「ねぇねぇ、ちょっと来てよー」
「はいはい」
皿洗いの手を止め、リビングのソファに寝転がっている妻の元へ向かう。
「ほら早く早く、お腹蹴ってるから!」
「分かったって」
彼女は、お腹の中の子供が何か反応を示すたびに笑顔で俺を呼びつける。
新たな生命が自分の体内で躍動している感動を共有したいのだろう。
もう臨月なので彼女の呼びつけにも慣れたし、いちいち面倒くさがる方が手間なので、そっとお腹に耳をあてる。
パンパンに膨らんだお腹はゴロゴロと独特な音を立てている。
「ね、元気でしょ! 絶対男の子だと思うなぁ」
思うも何も、出生前診断で男の子だということはだいぶ前から知らされている。
何度も聞いた音で、特段面白いこともないので妻の腹から耳を離す。
「元気なら男の子でも女の子でもどっちでもいいんじゃないか?」
事実、男の子女の子にこだわりはない。でも、妻は違うようだ。
「そーかなぁ? 私は男の子の方が良いなぁ。やっぱり長男が良いって」
「一姫二太郎って言葉もあるけどね」
「生まれる前から二人目? あはは、気が早いなぁ雄二は」
「あ、いやそんなつもりじゃ……。とにかく、皿洗ってるから先に風呂入っといて」
ささっと立ち上がり、洗剤にまみれた食器が積まれた台所へと戻る。
「えー! もっとお腹の音聞いていきなよー。ほら、また蹴った」
俺は妻の方を一瞥し、少しだけ笑って風呂に行けと促す。
彼女も俺がもう一度聞きに来ることは期待していなかったようで、ゆっくり起き上がり風呂場へと向かった。
風呂の温度に影響を与えないように、俺は台所のお湯を水に変えた。
家族暮らし用のマンションなんだから、お湯くらい自由に使いたいものだ。
別に妊婦だから気を遣っている訳じゃない。
いっそ、子供は生まれてこなければいいとさえ思っている。

――3か月前。
妻の携帯電話を覗いてしまった自分にも非はある。
それでも、1年以上前から見知らぬ男と逢瀬を重ねている罪の方が何十倍も重いだろう。
妊娠していることが分かってからも2回会っているようだ。
考えたくもないが、妻の腹の中の子どもの父親は俺ではなくて……。
妻の腹に耳を当てるたび、仄暗い気持ちがこみ上げてくる。
新たな生命が立てるゴロゴロという音は、爆弾が産み落とされるまでのカウントダウンのようなものだ。
タイマーがゼロになった瞬間、その爆弾は明確に存在するものとなる。
胎動が立てるゴロゴロという音は、嫌と言うほど聞かされてきた。
その度、生まれてきた後のことを意識させられて陰鬱な気分になった。
俺は産声を聞いても、それを歓迎することは出来ないだろう。
しかし、臨月ともなると悠長なことは言ってられない。
すでに生まれてくる子ども用の服からベッドまで全て揃えてある。
来月、幸か不幸か、俺は親になるのだ。

残った洗い物を済ませた俺は、まだ妻の温もりが残るソファに腰かけ、一つため息をついた。
そしてポケットから携帯電話を取り出し、ブックマークに登録されている見慣れたページを開く。
親子のDNA鑑定と言うのは案外簡単に出来るといった趣旨の文章が長々と書いてある。
しかも、妻と子供の唾液がついた布や毛根が残った毛髪などを送れば鑑定してくれるらしい。
ただ、それは生まれた後の話だ。
生まれる前に鑑定するには、羊水を使用しなければいけないらしく、妻に隠れて検査することはできない。
妻との関係を第一に考えていた俺は、とうとう何も言い出せず臨月まで来てしまった。
正直に言ってしまえば、子供が心から欲しかったわけではない。
ただ、子供への思い入れがないからと言って、自分の子供じゃなくてもいいという訳ではない。
愛する人が産んだというだけで、見知らぬ男の遺伝子が半分組み込まれている存在を「我が子」とは到底思えない。
いつも答えが出ない問答を脳内で繰り返していると、妻が風呂から出てきた。
立っている姿を横から見ると、そのお腹の大きさがより一層伝わってくる。
見た目には分からないが、耳を近づけると、あそこには単なる脂肪ではなく微かな音を立てる生命が宿っていることが分かる。
「お風呂あいたよー」
そう言った妻から目線を反らし、「おう」とだけ答えた。


