公園の入口に自転車を停め、その脇にある公衆トイレに入る。
尿意や便意を催した訳ではなく、自転車で走ったせいで乱れた髪を直すためだ。
薄汚れた鏡を見ながら手で梳いて直せる範囲で整え、トイレを出ると俺の自転車に跨っている少女がいた。
「おはよーなお先輩。トイレ?」
「おう、まあそんなところ。遅れると思ってたけど早かったな」
「十時に公園集合って言ったのはなお先輩じゃん。だから急いで準備してきたのに」
双葉はそう言いながら足をバタつかせている。
「ちょっと今日は遠出するからな。ちゃんと自転車で来たか?」
「一応チャリで来たけど……そろそろどこ行くか教えてよー」
実はまだ今日の目的を双葉には話していなかった。
「それはだな……琵琶湖だ!!」
「え、琵琶湖!?」
双葉は自転車のベルを鳴らしながら、大きな声を上げた。
不満なのか、ただ驚いているのか。よく分からない反応だ。
「知らないか? 琵琶湖ってのは滋賀県にある日本最大の湖で、その面積は滋賀県全体の6分の1ほどで、淀川・宇治川・瀬田川の源流になっていて……」
「そういうことじゃないよ! こっから琵琶湖って結構遠いんじゃない?」
「そうでもないぞ。ここ船岡山から自転車で片道1時間ちょっとだ」
「えーちょっと遠い……でもまあいいか。先輩が行きたいんなら」
双葉は文句を言いながらも少し楽しそうだ。
「じゃあ行くぞ、ほら、そこどいて」
「ほーい」
と間が抜けた声を出しながら、足を大きく上げながら俺の自転車から降りる。
スカートの下からちらっと白い布が見えた。
今日の旅、幸先が良いなと考えながら俺は東の方を向いてペダルを踏み込んだ。
後ろをちらっと振り返ると、双葉がニッコリ笑っていた。

「なお先輩、こっちこっち!」
「前見ろって、前!」
橋を渡ったと思えばテンションを上げて土手に降りていく双葉。
「鴨川好きすぎるだろ」
「いいじゃん。良くない? 鴨川。水は綺麗だし、日があたって気持ちいいし」
双葉は鴨川マニアだ。事あるごとに鴨川に行きたがるし、自主練もほとんど鴨川べりでしているらしい。今日も絶対に通りたがるだろうと思っていた。
「まっすぐ伸びてて、ずーっと向こうまで見渡せるのも好き」
進行方向に向かってビシッと指を伸ばす双葉。
「んーでも、他の川も似たようなもんじゃないのか?」
「全然違うよ。先輩ぜいたくだなー。近所にこんなにいい川があるのにありがたみを知らないんだ」
双葉は中学の時に京都に越してきた。それ以来の鴨川好きだ。一方俺はと言うと、小さい頃からこの町で過ごしているからそれが当たり前で、好きも嫌いもなかったりする。
「ま、風がある日は涼しくていいけどな」
「わかってないなあ」
川べりにはそこそこの人がいる。子供のキャアキャア騒ぐ声。ジョギング中のおじさん。少し走りづらい。ま、夏休みのうえに土曜だからな。できれば平日が良かったけど、双葉の部活があるからこればかりは仕方ない。
「どこまで南下すればいいんだっけ?」
「二条で上にあがるぞ。そんで仁王門通りまで行く」
昨夜グーグルマップを見ながら構築したルートを脳裏に浮かべる。実は俺も電車を使わずに行くのは初めてなんだよな。
「で、そっからまた東だ。琵琶湖疏水の横を通るぜ」
「ほう。琵琶湖の恵みを今のうちから味わっとくわけですな」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
そんな事を言ってるうちに二条大橋だ。土手から上がり、街中を走っていく。
このあたりの街並みは俺も好きだ。都会すぎず田舎すぎず、なんとも言えない情緒がある。鴨川ほどじゃないがそこらに水の流れがあるのも涼しくていい。
「相変わらずデッケェな」
左手に見える平安神宮の鳥居に目を向けて言う。
