Stormbringer



背後で耳障りな笑い声が響いていた。
「で、それが限界だって言うから、腹パンしてやった」
「うははは、マジで鬼畜だなオメー!」
三人の青年が地面に座り込み、大声で騒いでいる。
彼らは近くの高校の不良生徒らしく、いじめられっ子から金を巻き上げた話で盛り上がっている。
その前はバイクの話、その前はセックスの話、その前はゲームセンターの話。
もうかれこれ十分ほどだ。
さすがにうんざりしていたが、注意などできるはずもない。
このまま何事もなく、早くバスが到着するのを待つばかりだ。
私の横に並んでバスを待っている人たちもみな、不快感を露にしつつも耐えている様子だ。
奴らがバスにまで乗り込んできたらどうしようか……などと考えていたとき、誰かが声を発した。
「おーい、クソガキども」
よく通る声だった。
少し高めでハスキーな声。そこまで大きな声ではなかったはずだが、圧力を感じさせた。
時間を止めるような、空間そのものを黙らせるような迫力があった。
ちらりと後ろを見る。
「どけよ、そこ。エラそうに群れやがって、クソ目障りなんだよ」
自転車に乗った女だった。
彼女は異様な出で立ちをしていた。ピンクがかった髪を無造作に垂らし、側頭部はきれいに剃り上げている。
薄いワイシャツから透ける黒い下着。汚れきったチノパン。背中にはギターケース。
その出で立ちは、彼女がバンドマンであることを想像させた。おそらくはギターボーカルだろう。
「キミらはなんだ、ハエかい? 腐った肉にでもタカってんのか?」
ろくなことにならない予感がした。
「なんだ、テメーは?」
「ナメてんじゃねえぞ」
青年たちは一瞬黙ったものの、挑発されているとわかるとやはり応戦態勢に入った。
余計なことをしてくれる、と心の中で舌打ちする。
「女風情がよ。俺らに楯突こうってんなら――」
ドン!
『容赦しねえぞ』と言う前に激しい衝突音が響いた。
立ち上がろうとした青年の一人に自転車が突っ込んだのだ。
「ちょーっと下手に出りゃすぐ調子に乗りやがって。そんな奴ばっかだ、世の中」
青年が呻きを上げて蹲るその前で、女は悪びれる様子もなくハンドルの上で腕を組んでいる。
「ど、どこが下手だ!」
他の青年が喚く。これに関しては彼の言う通りだと思う。
「お前らのような愚図が存在するだけでこっちゃ不愉快なんだよ。群れただけで『支配者顔』してんじゃねえぞ。虫ケラどもが!」
そう言いつつ、女はまたペダルを踏み込む。
「こ、こいつ頭おかしいぜ」
「相手にするだけ無駄だ!」
「待てよ! クソ害虫が!」
逃げ惑う青年たちを追いかける自転車女。やがて彼ら全員が通りの向こうに消えていった。
残された私たちはしばらく茫然としたが、厄介な人間が全員いなくなったことに安堵を覚え、息を洩らした。
隣の生え際の後退した中年男性に『いやあ、何事もなくてよかったですね』などと話しかけて談笑したい気持ちにすらなった。
『虫ケラどもが!』
さっきの暴言を思い出し、なんだか笑いがこぼれる。小汚い台詞とガラの悪い声色が実に合っていた。
彼女が自分のバンドのMCであの台詞を吐いたら、観衆は大盛り上がりになるかもしれないな、と想像する。
カツカツと杖を突く音が聞こえてきた。見れば一人の老婆が真っ白い杖を片手に歩いてくる。
その様子から、目が見えないのだとわかる。
ここにさっきの青年たちや自転車女がいたらと思うとぞっとする。
奴らが立ち去った後で本当に良かったと安堵した。
ちょうどそこへ、待っていたバスが到着した。私たちは晴れやかな気持ちでバスに乗り込んだ。



