組んだ両手に顎を乗せ、歩道橋の上から北風の吹いてくる方へ顔を向ける。
 風の先、闇の向こうを見渡したかった。

 月灯りは街を照らし、等間隔に並ぶ街灯は道を照らし、車のランプは思い思いのスピードで輝きながら道を走り抜けていく。
 穏やかな風が葉一つ残っていない枯木を縫って素通りしていく。
 長く南北に伸びる二車線が上りと下りで川を挟んで向かい合っているこの大きな道路の終わりは見えずどこまでも続いている。それは振り返って南を見てみたところで同じことだろう。
 欄干についた両肘から鉄骨の容赦のない冷たさが服など無いかのようにジリジリと伝わってくる。
 塗装が所々剥げて錆びは露出し、剥がれかけた塗料の薄っぺらい膜は寒さを運ぶだけの風に弱々しくはためき続けていて、今にも飛んで落ちていきそうだった。それは私の羽織っているコートやマフラーも同じかもしれなかった。
 伸ばした髪が風になびいて額を露わにしていた。
 ふとこぼした溜息が一瞬だけ目の前に白く漂うも、霧散し透明になって背後へと流れていく。
 まばらではあるが深夜でも視界のどこかを車が走っている。北から南へ来る車がほとんどだ。仕事から帰ってくる人たちだと思う。早朝は逆向きに行く車が渋滞を作るから。
 重たい頭を浮かせ、組んだ手のひらをほどくことなく空に回し向け、両腕と背を伸ばして大きく息を吐き出す。寒さの中だと短い間であちこちが凝ってしまう。耳も痛くなってくる。
 それでも時々こうやって目的もなく眺める、車が走っているだけの夜景が好きだった。
 それなりに人口は多いこの街だが、屋上やこの歩道橋の上のように少し高い位置に来れば月だけでなく星も少し見える。
 ありとあらゆる方向から光が届くこの場所がお気に入りだった。
 私の隣には一台のNシステムのカメラ筐体がある。細い支柱の先端に取り付けられた大きな直方体のカメラは強い風が吹いたら折れるか落ちるかしてしまいそうだが実際のところはびくともしない。休むことなく道と車を隈なく捉え続けているに違いない無機質なその一台はSF映画に出てくるドロイドの頭部のようだった。
 彼は本当は何を見ているのだろう。北を見下ろすレンズの奥には何が写っているのだろう。案外、彼から伸びたケーブルの反対で誰かが欠伸をしながら画面を覗いているだけかもしれない。
 物思いから覚めろとばかりに彼と私の間に置かれていた缶コーヒーが風に揺れて微かな金属音を響かせた。買ったときはホットだった缶コーヒーはとっくに冷めていた。
 スチールのひんやりとした感触が唇に触れるのも、最早ただのアイスコーヒーが喉を通り体の内を冷やすのも、頭が冴え渡るような気がして意外と心地いいものだ。
 このまま、ずっと、眺められるだけ眺めていたい。
 でもあんまり長居をすると私も冷えきって風邪を引いてしまう。凍え始めていた手を空き缶ごとポケットに突っ込んでようやくその場を去る決心をした。
 走り行く車より少し高く、橋桁の中心。
 東へ行こうか。
 それとも西へ行こうか。
 大きな舗装道路とは垂直に、あてもなく歩き始めた。
 階段を下り、私は地平線の中にいる。
 眼下を走っていた車は向かい風を強めるかのように颯爽と歩道の隣を通り過ぎて行く。
 地上から星は見えなかった。
 
 道路の西側から北へ向かって鈍く歩いていた私の横をしばらく車が通っていなかった時だった。
 明らかに車のエンジン音ではない音が背後から空を切って聞こえてきた。車道と歩道の境目を高速で走ってくる何かの音が、体感ではゆっくりと実際にはほんの一瞬で近づいてくる。
 そしてそれは私のすぐ横を静かに通り過ぎて行った。
 一人の自転車乗りだった。
 前のめりに立ち漕ぎでペダルを回しながら車と変わらないほど高速で走っていく姿は軽快そのもので、自由そうで楽しそうに見えた。
 前後をライトで照らし、反射板をあちこちに光らせる自己主張の強い輝きになぜだか強さを感じた。
 自分の身体だけを動力として進む自転車に確固たる信念めいた何かを感じずにはいられなかった。
 あんな風に自分の力で気持ちいいほどまっすぐ前に走り続けられたなら。
 耳に残ったチェーンの回る音が冴え渡ったはずの脳内を滅茶苦茶に駆け回り続けた。
 ほんの少し吹いた追い風に髪が揺れた。

 小さな光を纏った自転車乗りの背中は夜の向こう側にあっという間に消えていった。
 私はまた歩き出す。少しだけ歩幅が大きくなった気がした。
 


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