたよ」
「えーうれしー? もっかいかんぱーい」
「いぇーい! かんぱーい!」
「二人とも飲むペース早くない? 二軒目なんだからもっとゆっくり飲もうぜ」
「いーじゃーん。明日授業三限からだしさ、朝まで飲んじゃおーよ」
「そうそう、隆史は真面目過ぎだっての。すいませーん、この店何時までやってますか?」
「………11時に閉めます」
「おわっ、マジっすか。じゃあ11時なったらもう一軒行くぜ!」
「いぇーい!!」
「分かった分かった。あ、すいませーんポテトフライと生ハムお願いします。」
「さっすが隆史、良いチョイスじゃん!サイコー!」
「だろ? 全部俺に任せとけって」
「うわ、調子乗ってるぜこいつ。ほい一気しろ一気」
「何でだよw」
「はーいそれそれそれ!」
「じゃあ、俺と洋司でじゃんけんして負けた方がイッキな」
「か~ら~の~?」
「…はーい! じゃあイッキします!」
「「そーれ! よいしょよいしょよいしょ!」」
「ぷはー! うめー!」
「隆史飲みっぷり良いね! じゃあ俺も!」
「お前もやるなら俺飲まなくていいじゃねえかwww すいませーん、生もう1つ!」
「あ、俺はハイボール1つ!」
「えーわたしも何か頼もっかなぁ…じゃあピーチサワーありますか?」
「………すいません、ございません」
「えーじゃぁあ……何かおススメありますかぁ?」
「……ピーチ系ならファジーネーブルがございますが」
「じゃあ、それで!」
「お、みゆきも結構飲むね」
「えーだってちょー楽しいんだもん!」
「それな!! 隆史ももっとアゲてけよ!」
「十分乗ってるって ほら!」
「おおおお! またイッキしやがったこいつ! マジやべーって!」
「おらぁ! 見たか! ……っととっイテッ!」
「ハッハハハハハハ!!! マジウケる!!」
「隆史、なんかぶつけて落としてんぞ! 暗くて見えねぇけど」
「いってて、え?……あ、ホントだ。これ、帽子?」
「あ、それテレビで見たことある! 髭男爵のデブが被ってるやつやん」
「それだわ!それ! みゆきちゃんて~んさ~い」
「でしょ? ちょー言われる」
「あとマジックする人が被ってないっけ? なんかそんなイメージあるけど」
「あーそれあるわ~。それだわ~」
「………あの、そちら奥のお客様の物ですので」
「あ、そっすか? サーセン、戻しときまっす」
「ちょーベタベタ触っちゃったんですけどー。おじさん、ごめんなさ~い」
「すんませ~ん、こいつが落としちゃったんで、お詫びにイッキします!」
「しねーよ! …ったく、すんませんでした」
「……いえ、大丈夫です」
「ねーねー、あの人ってマジシャンなのかなぁ?」
「俺は違うと思うけど、なんかすげーマイペースそうだし」
「あ、ちょっと分かる~! じゃあ髭男爵のお父さんとか?」
「それだわ~! みゆきちゃんマジて~んさい!!」
「っしょ」
「お前ら声デカいっつーの。それよりさ、この後どこ行く?」
「トリキとかでよくね? 安いし」
「ん~私はどこでも~。飲めればおっけ~」
「じゃあどっか出て歩いて探すか。この店ちょっと暑いし涼みたい」
「それな! ちょっと歩きまっしょい!」
「何それアハハ! ちょ~おもしろい~」
「じゃあ行くか。すいません、お会計お願いします」
「………はい、5200円になります。」
「えーっと、割り勘するといくら?」
「分かんね。とりあえず出しとくからあとで計算な」
「ひゅー! 隆史イッケメーン! ゴチでーす!」
「あざーーっす!!」
「奢らねえって! 一軒目の分とまとめて割り勘な!」
「うわ~引くわ~」
「引くわ~」
「はいはい、出るぞ。ごちそうさまっした~」
「あざっした~」
「あざっす~」
「………ありがとうございました」
バタン
「………ワイン空ですけど、どうしますか?」
「……帰りますよ、マスター。今日は少し風が強いみたいだ」
「大変失礼しました。また是非お越しください、ムッシュ」
「あなたのせいじゃないですよ、マスター。明日には明日の風が吹きますよ。はいお代」
「ありがとうございました。それでは、お気をつけて」


店の外に出ると、嵐が過ぎ去った後のような少し生ぬるい風が吹いていた。
彼らはあくまで客であって、私が「Rouge et noir」を家だと思っているのとは全く違うのだ。
彼らはもう一度来るかもしれないし、来ないかもしれない。
一期一会だと思えば、異文化に触れることも貴重な経験だ。
若者はシルクハットという名称を知らない、そのことを私はこうして知ることが出来た。
そんな一日があってもいいんじゃないかな?
何十年ぶりになるか、コンビニで缶ビールを買って自宅のマンションに戻った。


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