パチパチと薪が火花を飛ばしながら燃えている。炎は時折風に揺らぎながら、私と老師の背に影を作っている。
「あの・・・、幸せって何だと思います?」
私のその質問は唐突、と思われただろうか。あるいは先日の青年の最期を引きずっている事に気を取られたのか。老師は、普段は必要でも取ることのない間をたっぷりと取って、答えた。
「幸せとは何か…か。私の意見でいいなら・・・幸せとは水面に映る月のようなものだ。」
言葉にしながら大皿に魔法で水を張る。小波すら起きない鏡のような水面に、居待月が映っている。
「あー、…ごめんなさい。抽象的な話は苦手で」
えへへ、と面白くもないのに愛想笑いをする。苦手なものは苦手なのだ。
「お前の質問も大概抽象的だろうが。・・・ほれ。確かに見えていても・・・一度は手にしたと思っていても・・・」
彼は水面に手を伸ばし、手で器を模って水を掬い上げて見せた。
「こうしていつかはすり抜けてしまう。」
水が零れていく様を見ている瞳が悲しみを湛えているように見えるのは気のせいだろうか。
「あの人は…幸せだったって言ってたんです。それも全て、幻だったんでしょうか」
ポツリと零した私の言葉は、夜闇に溶けていって。
「さて。私には分からんな。幸せなんぞ人それぞれに形があるものだからな」
「ただ、今まで生きてきた中で私の幸せの形はそうであると知っただけだ。・・・それに、こうして眺めていれば失うこともない、悪くはないさ」
もう寝るよ、お前も早く寝なさいと、男性の天幕へと向かうその背は小さいながらに頼もしく、私は火をおこす前よりは軽くなった胸にそっと手を置いた。
私たちは今、とある珍しい薬草を採取するために旅をしている。都市近郊を離れるのは初めてであったし、老師直々にその薬草の採り方を教えてくださるとなって、数週間前の私は胸が躍っていたものだ。採取場所は都市の近郊とはいえ山深く、道中も都市に比べれば安全とは言いがたい。もちろんその方面に商隊が出ることなんてほとんどなく、仕方なく安くない金額を使って男女1組の冒険者を護衛に雇った。女性がいるパーティが良いと言い出したのは私で、ギルドから追加で取られた契約金は私のポケットマネーから出すことになった。ずいぶん薄くなった財布に落としていた肩も、目的地へ歩いているうちにあっという間に上がってしまった。肩で息せずに歩ける時間が延びたのはここ1週間のことである。せめて道が整備されていれば馬車で移動できたのに、馬の背に乗れないような荒れた道が多いなんて人の悪い老師は全く教えてくださらなかった。
「都市から出るのは初めてだって?あなたって結構なお嬢様なの?」
「近くの村や森くらいなら私だってあります。馬鹿にしないでください」
投げかけてくる言葉と視線にからかいを感じてむきになった私に、護衛を受けてくれたリファニーさんは笑って答えた。
「後で旅について教えてあげるわ。私だって初めて外に出たときは色々教えてもらったもの」
今となっては感謝しかないこの提案にも、子供な私は不服そうに鼻を鳴らしたものだ。
結果として、軽い遠征程度に考えていた私の準備は全く不足していて、それを見越して用意していたリファニーさんにひたすら頭を下げ、私の世間知らずを痛感したものだ。
・・・本当に、私は世間知らずだった。道中の魔物は元から近寄せないか、弓の凄腕であるランドさんが近寄る前に狩ってしまうので、体力不足でふらつく私をリファニーさんとランドさんが気遣う余裕すらあり、魔物は精々急所を撃ち抜かれた死体を見る程度であったのだ。
・・・2日前、立ち寄った村が魔物の襲撃を受けているところに遭遇するまでは。
