1学期末試験の7日前、今日から部活動停止期間となり時間をもてあますので学校の図書室で勉強を始めてみたものの、全く集中できなかった。
これでも県内三番手の進学校ではあるのだが勤勉な生徒は少なく、イチャつきながら勉強しているカップルだらけで気が散る事この上ない。
……と偉そうな事を考えているが、自分自身校内の成績は中の上程度で特に優秀なわけではない。
二年生の夏、そろそろ進路を意識し始める季節だが、先のことを考えるのも得意ではない。
ともかく慣れないことはするもんじゃないな、と反省しながら1時間ほどで図書室を去る。
特にできることもないのでそのまま帰ろうとしたが、下駄箱にたどり着いたところで今朝母親に言われたことを思い出した。
弁当箱絶対持って帰ってくるように、と。
昨日が試験期間前最後の部活で、部室に空の弁当箱を置いてきてしまったのだった。
俺は踵を返し、部室棟2階の文芸部室へと向かった。
部室棟の廊下は、部活動停止期間特有の静かさに包まれていた。
廊下を歩くのは自分だけで、外から聞こえる野球部の野太い声も吹奏楽部の楽器の音もない、ワクワクする非日常のような、それでいて少しだけ不安になるような空間。
人嫌いという訳ではないが、それでもなんだか心地よかった。
歩みを進めるとすぐに文芸部室の前に着いた。
学校に黙って作った合い鍵を鞄の中から取り出そうとしたその時、静寂の中で小さく人の声が聞こえた。
それは意味のある"言葉"ではなく"声"だった。
──んっ、はぁ、はぁ、はぁ、んん、ひああっ……
細切れな息をきらす音、それは映像の中でしか知らないあえぎ声そのものだった。
同時にパイプ机がきしむ生々しい音もかすかに聞こえた。
そして、それらのくぐもった声と音は、今まさに鍵穴に差し込もうとしていた目の前の部屋から出ているものだ。
それらを瞬時に悟った瞬間、俺は鍵を握った手を止め、そのまま数秒ほど固まった。
その間も規則的に机のきしむ音と息遣いは止まなかった。
どうやらこちらの気配は気づかれていないようだ。
このまま立ち去るべきか?
弁当箱は、忘れたと言えば済む話だ。
しかし俺は、校内でしかも自分が所属する部室で起きている非日常への興味を抑えきれなかった。
気づかれていないのを良いことに俺は再び聞き耳を立てた。
人が通りかかったらすぐ立ち去れるように廊下の人の気配にも気を配りながら。
──んんっ…、んん、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ
──はぁ、あぁっ、あっ、ああぁん…
変わらず女性の艶めかしい吐息が聞こえる。
聞いているうちに当然の一つの疑問が浮かんだ。
中にいるのは誰だ?
しかし、日常的に出すような声の類ではないから、少なくともぱっと思い当たる人物はいない。
部室のマスターキーは職員室で一括で管理している。
教師は誰がどの部活などと全て把握していないから、「少し用事があって」「忘れ物をした」などと言えば試験期間中でも誰でも入れるだろう。
だから文芸部員とは限らない。
──あっ…ああん! はぁっあっ…んあっ
──んんっ…っぁ!や…め…っんん
そもそも基本的には立ち入り禁止期間なのだから、鍵を借りて長居するのはリスクがある。
しかも、鍵はそれだけじゃないはずだ。
現に俺の手元にも複製された鍵がある。
この鍵は、先月部長の優花里先輩が
「こっそり複製したから副部長の吉田君に"も"渡しておくね」
といたずらっぽい笑みを浮かべながら手渡してきたものだ。
いや、そんなはずはない。
優花里先輩がそんなことをするはずがない。
脳内をよぎった仮説を自ら掻き消そうとしたその時、
──んんっ……ぁっ…や…め…っんん
──はぁ……すっご…く……きもちぃ……いよ
息絶え絶えだがはっきりした言葉が聞こえる。
間違いない、声の主は優花里先輩だ。
強烈な不快感とともに、胃液が喉元までせせり上がる。
それをぐっと飲みこむも、口内には苦味が広がる。
自分の中にあった先輩の輪郭が崩れ去っていく。
入学式の朝、優花里先輩から文芸部のビラを受け取ったその日から、
俺は先輩のことが……好きだった。
──あうっ、んんっ……っ
──ひゃっ…もっと……ついてっ…
先輩と少しでも一緒にいる時間が欲しくて、電車通学するつもりだったのを自転車通学にした。
先輩の話に合わせるためにイギリス文学も読み漁った。
文化祭ではシフト担当の先輩にこっそり頼んで、優花里先輩とシフトの時間を合わせてもらった。
先輩に認められたくて2年生で副部長に立候補した。
今年の夏休みには先輩を誘って二人で古本屋に行った。
──だめぇ……ん、ふ……あぁ……
──ぼくも、気持ちいいですよ……先輩
これまで聞こえてこなかったハスキーな声が聞こえた。
この声にも聞き覚えがある。
……1年生部員の滝口くんだ。
そう気づいた瞬間、強烈な眩暈に襲われてよろめく。
汗が髪を濡らし、乱れた呼吸の音が耳に響く。
その呼吸音が部屋の中のものではなく、自分から発せられたものだと気が付き、はっと左右を見回す。
周囲の人の気配に注意を払うことなどとうに忘れてしまっていたが、幸いなことに誰も見当たらなかった。