漫然と過ごしているうちに、その日は訪れた。
会社で残業をしていると、私用の携帯電話が振動した。
妻のかかりつけの産婦人科からの着信だ。
そろそろだと聞いていたので、俺は冷静に通話ボタンを押した。
「○×病院の田原です。すいません、佳香さんの旦那様でよろしかったですか?」
「はい、間違いないです。」
「すいません、陣痛が始まって間もなくお子さんが生まれそうなので、病院までお越しいただけますか?」
「えーっと、はい、1時間ほどで行けると思います。」
「分かりました。夜間なので通用口からお入りください。それでは失礼します。」
事務的な電話のやり取りを終え、残りの仕事は明日やる旨を課長に伝えると自分のことのように嬉しそうに
「おぉ、そうか! いいから仕事なんか俺に任せて早く行きなさい。明日も休みなさい。」
と言いながら肩を強く叩いてきた。
「お言葉に甘えて」と頭を下げ、必要最低限の処理だけ済ませて会社を出る。
外に出ると頬を軽く撫でる程の小雨が降っていた。
折り畳み傘を取り出すか迷ったが、タイミングよく通りかかったタクシーをつかまえて病院へ向かった。
タクシーの中で妻と自分の実家にそれぞれ連絡を入れ、ふぅっと息をついてシートに深く腰掛けた。
「お客さん、おめでたですか?」
「そうですね、もうすぐみたいです。」
電話の内容を聞かれていたようだ。
タクシーには久しぶりに乗ったが、運転手との距離感は確かにこういうものだった気がする。
「それはそれは、おめでとうございます。元気な子が生まれると良いですね。」
「ありがとうございます。そうですね。」
「子どもはいいですよ。私にも9歳の娘がいますけど、これが本当に可愛くて。この前は運動会だったんですけどね―」
運転手は交差点でスピードを落とさず曲がりながら、器用に話しかけてくる。
上司も見知らぬ運転手も出産を祝福してくれる、それは当然だろう。
妻の出産という出来事に高揚感が全くないわけではないが、「嬉しい」という言葉は今の気持ちを表す言葉ではないだろう。
タクシー運転手の話は続いているが、耳に入ってこない。
「すいません、窓開けてもいいですか?」
「え? えぇ、どうぞ」
窓を開けると少しだけ雨が車内に入ってきたが、その冷たさが少し気持ちを落ち着けてくれた。


病院の敷地内にタクシーを止めてもらい。指定された通用口から病院内に入り、分娩室がある2階へと向かう。
少しだけ鼓動が早くなる。
2階では看護師が私を待っていた。
俺は軽く会釈したが、看護師はそれを気にも留めず走り寄ってきた。
彼女は青く薄い手術服を握りしめていた。
「佳香さんの旦那様ですか!?」
看護師は焦っているように大声で呼びかけてくる。
「あ、はい! もうすぐ産まれそうなんですか?」
「いえっ…あの落ち着いて聞いてください! ……お子さんが大変危険な状態にあります」
「あの、えっと、どういう意味ですか?」
全く予期していなかった言葉に、更に鼓動が早くなるのを感じた。
「簡単に言うと、へその緒が赤ちゃんの身体に絡まって締め付けていました。へその緒は切ったのですが、まだ呼吸をしていなくて……」
「それは………」
「今、医師が必死に処置しています。なので、こちらでお待ちください」
「その手術着は……」
看護師が握りしめていたからであろう、くしゃくしゃになっている手術着は俺に用意されたもののはずだ。
「今は分娩室には入れません。申し訳ありませんが、こちらでお待ちください」
看護師は落ち着きを取り戻したようで、冷静にそう告げた。
俺はどうすることも出来ず、分娩室の前の長椅子に一人腰掛けた。
看護師は俺が落ち着いたと見て、分娩室に戻って行った。
全く気が付かなかったが、携帯電話には病院からの着信が5件入っていた。