その村に辿り付いた時には、町から避難できない老人や体の弱いものが集まった教会の入り口を大きな狼の魔物が今にも壊そうかといった場面であったそうだ。そうだ、というのは異変に気付いたランドさんが先行して村に入った時にはその惨状で、リファニーさんが私たちの安全を確保してから到着までランドさんは狼の魔物を引き付けて時間を稼いでいた・・・らしい。だからこそ、教会の入り口付近で入らせまいと体を張って致命傷を受けていた青年に気付いたのは魔物をしとめてからであり、私が着いたときには血まみれで息も絶え絶えの青年と、その周りの人だかりばかりが目に入った。仮にも薬師であったのに、私はその青年の手を握るしか出来なくて。私のことを誰かと勘違いしてるみたいで。老師のお陰で彼の苦痛は和らいだようで。
それでも確かに聞いたのだ。彼の最期、私でない誰かに伝えたかった言葉を。「幸せだった、幸せになってくれ」と。
きっとその言葉は避難していた彼の恋人へ向けた言葉であったのだろう、とリファニーさんは言った。
「彼の死体の前で泣いてる娘がいたからね~。最期の言葉が残ってるだけ良かったと思うよ」
その言葉を聞いても胸のつかえは取れなくて。子供で小心者の私は、初めての血の海に溺れてしまったのか、それとも耳に残る言葉の衝撃に打ちのめされていたのだろうか。薬師の卵として、人が死ぬのを見たのは初めてではなかったのに。
「まだ寝ないの?明日も歩くわよ~」
先日の記憶の海に沈んでいた意識を呼び覚ましたのはリファニーさんの声だった。
「ああ・・・リファニーさん。すみません、全然眠れなくて」
そう、と頷きながらリファニーさんは私の隣に腰掛けた。
「爺さんとの会話聞こえてたわ。あの爺さんも中々に詩人ね」
「聞こえちゃってましたか。すみません」
そんなことを気遣うことすら出来なかった。リファニーさん達だってこの間の疲れが残っているかもしれないのに。声を抑えることすら私には出来ない。
「何を謝るのよ。あんたは悪いことなんてしてないよ」
そういって私の頭を優しく撫でてくれるリファニーさんに、姉がいたらこんな感じなのかな、なんて。ありもしない想像をしてしまう。
「私さ。元々は貴族の出身なの。多分あんたもお嬢さんなんだろうけど、私もそこそこの家格の出でさ。今、ここにこうしているのは・・・まぁ、色々あったのよ」
そう零し、驚いてリファニーさんの方を向いたが、上を向いていて表情は窺えなかった。
「それでも。それでもね、私は今幸せだよ、あいつと2人、自由に生きてる。明日をも知れない体だけど、この日々は楽しいし・・・今、生きてるもの。ほら」
そう言いながら老師が残していった大皿の水を掬い、見せてくる。
「こうやって掬った水にだって月は映るさ、それにこうして」
その水を一気に飲み干し、
「私は今、私達の運命の手綱を握ってる!私がしくじれば死ぬし、しくじらなくったって死ぬかもしれないけど、誰に指図もされずに生きてるんだ。こんなに幸せなことなんてないよ!」
一息でそう言い切ったリファニーさんの表情は晴れやかで、凛々しくて・・・そして今まで見たどんな女の人よりも綺麗だった。
「リファニーさんは、・・・すごい、ですね」
気後れしてしまうくらいに。私ではどうあってもこんなに立派にはなれないと。
「私に言わせれば爺さんは悲観的だし、あんたは悩みすぎだけど。・・・そういう優しいあんたなら良い薬師になるよ。きっと」
最後にわしゃわしゃっと乱暴に私の頭を撫でて、リファニーさんは離れてしまう。寂しさと、少しの安堵。これ以上優しくされると、きっと駄目になってしまう。
パチパチという火花の音を絶やさないように、私はそっと薪を足した。薪の残量は少ないけど、夜明けまでは持つかな、と目算できるのはきっと旅に多少は慣れた証だろう。
その次の日の夜には目的の山の麓まで着いた。夜は相変わらず寝られないけど、ランドさんやリファニーさんは文句も言わずに、何やかんやと理由をつけては休憩を私に取らせるようにしていた。私の体調管理までは護衛の仕事ではないのに、気を遣わせてしまっている。老師も採取場所に向かうのは明日にするとのことだ。きちんと寝なさい、と老師にしては優しい声色で。どうにも調子が狂う。
その日の夜も体の疲れとは裏腹に眠気が来ずにいる私に、声をかけてきた人物がいた。
「今日も・・・眠れないのかい?」
「ランドさん・・・」