「うん。それにすごい赤い」
それに双葉が真面目な顔で返すので吹き出してしまう。
「赤いのは当たり前だろ。鳥居なんだからよ」
「でもあれだけ大きいんだよ。風化したら塗り直すのにもお金かかるでしょ。相当儲けてると見たね」
親指と人差指で輪を作り、人の悪い笑顔を作る双葉。
「と言いつつ、よくわかってねえだろ」
「まあね。そもそも神社ってどこからお金取ってるんだか。お寺はお葬式とかあるけど」
そんな事を言ってるうちに上り坂に差し掛かる。
左手には線路跡、右手には発電所。周囲に山が目立ってくる。『京都の街』はそろそろ終いだ。
「線路、結構人歩いてるね。いつ頃まで稼働してたんだろ、これ」
「相当昔じゃねーのか? トロッコみたいなもんだろ」
だんだん日射しが強くなってきた。言ってしまえば行楽日和ってやつなのかもしれないが、あんまり暑いのは勘弁してほしいもんだ。
少しだけ自転車のスピードを上げた。

信号待ちのタイミングで携帯電話を取り出し、地図アプリを開いた。
一本道が続くことは予習済みだが、見慣れない土地なので少し不安は残る。
だが、まだ当分道なりに進めば大丈夫なようだ。
「ねえ、あとどれくらい?」
信号待ちになって横に並んだ双葉が尋ねてきた。
一度閉じた地図アプリをもう一度開いて確認してみる。
「ちょうど半分くらいじゃないか?」
「え―? 結構漕いだ気がするんだけど」
双葉は自転車のベルをチリチリ鳴らしながら不満そうな顔をしている。
「疲れたなら休憩するか?」
「体力は大丈夫だよ、一応私も運動部だし、鍛えてるし」
双葉は女子ソフトボール部でセカンドを守っている。
ソフトボールは詳しくないが、双葉曰く『パワーはないけど、小回りが利くタイプの私にピッタリ!』……らしい。
確かに双葉の足は筋肉ががっつり付いている訳ではないが、程よく筋肉がついていて、それでいて少し女の子らしい柔らかさもあって─―
「先輩、どうしたの私の足なんかじろじろ見て」
「え!? み、見てねえよ。ぼーっとしてただけで」
「そんな誤魔化さなくてもいいのになー」
双葉はスカートをひらひらさせながら上目遣いでこちらを見ている。
「私がズボン履いてると露骨にテンション下がるんですよね~、先輩。だから、毎回スカート履いてるんですよ」
「ま、まあその話はおいといてだな……ほら信号青だし行くぞ!」
ガっとペダルを踏み込み、俺は思いっきり自転車をこぎ出した。
そこから少し進むと山科駅に近づいてきた。
数回しか来たことがないが、ちょっとしたターミナル駅だ。
更にそこから進むと、高速道路と並行の道になって、車通りも増えてくる。
「せーんぱーい!! おーい!」
後ろを走る双葉が大きな声を出している。
「なんだあー!?」
歩行者がいないので俺も大きな声で応じる。
「止まって!!」
「なんで!」
「いいから!!」
ブレーキを握り、路肩に自転車を停める。
続いて双葉も自転車を停めて降りた。
「どうした、忘れ物か?」
「実は、ちょっとお手洗い行きたくて…探すから少し待ってて」
「トイレ? あと30分かからないし着いてからでも……いっそ琵琶湖にするのはどうだ? 琵琶湖は広いからな、何たって滋賀県の面積の6分の1が――」
「はいはい」
双葉は俺の方に目もくれず携帯電話で最寄りのトイレを調べている。
「よし、見つけた。ちょっと道逸れるからついてきて」
双葉は急いで自転車に跨って走り出した。
しばらくついて行くと、途中から立って自転車を漕ぎ出した。
「おーい、そんなに危ないならもっと早く言えっつの」
「今は黙ってて!」
そう言いながら更にスピードを上げるので、ついて行くのを諦めて、双葉を見失わないようにしつつ速度を落とした。
3分くらい走っているとスーパーに着き、双葉は店内に走って行った。
