時間当たりの距離によって速度が表せる。速度に時間を掛け合わせると距離になる。速度だけがゼロでも時間だけがゼロでも距離はゼロ。どちらも十分な量があって初めて距離を移動するということが成り立つ。

今日は自転車を買った。これで遠くまで行ける。

なぜ遠くまで行けるようになったのか。歩行や走行に比べて早い自転車を使用可能になったからだ。何が変わったのかというと速度が変わったわけだな。しかし最初の一文に戻ってみる。『時間当たりの距離によって速度が表せる』。式にすると v = x / t 。変形して x = v * t 。ここでは v が増加したわけだけどもう一つ、 t が増加しても距離は伸びる。だから正確に言うなら。

今日は自転車を買った。これで時間をかけずに遠くまで行ける。

またここでふと別の考えが思いつく。どうして時間をかけないのだろう。時間をかけさえすれば歩行にしたってそれでも遠くに行ける。もちろんそんな暇のない人も多いだろう。近くに学校の少ない田舎の中学生が、一時間半の時間をかけて歩いて登校するという話を聞いたことがある。それが出来る人はそれこそ学生くらいだろう。年に200日くらいの登校日があり、行きと帰りで二回。計600時間を彼らは一年にただ歩くことに消費している。いくつかの資格について、その取得に必要な勉強時間を並べてみる。気象予報士が450時間。行政書士が600時間。TOEICスコア860点が700時間。更に三年間彼らの家や学校の位置が変わらず、交通インフラも整備されないとしたら。三年間で1800時間。一級建築士が1500時間。日本人の年間労働時間が1843時間。米国公認会計士が2000時間。独学で可能かという話は置いといて、二宮金次郎なら耐震強度偽装の片棒を担ぐだけの技術と資格を中学校最後の甘酸っぱい夏休みの代わりに得られるわけである。じゃあただ歩行という行為に一時間半の登校時間を捧げる彼らのそれが無益かというとそういうことが言いたいわけではない。そんなことを言い出したらこんな駄文を誰に読ませるあてもなくつらつらと………やめようかな……………

冗談はともかく、暇なら時間をかければとりあえず地上の続く限りどこまでも行けるのだ。地球は平面でないし、もし君が海底を歩くことに特に不都合ないのならそれこそ地球は狭いななんて嘯きながら世界を百周くらいしたっていいのだ。一周40000kmを時速4kmで歩く。一周と言っても、山もあれば谷もあるから、60000kmと見積もって、一日十五時間で千日で一周だ。二年半。君の寿命にもよるけど、海底を歩けるなら三百年くらい生き延びるでしょう。百周なんて軽い軽い。

でもたぶん君は行かないんじゃないかな?
行くかな。でも多くの人は行きそうにないんじゃないかな。
だって面倒じゃん。消費されるのは時間だけじゃない。体力、気力、金銭、消費した時間で得られるはずだった何か。それを投げ打ってまで行く?しかもこの世には飛行機がある。船がある。何ならスペースシャトルもある。君が超人的な能力に目覚めて海底を歩けるようになって、健康に気をつけて三百歳まで入れ歯なしで生きたとしても、それでも行けない宇宙という場所に人類の技術というやつは連れて行ってくれるんだ。ヴァージンギャラクティック社の提案する旅行プランでは約二時間の旅で約四分間無重力を体感できる。まぁ、1540万円の一括振込と酷い宇宙酔いを覚悟しないといけないのだけど。あと身長が5センチ伸びるらしい。ほぅ。
ここまで来ると速度や時間の話だけではなくなる。自転車を買ったことによって歩行より体力、気力も節約して僕は学校に行くことが出来るようになったわけだ。となると。

今日は自転車を買った。これで時間をかけずに手軽に遠くまで行ける。

これで正解だ。
そう思い僕は新品の自転車を家の前の歩道に出して走り始める。
歩道に?
ふと横を見ると密閉されてクーラー暖房音響設備ナビゲーションシステムトランクまで備え付けた通称自動車が僕の自転車とは比べ物にならない速さで車道を駆け抜けていく。自転車よりあっちの方を買えば良かったかなと思う。速度の増加?それだけじゃない。向こうはこちらが汗だくになってペダルを交互に踏み降ろす横で、空調の完備した車内でアクセルを踏み込むのだ。手軽さなんて言葉、おこがましい。じゃあ何故自動車を僕は買わなかったのか。費用だ。そもそも自転車なんかなくったってバスもあれば電車もある。あえてそれを選択せずに定期よりも高い自転車の購入に踏み切った理由。それは最終的にバスや電車より、自転車のほうが経済的に得だからだ。自転車の安いやつが一万円。JRの定期が僕の場合、学校までひと月五千ちょい。定期が一定区間のみに有効なのに対して自転車はどこまでも有効だ。ただし危険度。天気に左右される運行。メンテナンスなんかまで考えると自転車のほうが絶対に得だとは言い切れないけど、まぁそこそこ得。二年は保つでしょう流石に。同じように車もバスも。通学という恒常的に行われる移動に対しての経済的負担はなるたけ少ない方がいい。されどあまり悠長に時間を湯水のごとく費やすわけにもいかない。そこら辺はバランスだ。バランスを考慮した結果僕は自転車を選択する。だからこうかな。

今日は自転車を買った。これで時間をかけずに手軽に安価で遠くまで行ける。

移動ということは時間を費やし体力を消耗し金銭を要求し道具を求め代わりに距離を与える。あるいは生きることの本質とは移動するということのような気さえしてくる。移動しないまま生きるとは自分の生まれた環境を死ぬまで受け入れるということだ。それは例えば植物のように。それは例えば波に揺れるがままのプランクトンのように。それは果たして生きているといえるだろうか。いや、生きているのだろう。生きているのだろうけれど。僕は素直にその意見に首肯できない。生きるって選択することではなかろうか。選択の結果に責任を負い、受け入れることではなかろうか。動物とはその名の通り動く生き物だ。移動とは動物であることの前提条件なのかもしれない。人間の先祖に思いを馳せてみる。彼らはアフリカの奥地に生まれた。彼らはゆっくりとその住む場所を広げていったのだろう。途方も無い距離を、自分が辿り着くとも知れない地の果てを夢見て。あるいは果てなんか考えてなかったのかもしれない。ただいままでいた場所を追われたから。生きるため死を覚悟し犠牲を払って行われたのかもしれない。移動とは世界を動かすということだ。今見える景色を背後に送り、新しい景色を引き寄せる。選択だ。
また、一番最初に動くということを選んだ生き物に思いを馳せてみる。それは海中に漂う単細胞生物だ。体毛もなく鞭毛もなくただ流され、大きく開けっ放しにされた口に入る養分で子孫を残す力を溜め続ける。それは切実な願いだったに違いない。ほんの少しの場所の違いが生死を分ける環境で。それは祈るようにあがくように、体一杯に進化を進め、ほんの少しだけ、波に乗る機能を備えたに違いない。それがとてつもない進化の一歩であったことは歴史が証明する。なんどでも言おう。それは自らの世界を変える力だ。環境を変えるだけではない。次元すら変えてしまうと言えるだろう。3つの軸を持つ世界は、その中を時間に掛け合わせる形で変異する存在を以って初めて4つめの軸を孕む。生物が動き始めたその日まで、時間というものは無かったのだ。その日初めて時間は動き始めたのだ。

今日は自転車を買った。これで世界を変えてみせよう。

僕らはいつか時空だって越えられるに違いない。その時動き出す何かに思いを寄せて、今日はとりあえず買ったばかりの自転車でとなり町まで走ってみる。


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