「まだ来てないのか? 美樹は」
「まだだな。ま、アイツのことだ。どうせリハが始まるギリギリだろうよ」
「はあ、ったく。こっちの心労も少しは考えてほしいな」
青木さんと新川さんが話している。
二人は俺の先輩で、ロックバンド『ストームブリンガー』のメンバーだ。
青木さんはドラムスでバンドのリーダー。機械のような正確な演奏が持ち味だが、それでいて迫力もある。人付き合いの方もきっちりしていて面倒見もいい。ただ少し心配性すぎるところがあるが。
新川さんはベースギター担当。普段は飄々としているが根は熱い人で、誰よりも練習して、誰よりも真剣に舞台に立つ。後輩の俺たちの音楽に対しても真っ直ぐな意見を言ってくれる。
俺はこの二人のバンドマンを心から尊敬している。前座を演じることが決まった時は、歓喜に打ち震えたほどだ。
だからこそわからない。
何もあんな人間をフロントマンに据えなくてもいいのに、と思う。
もう一人のメンバー、黒谷美樹のことだ。
ギターボーカルの黒谷は、『大雑把』が服を着て歩いているような人間で、いい加減に行動しては他人を困らせてばかり。困らせているという事実にすら気がつかない。おまけに粗暴で口が悪い。俺に対しては名前すら覚えていない。
もちろん二人が認めるくらいだから、プレイにも声にも魅力はある(顔も結構美人の部類だと思う)。しかし奇抜すぎるファッションと無責任な行動がそれを台無しにしている。俺だったらこんな人間とは組めない。
「おーい松井、そろそろ行こうぜ」
おっと、あんな奴のことを考えてる場合じゃないな。自分のバンドのリハーサルが始まるところだ。
俺はギターを持って立ち上がった。



「ねえ、早くしてほしいんだけど」
男は笑顔を浮かべるが、本心は全く笑っていないのがわかる。
筋肉質な彼の巨体が腕を伸ばし、私の行く手を阻むように立ちふさがる。
どうしてこうなったんだろう。
この町を観光しにやってきた私は、歩いていたところに声をかけられた。
『人力車はいかがですかー』
観光客を席に乗せて町を案内して回るサービスだ。私は一度断ったものの、『是非お願いします。特別にサービスさせてもらうんで。絶対にいい思い出になりますよ』と強く勧められ、つい乗ることにしてしまった。
今にして思えば、そういう押しに弱いところを見抜かれて、目をつけられたのかもしれない。
始めのうちは観光名所を解説を交えて回っていたが、だんだんそれが少なくなり、閑静な住宅街を通るようになった。
何かがおかしいと思って、降ろしてほしい旨を伝えても、『もう少しですから』の一点張り。
座席は結構な高さだ。無理やり降りようとしてもそれは難しいだろう。
気づけば人気のほとんどない通りに連れてこられ、そこで車が停まった。
男はこちらに手を差し出して言った。『二万円』
「でも乗った時の看板には三千円って……」
「あれは通常の価格。言ったでしょ、特別サービスだって。今回のコースは二万だから」
頭が真っ白になった。これは恐喝だ。
逃げ出そうと思っても、私がいるのは人力車の内側。片側は塀が、片側は男が塞いでいる。
「サービスを享受した分は、黙って払うのがスジだと思うんだけどな」
男は『黙って』の部分を強く言い放つ。
「でも……」
「でも、でもってうるせえな。グズグズしてんじゃねえよ」
男は温厚そうな態度から豹変し、不機嫌さを露にする。
こちらを睨んでプレッシャーを与えてくる。
私は下を向くしかない。
「ま、アンタがどうしても払いたくねえって言うなら、こっちにも考えがあるぜ」
一転、男は下卑た笑みを浮かべた。最初から『それ』が狙いだったのかもしれない。
「こういうのはどうだ? 今から俺と――」
ゴッ!
その瞬間、何かが物凄いスピードで飛んできて、男の額に衝突した。
よく見れば、野球ボールくらいの大きさの石だった。
男の顔を一筋の血が流れ落ちる。
「痛ってえな! 誰だこんな――」
男は思わず、石が飛んできた方を見る。私も思わず見る。そして目を見開いた。
石よりももっと、はるかに巨大なものが飛んできたからだ。
次に飛んできたのは自転車だった。
「うわああ!」
ガシャァアアン!
自転車は男の上半身に覆いかぶさる形でぶつかった。
男はよろめき、足元をふらつかせる。
そこに間髪入れず、第三の飛来物が襲いかかった。
人間だ。
ギターケースを背負ったその人影は、男の顔面めがけて真っ直ぐに飛びかかり、その膝を顎にめり込ませた。
男はたまらず倒れ込む。
見るも美しい飛び膝蹴りだった。
「ビンゴだオラァ!」
飛んできた人は勝ち誇った声を上げると、ずり落ちてきた男の頭にもう一発ミドルキックを放った。
男は痛みに悶え、沈黙する。それを見届けると、その人は自転車を拾い上げて立て直し、それからこちらに向き直った。
「ネエちゃん、生きてっか?」
そこで初めて、その人が女の人であることに気づいた。
いくらなんでも死んでいるわけはないのでこの質問はおかしいのだが、この時の私にそんなことを考える余裕があるはずもなく、ただ必死にコクコクと頷いた。
彼女は気にもとめない様子で、自転車の動作を一通り確認すると、上機嫌でサドルに跨った。
「乗んな。ズラかるよ」
「えっ、でも……」
「乗んねーの?」
彼女は男に目を遣る。呻き声を上げている。そしてまた私を見る。
『そいつは今にも復活するよ。私は逃げるけど、お前は逃げ切れんの?』と目が言っていた。
「の……乗ります」
思わず返事をしていた。正直、彼女のことも怖い。だけどやっぱり私はプレッシャーに弱い。