振り向くと、ランドさんがそこにいた、すらっとした長身の割に威圧感はなく、ともすれば気配を感じないときもある。
「嬢ちゃん、悩んでるんだって?あいつから聞いたよ」
「すみません、私、自分がこんなに繊細だなんて思っても見ませんでした」
もっと図々しくて、自信があって、論理的に動けて。仕事の中で人が死んでも動じたことはなかった。そんな自分。
「そんなモンさ。人間、普段と違う自分に出会う時だってある」
はっと顔を上げると。ランドさんは焚き火をじっと見つめながらどこか遠くを見ていた。
「そんな時・・・どうすればいいんでしょう。今までの私は、一晩寝たら悩みなんてなくて」
こんな自分にも嫌気がさしてきた。そもそも自分は一体なにに悩んでいるのか。胸のつかえに答えは無く。
「そうさな・・・。酒をしこたま飲んで忘れるやつもいれば、嬢ちゃんみたいに人に話を聞いてもらうやつもいる、あいつだって気丈に振舞っちゃいるが1日部屋に籠る日だってある」
「そうなんですか?」
「嬢ちゃんに話したってのは秘密な」
そう言って人差指を唇に当てながら軽くウィンクしてみせる。悪くない顔立ちと合わさってかなり気障だ。・・・所作もこなれている。
「そうやって女の子引っ掛けてるんです?手馴れてそうですけど・・・」
ジトッとして視線を送ると、
「ははっ。こりゃ参った、今はあいつ一筋だよ」
調子出てきたね、なんて軽く笑われて流される。そういえば、と思いなおす。気を遣われたかな、なんてのは今更な話で。
「嬢ちゃんが何に悩んでるかは本当のところ、俺には分からないけど」
俺は育ち悪いしな、と少し寂しそうに零した。
「それでも、幸せだったって言ったそいつの気持ちは分かる気がするんだ」
はっと顔を上げると、ランドさんの目は焚き火を向いているのにどこか遠くを見ているようで。
「俺もそうだけど、そいつもさ。今幸せで、何かが不意に起きて死んだとしても、多分、それが精一杯やった結果なら受け入れちまうって言うか」
「きっと最期に嬢ちゃんが隣にいて、そいつは救われたと思うんだ」
「・・・駄目だな、俺が話すとこうも薄っぺらになっちまう。・・・でもそう思うよ、勘違いでも、大事な人の隣で果てたなら、幸せだ」
そこまで一気に言うと、お休み、と肩を軽くたたいて天幕へ向かっていった。
「・・・いえ、ありがとうございます」
届かないような小さな声で答えた。声の震えを無理に抑えて。抑えることが出来ない感情が、頬を濡らすのを感じながら。
その日は久しぶりにぐっすりと眠った気がした。どうしようもない胸のつかえはまだ燻っているけど、それで足が止まることはもう無い、と思い。いや、止めないと決意して。
「師匠、今日採取予定の薬草でハイポーションを作るんですよね?」
朝起きると年の割りに寝起きの悪い老師を起こしに行く。
「ほう。知っていたのか、私は珍しい薬草としか言っていないが」
意外そうな表情を浮かべている老師を見て、そういえば、老師の表情が動くことがそもそも珍しいなと私は気付いた。
「都市を出る前に目的の物が何かくらい勉強しますよ」
・・・だって私、先生の弟子です。そう胸を張ると、
「ならば早く採取して帰るか。採取から全てお前に任せる。大量に採取してもらうぞ」
ええっとげんなりする私に、老師は笑う
「何せ、作製までお前がするのだ。・・・予備がいくらあっても足らんだろう?」
にやりと笑う老師に、言葉の意味がはじめは分からなくて。
「・・・良いんですか?本当に?」
今まで難しいことはやらせて貰えなかったので、戸惑う気持ちと、共に期待や不安が私を駆け巡る。
「連れて来て良かったとそう思うよ。やはり若い者の成長する姿は良い」
しみじみと言いながら、嬉しそうに笑う老師の表情に、自然とつられて笑って。
老師がこうも喜ぶなんて思っていなかったけれど。
人が人の役に立つって案外こういうことなのかもな、と思って。
いつか私の薬が、私の幸せの形を教えてくれるまで。
「えへへ、私、がんばりますよ、先生!」
トップに戻る