少し遅れて駐輪場に着いたが、鍵もかけていないようだ。
2台分の鍵をかけ、スーパーで紅茶のペットボトルを買って駐輪場へ戻った。
「遅いぞー先輩。待ちくたびれちゃった」
双葉はさっきの切羽詰まった表情とはうって変わって、余裕のある笑みを浮かべて俺の自転車のサドルに跨っていた。
「誰のせいだよ……ほら、どけ」
「えへへ、ごめんごめん。さ、遅れた分急ご」
「でもここまで来れば3分の2くらいだから。まだ11時だし急がなくても大丈夫だろ」
11時半くらいに琵琶湖に着けば、あっちでダラダラしても夕方には帰りつける。
概ね予定通りの進み具合だ。
「そっかー。よし、行こう!」
「おう」

「せんぱーい、まだー?」
10分後、俺はまた双葉に置いていかれていた。
道が少し上り坂になったが、彼女はそんなことも気にせず元気に立ち漕ぎして加速していた。
視界の真ん中でスカートがひらひらしている。
一方で、俺の方はほんの少し速度が落ちていたようだ。
「これくらいの坂道でへばらないでよー」
「へばってる訳じゃないけど、そんな急がなくてもいいだろ?」
自転車を停めて待っている双葉にやっと追いつくと、彼女はまた自転車に乗ってさーっと走り出していった。
スーパーから国道に戻るとすぐ上り坂が始まり、傾斜は緩やかながら先まで続いているように見える。
「おっそーい! 日が暮れるぞー?」
「まだ正午にもなってねえよ! そんな急いでどうすんだ!?」
「えー? 坂道ってなんかテンション上がらない? 負けないぞーって感じで!」
「部活少女は熱血だな……。バイト戦士の俺にはその気持ちは分からん」
俺は坂も階段も上るのは好きじゃない。3階にある教室まで上るのが面倒で何度学校を休もうとしたことか。
「ふふーん、先輩分かってないね。上った先にあるのはね……下り坂だよ!」
「それがどうした」
たまに双葉はアホみたいなことを言い出す。そこもちょっとかわいいと思ってたが、慣れてくるとただのアホだ。
「まだ分からないの? 自転車の下り坂だよ! 絶対ビューンって下って楽しいよ! ゆずの夏色だよ!」
「へー若いのに懐かしい曲知ってるんだな。良いよな、夏色」
「ね、私すごく好き! 今度カラオケ行ったら二人で歌おうよ!」
彼女は夏色の鼻歌を歌いながら楽しそうに身体を揺らしている。
『若いのに』というギャグはスルーされてしまった。
「良いな。そういえば二人でカラオケって行ったことないか」
「うん。私、先輩の歌声聴きたい!」
「お、任せとけ! あ、あとちなみにだけど」
「ん?」
先を走ってる双葉がきょとんと振り返る。
「多分、双葉が思ってるような下り坂はないぞ」
「なんで!?」
「だって、これだけ緩やかな上り坂だぞ。普通に考えりゃ下りも似たようなもんだろ? ほら」
傾斜を上りきると、そこには予想通り同じくらいゆるやかな傾斜の下り坂が待っていた。
実は下調べした段階で知っていたのだが。
「あ、ホントだ……」
「この傾斜だとブレーキいっぱい握りしめたら普通に止まるな」
「もーうるさい、バカ」
双葉はふんと鼻を鳴らしながらペダルに思いっきり力を加えた。
これくらいの坂をゆっくり下るのも気持ちいいと思うのだが。
でも、この坂を下ればもうすぐ琵琶湖のはずだし、双葉もきっと元気を取り戻すだろう。

「先輩、琵琶湖まだ見えないの?」
浜大津駅の横を通過したが、まだ琵琶湖は見えない。でもかなり近くまで来てるはずだ。
「そーだな。もうそろそろ……あ、あっちじゃねえ?」
「えっ? どこ!?」
「いや、湖は見えねえけど、港らしい建物が見えるだろ。たぶんそこの道を入ってすぐだ」
「え、港があるんだ!? って見て、あれ船! ホントにすぐそこだ!」