「近くの駅で降ろすんで」
彼女がこちらを見ずに言う。ピンク混じりの髪が風に吹かれて揺れている。
ギターケースを間に挟んで乗っているので自転車の上は少し狭い。
「あの……助けてくれたんですよね。ありがとうございます」
私はようやく冷静さを取り戻しかけていた。
「助けようと思ってやったんじゃない。目の前で調子に乗ってる害虫がいやがったから叩き潰したくなっただけだ」
そう言って彼女は鼻を鳴らす。
昔、漫画のヒーローが似たようなことを言っていたのを思い出す。なんだか急に親しみが湧いた。
「害虫ですか」
「世の中、あんなクソ野郎ばっかだ。弱みを見せりゃつけ込んでくる。こっちが下手に出りゃつけあがる。他人を食いものにするだけが能の害虫が、平然と『俺は強え』って勘違いしてんだ。不愉快なことにな」
彼女は思ったことをつらつらと口にしているだけなのだろう。しかしなんだか励まされるような心地になった。『アンタのような人間があんな奴に虐げられるのは間違いなんだ』と。この人はたぶん、正義の味方ではない。でも『弱者の味方』なんだ。
「じゃ、ここで。こっからは自分で調べて帰んな」
彼女は駅前に自転車を停めた。
「本当にありがとうございました」
私は自転車から降りると、深く頭を下げる。
返事はなかった。顔をあげると彼女は、何かを見て顔をしかめていた。かと思うと、次の瞬間には全力で自転車を漕ぎ出していた。
「どうしたんですか!?」
「お前にゃ関係ねえ。とっとと帰れ!」
自転車はあっという間に曲がり角の向こうへ消えていった。