俺は自分の意思で更に二歩後ずさり、壁に背中をあずけて呼吸を整える。
だが、深呼吸しようとしてもうまく息を吸い込めない。
呼吸は早くなっていくばかりだ。
とうとう立っているのも苦しくなってくる。
今にもその場に崩れ落ちてしまいそうな自分の足をひきずり、奥の階段まで到達したところで倒れこんだ。
階段の踊り場の床に身を預けて寝転がっていると、呼吸は落ち着いて少しだけ冷静さを取り戻した。
鞄の中にあった飲みかけのペットボトルを一気に飲み干すと、ぼやけていた視界も鮮明になる。
「はぁ~~~」
1年以上ずっと追いかけていた先輩が、後輩と付き合っていた。
失恋した痛み、苦しみ、それを最悪の形で知った心の中はただただぐちゃぐちゃで整理がつかない。
呼吸を落ち着けたところで、脳は考えることを拒否している。
「あーあ、とうとう知っちまったか」
「うおっ!?」
誰もいないと思っていたところでいきなり話しかけられ、思わず空のペットボトルを落とす。
声のする方、階段の上に目をやるとそこには見知らぬ男が立っていた。
特に特徴のない顔だが、その顔はうっすら笑みを浮かべている。
「すまんすまん、ビックリさせたな」
「い、いえ……こっちこそなんかすいません」
「いやいや気にするな」
そういいながら彼は俺の横に同じように寝転がる。
少し怖くなり俺は身を起こす。
「あの……誰ですか?」
彼は学校の制服ではなく、Tシャツにジーパンという非常にラフな格好をしている。
見た目も30代くらいか。随分大人びているように見える。
「名取、とでも名乗っておこう、君は?」
「えっと、吉田ですけど……」
言葉尻に何か用ですか?というニュアンスを込めるものの、名取と名乗る彼は意に介していないようで
「ふーん」
と言いながら、笑顔を崩さないまま俺をじっと見てくる。
本当に何の用なのだ。
こちとら見知らぬ人と喋る気分ではない、何も考えず寝っ転がっていたい。
数秒の沈黙を経て、再び彼が口を開く。
「で、とうとう君も知っちゃったか」
「………何をですか?」
思い至る節はあったが、ぎゅっと唇を噛み彼の言葉を待つことにした。
「さっき部室に聞き耳立ててたの、バッチリ見えてたぞ」
やはりそのことか。
俺は再び部室内から漏れ聞こえてきた声を思い出し、軽い吐き気を催す。
そんな俺にかまわず彼は言葉を続ける。
「そりゃあショックだよな」
「……」
「ずっと好きだった部長が他の男とセックスしてるんだもんな」
「なんでそこまで」
「しかも相手が後輩だもんなぁ、うわーしんどいね」
「だから、誰なんですかあなた!!」
我慢できず大きな声をあげてしまう。
その声は部室までは届かないだろうが廊下に響き渡る。
「この学校の、そうだな……OBといったところだ」
怪しい、とにかく怪しすぎる。
「安心しろ、俺は君の部活の人々の知り合いじゃないし、君の気持ちを言いふらしたりはしない」
「いや、それはそれで安心出来ないというか怖いんですが」
そんな人が何で部長や俺のことを知っているんだ。
彼はなおも寝転がったまま言葉を続ける。
「ところで、君はあの部室内の行為がセックスだと思うか?」
「……は?」
「いいから答えてみなよ」
「……思い出したくもないですけど、そうなんじゃないですか? というか、あなたもさっきそう言ったでしょう」
「見てもいないのに断言できるか?」
「……状況だけ考えれば他にないと思いますが」
「いや、アンジャッシュのコントなら、中で二人で障子の貼り替えでもしてるんじゃないか?」
「バカにしてるなら帰ります」
俺は鞄を手に持ち立ち上がる。
少し気になるが、相手にする義理も元気もない。
「悪かった! 待ってくれよ!」
ぱっと起き上がり、俺の腕を掴んでくる。
その力は予想以上に強く容易には振り払えない。
「だから何なんですかあなたは! こうして傷心中の俺をおちょくって何がしたいんですか!」
「いやでもさ、実際セックスしてるの見たわけじゃないじゃん? だったら分からないじゃん。シュレディンガーだよシュレディンガー」
彼は飄々とした笑顔を浮かべながらそう答える。
「万が一違うとして、どうするんですか」
「とにかく確かめればいいんじゃない? 鍵持ってるんでしょ?」
「嫌ですよそんなの。99%自分が傷つくのに」
「ふーん、そうか」
つまらん答えだ、とでも言いたいのだろうか。
いい加減腹が立ってくる。
「もういいですか? 好きだった人が寝取られて辛いんですよ僕は。一人にさせて下さい」
俺は彼の腕を振り払い、階段を降りようと一歩踏み出す。
その時、
「おい、なんて言った今」
「だから、好きだった人が寝取られて辛いんです」
「ふざけんじゃねえぞてめぇ!」
先ほどまで笑顔だった彼の顔は真剣なものになっていた。
その剣幕に思わず足を止める。
「よくも偉そうに寝取られたなんて言いやがったな!」
「寝取られるってのはな、付き合ってる奴だけが使っていい言葉なんだよ」
「す、すいません。言葉の綾で……」
「一人前に自己憐憫に浸りやがって。お前にそんな資格ねえんだよ。
お前が勝手に好きになって、告白もせずにフラれただけなんだよ。
中で今先輩とセックスしてるのはお前の後輩なんだろ?
