「はああ~~」
向かいの席から巨大なため息が漏れる。これで今日三度目だ。
ケンジの悪癖だ。悩みがあるなら自分から切り出しゃいいものを、これ見よがしに不幸をアピールして相手が首を突っ込むのを待っている。
「はああ~~~っ」
「どうかしたのか」
「聞いてくれるか、ユウスケ!」
待ってましたと食いついてくる。
「ああ」
ホントは聞きたくねえけどな。これ以上、鬱陶しいため息でメシを不味くされるわけにもいかねえから、聞いてやる。
「実は最近、夜よく眠れなくてよ」
そう言うと目元をいじり、見せつけてくる。だがな、お前が思ってるほどのクマはついてねえぞ、ケンジ。
「眠れねえってのは、要はあれか?その」
「ああ、そう。彼女のことなんだけど」
ったく、これだよ。ケンジの奴は最近、女と付き合い始めたってんで常に浮かれてやがる。
口を開きゃ、彼女の長い髪が好きだの、彼女の作るタコスが美味いだの、髪を結んでいる時は特にグッとくるだの、彼女は足が大きくて自分とほとんど同じサイズだの、彼女がドライヤーをかけている時はいい匂いが漂うだの、そんなんばっかだ。
やはりこんな相談に乗るんじゃなかったか。
以前にも似た形で話を聞いたら、照れくさそうに『彼女の誕生日にサプライズプレゼントをしたいんだ。何がいいかな。女の子って何が欲しいんだろ』なんて抜かしやがった。俺が知るか。
投げやりになって『そんなに髪が好きなら髪留めでも贈ってやれよ』って返したら、『おお!』とか声あげて感心して帰っていきやがった。まあとにかく、幸せなヤツってことだ。
さておき、今回のお悩みだが。夜に眠れないっつったら、オイ。
「オイ。こんなとこで話していい話なんだろうな、そりゃ」
ここは白昼の静かな喫茶店だ。それも俺の行きつけの。変な話を繰り広げて注意でもされてみろ。今後メチャクチャ来づらくなっちまうだろうが。
「んー? 大丈夫大丈夫。聞いてねえよ誰も」
「……とりあえず店出てからにするぞ」
「え!? いいじゃねえか別に」
ケンジよ、悪いがお前の『大丈夫』の基準を俺は全く信用していない。『こちら側のどこからでもきれいに切ることができます』と抜かす納豆のタレの袋よりも信用していない。
俺はひとまず目の前のカレードリアを平らげることにした。

「それで?」
食事を済ませて店を出てから、歩きつつ尋ねる。
「そう。この頃、彼女が家に泊まりに来るようになったんだけど、そういう日はろくに眠れなくてさ」
「そんなにスゲえのか?」
「ああ。あそこまで激しいとは思わなかった」
ケンジの顔に自慢やノロケの色は見えない。
「あんなのは聞いたこともねえ。というか想像すらしてなかったよ」
「へえ」
「で、あまりにうるさいっていうんで、大家からも注意される始末でさ。でホラ、ウチは居住者以外の宿泊は禁止ってことになってるじゃん?」
なってるじゃん?と言われても知ったこっちゃねえけど、まあ学生用のマンションなんかじゃよくあるこった。しかしどれだけハッスルすりゃそうなるんだよ。
「それもあって、このままだと追い出されるかもしれねえ」
「ホテル行きゃいいだろ」
「とにかく声量がやべえんだ。それを彼女に言ったからってどうにかなるってもんでもねえし」
「そうか?」
ああいう声っていうのは、演技とは言わないまでも、場の盛り上がりのために意識して出すもんだと思うがね。一人で致してる時、声を出したりはしねえもんだろ。
「あ、一回聞いてみるか?」
「イヤ録音してんのお前!?」
スマートフォンを弄り始めるケンジ。お前って奴は。軽薄なのは知ってたが、あっちの趣味まで悪いかよ。
「いい、いい。いらん」
「まあまあ。聞かないとわかんねえって、多分」
「いや、やめろって!」
俺の制止も虚しく、再生ボタンは既に押されていて、

ゴガゴゴゴゴゴ!!ギギギギギ!グガガガガガガ!!!グギギィイ!!ゴゴゴゴグゴゴ!!

ドリルが固い岩を削るような轟音が鳴り響いた。道行く何人かが振り向く。
「どうよ」
「削岩機の音をこんなに近くで聞いたのは初めてだな」
「イビキなんだ、彼女の。あと歯ぎしり」
なんだ、イビキか。
「いやいや聞いたことねーよこんなの!」
「だろ!?」
俺たちはそれ以上何も言えず、しばらくその場に立ちつくした。
「ユウスケ、俺はどうすればいい?」
そう言い放ったケンジの顔は、初めての恋人に浮かれたさっきまでの軽薄な男とはまるで別人の顔だった。
「……耳鼻咽喉科に行くしかねえんじゃねえの」


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