「OKです。お疲れ様でした」
「ありがとうございまーす」
リハーサルを終えた青木さんと新川さんがはけてくる。
結局、リハーサルの時間になっても黒谷は現れず、黒谷抜きの二人でやることになった。
青木さんは何度も頭を下げていた。
オーナーは『ま、あの子はどうせ予測不能だ。いてもいなくても変わらねえだろ』などと笑っていたが、怒り心頭だったのが音響スタッフで、彼は『同じことがもう一度あったら、自分はあなた方の担当を二度と受けない』と警告した。
それも無理からぬこと。俺が彼の立場でも同じことを言うだろう。
「いやー参った参った」
控室に戻ってきた新川さんが荷物を漁っている。
「圭司、連絡はあったか?」
「いや、ねえ。何してんだかな、アイツ」
新川さんは荷物の中から携帯電話を取り出したが、ランプは光っていない。
「連絡つかないんですか?」
「ああ。どうやら家に置いてるみてえだな、携帯」
「え!?」
「ま、これ自体は珍しいことじゃねえんだ。人に呼び出されるのが嫌いなんだろうな」
それを聞いて気分が悪くなる。つまり、自分の気分を損なわないために他人に不利益を強いているわけだ。
「あの……大変なんじゃないですか? 新川さんも、青木さんも、いつも」
「なんだ、アイツの首を飛ばして自分にすげ替えろってか?」
新川さんは歯を見せて笑う。
「! いやいや、そんなことは全然」
全然ない、とは言えないが、自分に代わりが務まるとは思わないし、今のバンドを離れる気もない。
でも、あの人の素行の悪さがなければ、この人たちはもっと上に行けるんじゃないかと思ってしまう。
「残念だが、アイツの代わりになれる奴なんてのはいねえ」
新川さんは首を振る。
「ま、お前さんだけじゃねえよ。アイツを悪く見る奴は多い。俺もアイツがもう少し真面目になればといつも思うよ。ただ……」
冗談めかして笑っていた新川さんが、急に真剣な目つきになる。
「アイツは理由もなくリハをサボるような奴じゃねえ。いつもギリギリに到着して、好き勝手に振る舞って、それでもやることはやる奴だ。俺はそう思ってるよ」
「はぁ……」
「ああ。それはその通りだ」
青木さんも同意する。
「だからこそ今、不安だ。何か不慮の事故でも起こしているんじゃないかと」
「ま、どっしり待ってりゃいいさ。ヒーローは遅れてくるってね」
新川さんはそう言って笑ったが、顔色を見るとやはり不安げだ。
「本当にそう思ってるか?」
「……だって待つしかねえじゃん」



「おい、撒いたか!?」
「ダメだ! メチャクチャしつけえぞ!」
俺たちは全速力でバンを走らせる。だというのに『そいつ』を引き剥がせずにいた。
「こっちは車だぞ! 自転車のくせになんつう速さだ!」
『そいつ』は自転車にまたがり、物凄いスピードで脚を回転させて俺たちに食らいついていた。
ピンク色の髪がすべて後ろに流れ、剥き出しの眼光が鋭くこちらを睨んでいる。
「クソがッ……!」
まったくついてねえ。あんなやつに嗅ぎつけられるとは。

簡単な仕事だったはずだ。
俺たちはある男に雇われ、『人材』を用意する仕事をしていた。注文に合った人物を見つけて連れて行く仕事だ。本人の意志にかかわらず、だが。
今回の注文は『若い女』。何のための『人材』なのかは気にしないのが決まりだが、想像はたやすい。
ターゲットはすぐに見つかった。ボストンバックを肩にかけ、頭にバンダナを巻いた少女。家出少女だと一目で分かる。
仕事を用意してやると声を掛けると、そいつはホイホイついてきた。いつも通りに、『男』の息のかかった喫茶店で飯を食わせる。当然、眠り薬入りだ。
ターゲットが眠ったらあとは裏口からバンに運び込んで拘束し、指定の場所に連れていけばいい。
だが、その運び込む段階でミスをした。たまたま裏通りを歩いていた男に見つかったのだ。
それ自体はよくあることだ。そういう時のために、若くてデカい用心棒が車に控えている。
用心棒に目配せをして、男を路地裏に引きずり込ませる。あとはちょっと話し合いをして、『黙って』もらえばいい。
俺たちは用心棒を待つ間、ポーカーに興じることにした。
しばらくして、奴らが入っていった路地裏から、硬いもので殴る音が何度も聞こえてきた。俺たちは不審に思った。音でバレるのを防ぐために得物を使わないのが奴の主義だったはずだ。
路地裏を見ると人影が出てくる。それは俺たちの用心棒でも先ほどの男でもなく、角材を手にした女だった。
女は目を血走らせて周囲の様子を覗う。そしてこちらを一瞥すると、角材を投げ捨てて近くの自転車に飛び乗った。
『逃げろ!』
俺たちは大急ぎでバンを発車させた。