後輩はえらいなぁ!
お前より先輩といた時間は短いのに、告白して付き合ってセックスしてるんだよ!
お前は努力したか? 最善は尽くしたか?
先輩に好きになってもらえるように、先輩に恋愛対象として見てもらえるように努力したか?
どうせ一緒に帰るとか、共通の話題を増やすためにみみっちいストーカー行為をして、家で先輩のことを想いながら一人でオナってたんだろ?」
「あの、その……」
「でも後輩は違ったんだよ、自分を磨いて、先輩にしっかり告白して。
ただ見ていただけのお前とは違うんだよ、だから今幸せを掴んでいるんだよ。
それを言うに事欠いて寝取られただぁ!?
先輩はお前のモノでもなんでもないんだよ!
お前がいだいてきた先輩像がお前の中にあるだけなんだよ」
「分かりましたから、分かりましたから……」
「そもそも、その先輩と後輩が付き合っているとも限らないけどな。
お前の中にある先輩像だと、先輩が付き合ってもいない男とセックスするような人ではないんだろうけどな。
でも、学校でセックスする女なんかロクな思考じゃねえよ。
よっぽど押しに弱いか、それかアバズレかだ。
でも後者だろうな、だってあんなに気持ちよさそうな声あげてるんだぜ。
最低な女だな」
「違う……違いますよ……」
「その鍵、その先輩がくれたんだろ? 一ヵ月前に。
自分が鍵を複製するついでにな。
はじめっから部室でセックスするために鍵作ったのかもな。
自分だけ鍵を作ったら怪しいから、口実にお前を使ったんだろう。
自分にいつも尻尾を振ってくるバカな男ほど扱いやすい奴はいないからなぁ。
惨めだなぁ、哀れだなぁお前は」
「や、やめ、やめてくれ……」
「なぁ悔しくないのか、年下の男に負けてさ。
俺は悔しかったよ。
高校時代に初恋の女の子に告白して付き合ったのに、
翌日にその子と先生がホテルに入っていくのを目撃してさ。
半年間気づいていない振りしてたけど、
今度は彼女が部活の後輩のチンポ舐めてる写真を
その後輩から自慢気に見せられてさ。
後輩は俺が彼女と付き合ってること知らなかったみたいだけど、
俺はその場でそいつを殴って停学になったよ。
それから数年後、社内恋愛して数年後に結婚して息子も産まれて。
でも、その子は俺の子じゃなくて、俺の部下と妻が不倫して出来た子だったんだよ。
俺の隣の席で仕事してた部下は、どんな気持ちで俺の嫁を抱いたんだろうな?
無責任に上司の嫁とセックスするのは最高の気分だっただろうなぁ!
俺はもう耐えきれなくて自分で命を絶ったんだ。
そしたら死にきれなくて成仏できずじまいで」
「え、えっと……」
「だから、お前は後悔しないように生きろよ。
くだらない女に執着して大事な時間を無駄にするな。
執着するから失った時に余計に辛くなる。
そして、奪われる男じゃなくて奪う男になれ。
それが、血のつながっていない父親から息子への遺言だ」
そう言い残すと、男はすぅっと薄くなってしまいに消えていった。
キーンコーンカーンコーン
下校時間を告げるチャイムが鳴り響く。
いつしか流れていた涙をぬぐい、足早に階段を駆け下りて下校する。
万が一、二人に遭遇でもしたらどうすればいいかわからない。
結局、弁当箱は部室に翌日まで放置された。
でも母親にそのことを謝らなかった。
──期末試験が終わり、夏休みを迎えた。
俺は優花里先輩を古本屋に誘った。
途中で手を握ると、先輩は握り返してきた。
そのまま先輩は俺の部屋を訪れ、クーラーが効いた部屋の中でセックスをした。
秋になり、彼女は部活を引退した。
彼女とは、それっきり連絡をとってない。
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