うつらうつらしながら掃除をしていると、家の外で車を停める音がした。ああ、また兄が来たか。そう思うと同時に、胃がキリキリと音を立て始める。
 溜め息をついて玄関に向かうと、ドアがガンガン叩かれる。鍵を開けると、兄が無言で家に上がってきた。そして台所の椅子に座るやいなや、突然怒鳴り始めた。
「ほんとに何を考えていやがるんだ!」
 案の定、また母と言い合いをしたらしい。私は黙って兄の口から飛び出す罵詈雑言に耳を傾ける。
 やはりというか、内容は父についてだ。入院している余命もあまりない父を退院させるか、させないか。兄は退院させても面倒見切れない、みんなの負担を考えろと言い、母は早く退院させて最期くらい家に返してあげたいと言う。
 兄は利己的で頭が非常に固く、何があっても自分の意見を押しつけてくる。そしてその性格は母からそっくりそのまま引き継いだものだ。これで考え方まで似ていたら良かったのだが、最悪な事に主張だけはいつも真逆。そんな二人が言い合いをしたら収拾がつかないのは誰が考えても分かる。
 だから仕方なく私がその仲裁をしている。双方の発言のトゲを可能な限り抜いて、極限までマイルドにしてからもう片方に伝える。これでやっと話が成り立つ。だから兄も母も、少し口喧嘩して纏まらないと感じたら私の所に来る。
「頭おかしいんじゃねえか? 親父を退院させたって、腰をやったお袋が世話できるわけねえだろ! どう世話するつもりなんだよ言ってみろよ!」
 この仲裁は本当に心を削られる。なにせお互いが、私が当人であるかのような剣幕で文句を言ってくるのだ。私が言い返さないと分かっているからなのか、余計に遠慮がない。
「どこの施設も空きがねえし、病院にいるのが楽で一番良いんだよ。すぐそこなんだし毎日通っても問題ないだろ? 何でこんなことが分からんかね」
 人の無能さを嘆くような兄の表情に、思わず拳を握り締める。そっくりそのまま返してやりたい。毎日病院に通って父の世話をするのがどれだけ大変かお前に分かるのか? 分かるわけがない。月一でしか見舞いに来ない薄情な人間には、絶対に。
 ……みんな好き勝手言ってくれる。毎日病院に看病に行っているのは私だ。例え退院したとしても、腰の悪い母の代わりに毎日世話をするのは私だ。なのに、兄も母も、私の都合はまったく聞かない。
「いい加減にしろ! お袋、家族のこと何も考えてねえじゃねえか!」
 いい加減にして欲しい。私だ。私だよ。やるのは全部、私。
 朝起きたら食事を作り、子供の世話をし、子供を預けたら腰の悪い母の世話をし、それが終わったら病院に行って父の看病をし、夫と子供が帰ってきたら家事、家事、家事。子供を寝かしつけたら、睡眠時間を削って昼やるはずだった内職をやる。おまけに兄と母からは事あるごとに容赦なく責められる。ここ1年、ずっとその繰り返し。
 専業主婦だから楽だと、それくらいするべきだと、みんな思ってるに違いない。冗談じゃない。毎日本当にギリギリのところを生きている。
 一番辛いのは、私なのに。
 
 兄を送り出した後、食事を簡単に済ませる。兄に無駄に時間を取られたから、早く病院に向かわないといけない。準備をしていると足元が少しふらつく。ここ数日睡眠不足で、昨日にいたっては全く寝れていない。けれど、ここで寝るわけにはいかない。
 途中何度か意識が途切れたが、なんとか病院までたどり着いた。外はすでに暗く、病院にはほとんど人がいなかった。耳が痛くなるほどシンとしている。
 ……だからこそ余計に、父のうなり声がよく響いた。父の病室がある階に来ると、遠くから痛みに呻く声が聞こえてくる。小走りで病室に向かい、急いで父の背中をさする。
「父さん、遅れてごめんね」
 痛みでじっとしていられないのだろう、父は常にベットの上で身をよじらせていた。ここ数日ずっとこうだ。恐らく3日は寝れていないだろう。
 服を脱がせて体を拭いてあげると、父は少し落ち着いた様子を見せた。清潔になったというのもあるだろうが、体に刺激があるのが良かったのだろう。常に身体のどこかが気持ち悪い痛みを発していて、じっとしていられないらしい。そういう時は、手を握ったりさすったりすると、多少気が紛れるのだそうだ。
 やるべきことが一通り終わると、どっと疲れが出てきた。倒れるように椅子に座る。勝手にまぶたが落ちてくるのが分かる。おぼろげな視界の端で、父が震える手をこっちに向けて来るのが見えた。握って欲しいのだろう。きっとまた痛み出したのだ。消えそうな意識の中で、辛うじてその手を掴む。
 もう限界だ。
 そう感じてそのまま眠りにつこうとすると、呻き声が聞こえてきた。どうやら、もう手を握った程度では紛れない痛みになってきたらしい。だけど私に、余裕はもう無かった。
 だから思わず、言ってはいけないことを口にしてしまった。
「ごめん父さん、1時間だけ黙ってくれない? ちょっと寝かせて――――」
 そこで私の意識は、暗い暗い底へと落ちていった。
 
「うぅ……あ……」
 絞り出すような父の声で、ハッと目が覚めた。見ると、父が苦しそうに身じろぎをしていた。時計を見ると、あれから2時間経っている。
 私はすぐに理解した。父は本当に我慢したのだ。2時間ずっと、声を出さないよう歯を食いしばり、蠢く痛みに耐え、じっと身動きせず音を立てなかった。私のために。
 その瞬間、私の頭の中はぐちゃぐちゃになった。痩せ細った父の手をぎゅっと握りしめる。
「ごめんね、ごめんね……」
 謝罪の言葉をひたすら繰り返す。生暖かい液体がぼたぼたと落ちて、私達の手を濡らした。
 何が、一番辛いのは私、だ。そんなわけがないことは、分かっていたはずなのに。
 一番辛いのは、毎日ギリギリのところで生きているのは、父に決まってるじゃないか。
 それなのに、父は……。
 
 父の痛みが強くなったと伝えると、病院の先生が痛みを和らげる薬剤を投与してくれた。薬が入ると、父はすぐに寝息を立て始めた。数日ぶりの睡眠だ。そっとしておこう。
 じっと父の顔を見つめる。かつてあんなに元気で勇ましかった父は、もはや見る影もない。シワはふえ、顔はやつれ、肌の色も病気で黄色がかっている。それなのに、父は全く変わらない。
 孝行のつもりで看病を続けてきたが、この年になっても父からは貰ってばかりだ。きっと、親孝行なんて不可能なんだろう。父からの恩は、絶対に返しきれない。
 だからこそ、どんなに辛くても、尽くし続けよう。貴方が死ぬ、そのギリギリまで。


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