加速する双葉を追いかけて細い舗道に入ると視界が一気に開けた。その次の瞬間、深い青色が目に飛び込んでくる。
「琵琶湖だー!」
「やーっと着いたか」
立ち止まり、自転車に乗ったまま両手を上げる双葉。俺もそれに追いつくと、自転車から降りて近づいた。
「お疲れ、先輩」
「おう、そっちこそお疲れ」
ハイタッチひとつ。それから双葉も自転車を降りると、周りをキョロキョロと眺めた。
「っていうか海じゃん、ほとんど。港なんてあるし! もっと池みたいなの想像してたな」
潮の匂いこそしないが、視界のずっと向こうまで水面が続き、船が浮かんでいる様はまさに海のようだ。見ればスプリンクラーが湖の内側に向かって放水している。なかなか清々しい気分だ。
「でっけーよなー。しかも今見えてんのも琵琶湖の中の湾のひとつみたいなやつだからな。もっとずっと遠くまで続いてんだぜ」
「6分の1、伊達じゃないっすね」
ニッと歯を見せる。双葉もだいぶ機嫌がいい。ま、それでこそ連れてきた甲斐があるってもんだ。

「自転車どうしよう? さすがにこのままってわけにはいかないよね」
「近くに駐輪場があればいいんだが……ちょっと戻らないとなさそうだな」
二人で自転車を押して歩き回る。これはこれで悪くない気分だが、やっぱりどこかで腰を落ち着けたいところだ。
「あ、この公園。自転車も入れるみたいだよ」
「おお!」
双葉が指さす先にはちょっとした広さの公園。人目もまばらだし休むには良さそうだ。
「それじゃベンチの近くにでも停めて、座ってくつろぐとするか」
「あれ、先輩疲れてる? ヘバッちゃった?」
「ちょっとな」
安い挑発に乗らず、正直に答える。
石でできた腰掛けがあったので、そこに陣取ることにした。
もう昼時も近いってことで、双葉に荷物を見てもらって俺は近くのコンビニでおにぎりやお菓子を買ってきた。
外で食う冷たいコンビニおにぎりってのもいいもんだ。
「水辺は涼しいね」
「木陰があってよかったな」
食べ終えたあとのゴミを袋に突っ込み、鞄に仕舞う。
その最中、背中にドッと衝撃が走る。
双葉が背中からぶつかってきたのだ。
「おい、何すんだよ」
俺の文句もどこ吹く風で、双葉は背中同士で俺に寄りかかったまま伸びをしている。
「んー、気持ちいいね」
そして子供っぽく笑う。
「いきなりぶつかってくるなよな」
と言いつつ、背中に感じる重みと体温が少し心地よかったりする。
「ごめんごめん。だって今日はずっと自転車に乗ってたからさ」
「えっ?」
「せっかく一緒にいるのに、先輩が遠かったから。だからその分の補充」
……こういうことを真顔で言い放つのが双葉なのだ。こちらの方が恥ずかしくなる。いや、実に男冥利に尽きる話だが。
何も言えなくなり、黙ってしまう。
黙っていると周りの音がよく聞こえる。虫の声。鳥のさえずり。少し遠くから聞こえるヘタなラッパの音。どこかの吹奏楽部が練習をしているらしい。
『プ、プ、プ…………プーーーー』
汽笛の音が聞こえてきた。
船が港を離れ、ゆっくりと遠ざかっていくのを見る。双葉もそれを見ている。
しばらくの間、背中を預け合って過ごした。

「よし! じゃあぼちぼち、琵琶湖を楽しむとしますか」
不意に双葉が大声を上げて立ち上がる。
「それで先輩、ここで何するの?」
「ん、まあ別に……気ままに」
鼻で笑われてしまう。そういえば自転車で旅をするのがメインだと思って、現地で何をするかはあまり考えてこなかった。
「一応いろいろ持ってきてはいるけどな……これとか」
そう言って取り出したるは、バドミントンのラケットとシャトル。
「へえー。先輩、私に挑むつもり?」
双葉はラケットを受け取ると、ノリノリで振り回してみせた。ビュンと軽快に風を切る音がする。
「いや、勝負はできねえだろ。コートないし」