これはバツなのだろうか。
はたまた救いなのだろうか。
俺は生まれてくる命を心からは歓迎していなかった。
しかし、生まれることを半ば諦める形で受け入れていた。
産まれてからDNA鑑定して、そして……。
   そして、どうするつもりだったんだ?
仮に自分の子だったとしても、妻の不義の事実が消えるわけではない。
その時、2人の家族を心から愛することは出来るのだろうか。
一方で、自分の子でなかったとして、離婚届を突きつけて妻と縁を切る覚悟なんて全くなかった。
俺は結論を先延ばしにして、何も考えていなかっただけだ。
何の覚悟もないまま、とりあえず子どもが産まれてから考えようと、新しい生命をそんな態度で迎えようとしていた。
人として、親として問題ありと神に断罪されたのだろうか。
俺は胎児に対して、親として何もしていない。
どうせ届かないと冷めた気持ちで、一度だって話しかけたことはない。
俺と胎児の関係は、妻のお腹を通して「ゴロゴロ」という胎動の音を聞くだけのものだったのだ。


何時間待っても、産声が聞こえてくることはなかった。


「あなたも辛いと思いますすが、一番辛いのは奥さんです」
「出産時にへその緒が絡まることを臍帯巻路と言いまして、母体に原因はありません」
「稀に起こる事故で、誰が悪い訳でもありません」
「またお子さんを授かることも出来ます」
そのようなことを、一人で医師に呼び出されて告げられた。
妻は出産の疲労と精神衰弱で病棟で安静にしている。
先ほど眠りについたと看護師が伝えてくれた。
時計を見るともう深夜2時を回っているが、眠気は来ない。
まとまらない思考を放棄し、ただ起きているだけの状態だった。
しかし、いつの間にか眠りに就いていたようで、硬い長椅子の上で目を覚ました。

翌日、俺は会社に行って上司に簡潔な事実だけを伝えた。
遠慮せず有給を使えと言ってくれたが、変なことばかり考えたくもないので通常通り出勤した。
妻のケアは、妻の父母に任せて自分は仕事に打ち込んだ。
10日ほどして、妻は食事を自分で摂れるようになって退院した。
それから更に約10日後、少しずつ元気を取り戻してきた妻は、俺に全てを話した。
俺と結婚してからも、昔の彼氏と関係を持っていたこと。
今回のことはそのバチが当たった結果だと。
そして、避妊はしていたしお腹の子は間違いなくあなたの子だったと。
俺は痩せた妻が泣きながら謝る姿を見て、怒りの言葉も許しの言葉も出てこなかった。
ただ「うん」と頷いてその場を離れた。
また結論を先延ばしにしただけだった。
ただ、先延ばしにするということは許すということに近い気がする。
それで良い気がした。
自室に戻り、机の引き出しを開ける。
引き出しの奥には、使われなかった「DNA検査キット」が保管されている。
検査キットの袋には「母」「子」「擬父」と書かれている。
「擬父」というのは、父親と疑われる者という意味で使われているらしい。
単純にDNA検査をする前の段階では、本当の父親か分からないということだ。
血縁上父親かどうか疑わしく、そして父親としてふさわしい人間かどうか疑わしい自分にピッタリ当てはまる言葉な気がした。

結局、爆弾が産み落とされることはなかった。
しかし、それは消えることのない傷を、妻と俺に残した。
時おり、ゴロゴロと胎児が動く音が、耳に張り付いて離れない。
その少し耳障りだと感じていた音は、擬父の俺に何かを語り掛けていたのだろうか。


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