もう二十分は走ったはずだ。市街地を抜け、住宅街を抜け、山道へと差し掛かろうしている。
だというのに、女はまだついてきていた。
「なんだってこんなに執拗に追ってきやがるんだ」
「ガキの知り合いとか?」
助手席の仲間が親指で後ろを示す。後部座席には今回の獲物である少女を縛って寝かせてある。
もう目を覚ましているらしく、体を揺すり動かす音がする。しかし猿轡をしているので喋れない。
「違うだろ。あの女はコイツを見てねえはずだ」
「じゃあ正義感か? それにしちゃ、あまりに執念深くねえか」
「何にしても、これじゃ約束の場所に行くわけには――ん?」
ふと女の姿が見えないことに気づく。
「いねえ! ようやくヘバりやがったか」
「いや、さっきの分かれ道で間違えて右に行ったんじゃねえか?」
「ハハッ、そりゃいい」
右に行くと、坂道を登って登って、行き着く先は展望台だ。
奴が展望台に着いたら、悠々と走り去る俺たちを上から見て悔しがることだろう。
――『上から』?
嫌な予感がして空を見上げる。
視界を何かの影が横切った気がした。
次の瞬間、轟音が耳をつんざいた。

ガシャァアアアン!!

激しい衝撃とともに、フロントガラスが粉々に砕け散る。
思わずブレーキを踏み込む。
体が前につんのめる。
バンは数十メートル進んだ後、停止した。
そして見上げると、目の前には自転車の車輪があった。
『奴』だ。
奴は道を間違えたんじゃない。坂道を登って登って、そして俺たちめがけて飛び降りてきたんだ。
「トチ狂いやがって……!」
「よう。散々調子に乗ってくれたな。虫ケラども」

「おーい、生きてっか?」
その人はこちらを覗き込み、平気な顔で尋ねてきた。私は黙って頷く。
「そうかい」
「待て、待ってくれ。アンタの目的はあの少女の救出か?」
運転席の男は慌てて彼女に語りかける。
「よく考えてくれ。確かに俺たちは不当な手段であの子を連行してきた。だが働き口を紹介するというのは本当なんだ。な?」
男は助手席の男に同意を求めるが、彼は先程のショックか、気を失っているようだ。
そのことに気づくと、男は一人で話を続ける。
「あの、俺たちの主人は、まあ違法なこともやってはいるが、別に人間を奴隷扱いするような人じゃない。あの子のことも悪いようにはしないはずだ。身一つで街中に放り出されて野垂れ死ぬよりずっといいと思わないか?」
ピンク髪の彼女は顎に手を当てている。
「見逃してくれるなら、アンタにも金を払おう。そうだな、報酬の半分でどうだ? な、全員が幸せになれる、うまい話だろ」
「なるほどな、わかった」
「わかってくれたかい。それじゃあ――」
男が足元の鞄に手を入れた瞬間、彼女の靴が男の顔面に突き刺さった。男の手からスタンガンがこぼれる。
バランスを崩したところへ、更に膝蹴りが飛んでくる。男は呻き声を上げた。
「よーくわかったよ。テメエが舐め腐ったクソ害虫だってことがな! 私の目的を教えてやる。それはテメエのような調子に乗った害虫を叩き潰すことだ!」