「じゃあラリーを続けるだけ?」
「イヤか?」
「んーん、いいよ。私が先輩を導いてあげる。じゃあこっちからいくよ!」
「よっしゃ来い!」
それからしばらく、双葉とショットの打ち合いを続けた。
双葉はショットに緩急をつけてくる。時に軽く、時に鋭く打つ。それも、俺がギリギリで拾えそうな範囲で。指導をされているみたいで情けない。
「オラァ!」
ムキになって強く打ち返してみても、双葉はあっさり拾ってしまう。
そんなことを繰り返してるうちに、俺だけが一気に汗まみれになり、息も絶え絶えになる。
じきにぐったりして倒れ込む俺。見かねた双葉がスポーツドリンクを買ってきてくれた。
「ありがとう」
体中に水分が戻ってくる。
「ん? 何だそれ」
ふと双葉が見慣れないカラフルな物体を持っているのに気づく。
「ふっふっふ。売店に売ってたんだ。何だと思う?」
双葉が両手でその物体を掲げる。小さいハンググライダーのような形状で、紐がついていて、その紐でぐるぐる巻きにされている持ち手があって……。
「タコか」
「正解!」
「へえ、こんなカジュアルなタコあるんだな。もっとダサくて和っぽいもんだと思ってたよ」
「『タコ』って語感が足を引っ張ってるね、絶対」
「確かに、英語だと『カイト』ってちょっとかっこいい感じなのにな」
「ってわけで、揚げてみようよ。糸引くのとタコ持つの、どっちやる?」
「今の俺に走り回るのを期待しないでくれ」
「だね」
苦笑する双葉。
「じゃあ行くよ!」
俺に糸巻きを渡すと、タコを持って駆け出す。ったく、ここまで自転車で走ってきて、さっきのバドミントンでも割と動き回ったってのにこれだからな。とんだ体力だ。

「ダメだったね」
「風が弱いからなあ」
双葉の努力も虚しく、タコは全然上がってくれなかった。諦めてタコを鞄に突っ込み、二人で並んで腰掛けに座る。
スポーツドリンクをまた一口飲んで一息つく。
「先輩、それちょっとちょうだい」
「おう。っていうか双葉が買ってきたもんだしな。そういや金払うか。タコとか結構しただろ」
「いいよ別に。昼の分とチャラってことで」
「そうか」
ゴロンと横になる。8月も終わろうというのに太陽はギラギラと照りつけ、分厚い入道雲にクッキリ影がついている。
「いい天気だね」
「夏って感じだな」
のんびりした空気に、思わずあくびがこぼれ出る。
「ヒマだねー」
「退屈か? 船にでも乗ろうか」
「いや、いい。ヒマを謳歌したい気分」
言うと双葉も俺の隣に寝転がった。また無言の時間が続く。このまま横になっていると寝てしまいそうだ。
「何時までいようか?」
時間を見ると2時半を過ぎたところだ。
「あんまり遅くまでいても帰りがツラくなるしな。日が傾き始める前に帰るか」
「そうだね」
「でも、こっちにいる間にひとつやっときたいことがあってよ」
今度は鞄からあるものを取り出す。
「あ、それ……買ったんだ」
「おう。ようやくな」
取り出したのはカメラだ。デジタル一眼レフ――の中ではかなり安い方。それでも俺のバイト代のおよそ3ヶ月分。これのためにバイトを始めたと言っても過言じゃない。
「やっぱり最初に撮るのはお前がいいと思ってよ。今日ここに来たのは、双葉に関西のいい所を紹介したいってのもあったけど、どうせ撮るなら景色のいいところで撮りたかったからさ。それにここなら知り合いに見つからないしな」
「ほほう、いろんなポーズを取らせて、心ゆくまで激写できるというわけですな」
双葉はわざとらしく体を反らせる。
「そんなんじゃねえよ」
「じゃあどんなポーズがいいの?」
「……自然な感じでいいよ。あるがままで」
「それ逆に難しいやつだって。意識してるのにしてないふりするほうが不自然じゃん」
ムッ、確かにそうだ。スナップショットってのは抜き打ちだから意味があるんであって、意図してそこに寄せようとしたところでゴッコにしかならない。
「じゃあ普段、写真取るときのポーズで。俺の意向は気にしないでくれ」
「はいはい。場所は?」
「そっちに立ってくれ。一応、琵琶湖バックにしよう」
「このへん?」
「もう少し手前」
水平線が上から3分の1の高さに来た上で、きれいに双葉が入るように調整する。
「よーし、撮るぞ」
「あ、ちょっと待って!」
「なんだ?」
「ずーっと自転車で琵琶湖まで来たわけだし、せっかくだから自転車に乗って撮りたいな」
「ああ、『自転車で来た!』って感じがしていいかもな」
俺がうなずくと、双葉は停めておいた自転車を引っ張ってきた。俺の自転車を。
「おい」
「だって先輩も来てるのに、一緒に写れないじゃん。だったらせめて自転車だけでも」
いたずらっぽく笑う。最初からそれが狙いか。
「まあいいか。今度こそ撮るぞー」
「押忍!」
双葉はサドルに腰掛けると、親指を立てて得意げな笑みを浮かべた。これが双葉にとっての『決め』のポーズのようだ。ピースじゃないのが『らしい』というかなんというか。
目の前で双葉が俺の自転車に乗り、最大限の『良いポーズ』を取っている。それがなんとも言えず嬉しい。
この感覚を途切れさせたくなくて、『ハイ、チーズ』は言わないことにして、噛みしめるようにゆっくりとシャッターを押した。
「よし、撮れたぜ」
「あっさりだなー。もういいの?」
「俺は一発勝負に全てを懸けるタイプだからな」
と言いつつ、25枚撮りをオンにしてたりする。撮れた写真を一枚一枚切り替えてチェックしていく。
「どう?」
「かわいい」
「どーも。じゃなくて、ちゃんと撮れてる?」
自転車を降りて双葉が歩み寄ってくる。
「おう、ばっちりだ。これで目的達成」
画面を見せてから、カメラを大切に鞄に仕舞う。双葉の写真が入ってる分、余計貴重だからな。
「じゃあそろそろ帰る?」
「いやーちょっと、体力のほうがまだ……」
というのも嘘ではないが、もう少しこの空間に浸っていたかった。
「だらしないなー。まあもうちょっとのんびりしていこうか」
それから他愛のない話に花が咲いたり、急にトイレに行きたくなって探したりして、結局琵琶湖を出発したのは30分ほどしてからだった。


「ねぇ、ちょっと小腹空かない?」
信号待ちのタイミングで双葉が話しかけてきた。
身体を動かしたせいか、言われてみると少し腹が空いてきた。
「確かにそうだな。じゃあどっか入るか?」
「うん、ほら、そこにマックあるから行こうよ」
双葉が指さす方向に見慣れたMの看板がある。
「おう、軽くだしマクドでいいか」
「うん、マックがいい!」
「双葉は、マクドのメニューだと何が好き?」
「そうだねー……マックシェイクかな。バニラ味」
「……あーマクドシェイクか。それは一理あるな」
「さすがに無理あるよ、先輩」
小学生まで他県で過ごした双葉とは相容れないようだ。
「まぁいいからマクド行こうぜ、駐輪場あるし」
「はいはい」
双葉はお好きにどうぞとでも言いたげにわざとらしく肩をすくめた。
店内は休日の昼下がりなので混んでいたが、座れないほどではなかった。
2人席を確保し、「今日はチョコ味の気分」という双葉の希望を聞いて1人でレジに向かった。
「先輩さっすがー! そのチョイスは最高だね」
一つのトレイを手に持って席に座ると双葉が目を輝かせている。
「え、何が?」
「そりゃ、もちろん甘いマックシェイクとしょっぱいポテトの組み合わせとは分かってるね、ってことだよ」
トレイの上にはコーラとマックシェイクチョコ味、そしてポテトが置かれている。
「何言ってるんだ? 俺はマックシェイクチョコ味しか頼まれてないから、ポテトは俺のだぞ?」