「ま、こんなところか」
彼女は頭を掻く。足元では二人の男が顔を腫れ上がらせ、首から下は雁字搦めに縛られていた。
彼らは憎しみをぶつけるように、身動き一つできなくなるまで執拗に蹴り上げられた。
その後、彼女は私の拘束を解く。
「ぷはっ! はぁ、どうもありがとうございます」
「悪いけど、先を急ぐんでさ。警察呼んだりとか、そういうのはそっちでやってもらえるか?」
そう言いつつ、彼女は車に突っ込んだままだった自転車を引っ張り上げ、地面へと降ろした。
「あ、はい、大丈夫です。それより、その頭……」
彼女は額から血を流していた。恐らくガラスの破片で切れたのだろう。
「大したことじゃねえ」
「あの、よければこれを使ってください。せめてものお礼です」
「くれるのか。悪いね」
彼女は私の手渡したバンダナを頭に巻きつける。
それからサドルに腰を下ろし、地面を軽く何度か蹴ると、ペダルを深く踏み込んだ。
そしてそのまま猛スピードで走り去っていった。
私は携帯電話を取り出し、電話をかける。
「もしもし。私です。いえ、潜入は失敗した。下っ端を三人ほど伸しただけ。いえ、私じゃない。横槍が入った。そう。ふふ、でも面白い人だったわ。ええ、わかってる。次こそは奴の尻尾を掴む」



『ありがとう! またな!』
最後の曲が終わり、俺たちは観客へと手を振りながら退場する。
「良かったぜ、まっつん」
控室へと戻った俺たちを新川さんが笑顔で出迎えてくれる。青木さんも無言でサムズアップをしてくれた。
「緊張しましたよ。ほとんどが『ストームブリンガー』のファンだろうし」
「ハハハ! ま、それも経験だろ」
こういう時、気を使って否定したりしないのが新川さんらしい。
「ところで、黒谷さんはまだ――」
そう言いかけた瞬間、裏口の扉が音を立てて開いた。
汗まみれのピンク混じりの髪を揺らし、ぜえぜえと荒い呼吸をしながら、黒谷美樹が立っていた。
「ワリ。遅くなった」
「……何をしていたんだ」
青木さんが険しい表情で黒谷の前に立つ。
「色々あったんだよ。えーと、目が見えねえばあさんの安全を確保したり、恐喝で困ってる女を助けたり、あと誘拐された女の子を――」
ドス!
見え透いた嘘を言い終わる前に、青木さんの拳が黒谷の腹に沈んだ。
「今はそれで勘弁しておいてやる。後でゆっくり話を聞かせろ。それより出番だ。一分で支度して出てこい」
「ウス」
青木さんは舞台へ出ていった。
「ったく、今日という今日はキモ冷えたぜ。ま、間に合ったからいいけどよ。今日も頼むぜ」
「任せろ」
新川さんも出ていく。
黒谷は苦しそうにしながらも、ギターケースを開いて準備を始める。そして、本当に一分で支度を済ませてしまった。
「あっ……」
「あ? なんだよ」
俺は彼女の見慣れないバンダナから血が滲んでいることに気づいた。
「黒谷さん、頭のそれ……」
「これか? いいだろ。今日助けた奴に貰ったんだよ」
わざとらしく口の端を歪めて笑う。
「いや、そうじゃなくて、血が」
「うるせーよ。こんなもん何でもねえ」
黒谷は俺の言葉を意にも介さず、ふらふらと舞台へ上がっていった。
「……本当だってのか? あのムチャクチャな言い訳が」
黒谷が現れた瞬間、大きな歓声が上がった。
『ウス。ストームブリンガーです』
そっけない挨拶から間髪入れず、彼女はリフをかき鳴らす。歓声がさらに大きくなった。
青木さんの正確無比なドラム。新川さんのアグレッシブなベース。
そこにぴったり呼吸を合わせて、黒谷のギターが暴れまわる。黒谷の声が腹の底まで響いてくる。
さっきまでとはまるで別人のように見える。怪我も疲れも感じさせない、力強いプレイだ。
『オラ来いよ、虫ケラども!』
チキショー。やっぱかっけえな、この人たちは。


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