「え~もしかして、まだマクドとマックのこと怒ってるの? も~子どもなんだから」
「冗談だって、Lサイズ一人で食べる程腹減ってねえよ」
「さっすが、先輩♪ じゃ、お礼にあーん?」
双葉がポテトを一つ掴み、俺の口元へ運んできた。
ここでためらうと双葉の思うつぼだ、と思い躊躇なくそれをいただいた。
「うん、塩味効いてて美味しいな。じゃ、お返しにあーん」
負けじと俺も適当にポテトをつかむと、はむっと双葉はそれをくわえた。
その刹那、俺の指に柔らかい感触が伝わってきた。
人差し指にはうっすらピンクの紅が付いていた。
「……」
「……」
二人の間に沈黙が流れる。
俺が何事もなかったようにポテトに手を伸ばすと、それを双葉が払いのけた。
「だ、だめ! 拭いて!」
机の上のナプキンを全部とって俺の手を乱暴に拭く。
双葉は耳まで真っ赤になっているが、それはもしかたら俺も同じかもしれない。
「あーマクドポテト美味しいなぁ」
「まだ言うの、それ」
もっと話題転換の才能が欲しいなと思いながら、黙々とポテトを食べ進めた。
双葉もズズズと音を立てながら、マックシェイクを一気に飲み干してしまったようだ。
「あ……やっちゃった」
「完全な配分ミスだな」
「どうしよ、マックシェイクもう1個頼もうかな」
「俺のコーラ飲んでもいいぞ」
そう言いながらストローを双葉の方に向ける。
「飲まないよ、バカッ」
双葉はまだ顔を真っ赤にしながら俯ている。
しかし、俯きながらもちらちら俺の方を見つめている。
「ねぇ、なお先輩」
「ん?」
「……いつか、今じゃなくてもう少し仲良くなったら……ちゃんとキスしたい」
彼女は少し声のトーンを落として、でもはっきりその言葉は聞き取れた。
双葉の口からそんな言葉を聞くのは初めてだ。
「そ、そんなことマッ……じゃなくてマクドで言うなよ!」
「このタイミングで、それ言い直す?」
「いや、まぁ……」
「……」
「……」
「フフフ」
「ははは」
何だかおかしくなって二人同時に笑いだしてしまった。
「ごめんごめん、折角いい雰囲気だったのに」
「ねー先輩はロマンチックな雰囲気いっつも分かってないんだから」
双葉は顔を真っ赤にさせながら、それでも笑っている。
「そういう男だって知ってるだろ?」
「うん知ってる。でも、そういうとこも……すごく安心する」
「お、おう、ありがとう……」
「……」
「……」
「わ、私はもうポテト要らないから先輩食べちゃって」
「お、おう! 任せとけ!」
俺はトレイの上のポテトをコーラで流し込んだ。

坂を越え、街を抜け、俺たちは鴨川べりまで戻ってきた。
土手に降りると、どちらから言うでもなく、二人して自転車を降りてのろのろと歩き始める。
「もう夏も終わりかあ。早かったね」
この夏休み、双葉は8月上旬まで部活の大会で忙しかったので、二人で過ごせた時間は少なかった。
「夏らしいことといったら、週末の花火大会が最後か」
「一緒に行こうよ、先輩」
実を言うと人混みがあまり好きじゃないんで、花火は遠くから見る派なんだが。
「そうだな、たまにはいいかもな」
気づけば即答していた。
今は双葉と一緒に過ごせる時間を大事にしたいと思う。できれば来年も、再来年もそうしていたい。
西日が水面を照らし、ところどころで反射する。
少し前を歩く双葉をその光が包んでいる。
思わずカメラを手に取る。……だが、すぐに仕舞った。双葉の後ろ姿を見ているうちに、シャッターを押すタイミングを失ったのだ。
「何してるの、先輩?」
「いや、何でもない」
その後もずっと、自転車を押して歩く双葉の姿を見つめていた。己の目に焼き付けるように、ずっと見つめていた。


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