「忘れた」と気づくその時まで、忘れ物は忘れ物ではないのだろう……か。
君は今、何を考えていて。
君は今、何を想っていて。
君は今、何を感じていて。
ふとした次の瞬間、ついさっきまで脳内に何を浮かべていたのか分からなくなることがある。
そこに忘れた何かがあると分かっているのにそれが何だったかが思い出せない。
モヤモヤとした気持ちに埋め尽くされていく。不快、苛立ち、焦燥、そして絶望。
私たちは忘れ物を憶えているのだろうか?
忘。忘。忘。
亡くした心と書いて忘。
心を亡くしても忘。
亡き心。それも忘。
ミえナいココロはイタむ。
忘れた何かがあるんじゃねえのか?
焦りがどうしようもなく平常心を蝕んでいく。
やらなきゃ、やらなきゃな。
あれ?それは本当にやらないといけないことだったか?
やりたいことだった?
やるしかないことだった?
思い出せねぇ。
思い出さなきゃな。
貴方は刻まなければならない
貴方は忘れてはならない
貴方は思い出さなければならない
忘れてしまえばよいのだ。可愛い悪魔が囁く。
忘れる程度のことなど。誰かが嘲笑う。
忘れてしまった方が楽なのよ。天使の面を被った君が泣いている。
さざめきが耳に纏わりついて、微かな息遣いが耳元から離れなくて、慟哭と嗚咽が頭を揺らし続ける。
三本の足で立とうとして。
神妙な面持ちで君は僕を見ていたんだ。
きっと分かりあえたんだ。
ピースを向けられる。
満面の笑みで君は僕に笑ったんだよね。
分かった気になっていた。
指を咥えていた。
君は誰を、どこを、何を見ていたんだろう。
分からなかった。
握りしめていた拳はやがて力をなくし、ゆるりとほどけた。
全てを掬い上げるような手のひらから全てが零れ落ちていった。
忘れてしまった。
***
忘れた何かをあの時、忘れる前のその時まで、本当に僕は憶えていたんだっけ。
ポツポツと降り出した雨が髪を濡らし頬を濡らし、雫となって睫毛をつたって落ちていく。
見上げた空は晴れていた。それなのに雨が降っていた。
ほんの少しの雲と薄い虹が乾いた空を透かして輝いて。
なにかがきえていく。
唐突に傘が視界を遮った。
雨は僕のまわりだけ止んだ。
傘の端から滑り落ちた一滴が額に落ちた。
その一滴は顔の上を転がりながら粒を集めて大きい水玉になって、口先から静かに服の上に落ちた。
服が弾いて球体のまま浮いていた水玉を僕は凝視していた。結局すぐ水玉は服に染み込んできえていったけど。
無くなった水玉の代わりに、仕方なく僕は地面に出来ていた水溜まりを俯いてじっと見つめる。
当たり前のように僕が映っていた。そこにいた。
僕の背後の傘の柄から誰かが水溜まりの中にいる僕の眼の奥を覗き込んだ。
かがんでいた僕の上からその人は声をかけてきた。
「傘も差さないで何をしているんですか貴方はまったく」
責めるわけではなく、あくまでもちょっと呆れたくらいの口調。
彼女は透き通った声をしていた。
「服もびしょびしょにして……」
僕は何も答えず、何も言わずただ俯き続けた。
ぽふっとタオルが首元に掛けられた。
ふわふわで気持ち良くてまるで雲のような肌触り。
お日様の優しく温かい匂いが鼻をくすぐった。
声の正体を直接にらんでやろうと水鏡から目を離してやっと僕はもう一度顔を上げた。
空はやっぱり晴れていた。
僕の睨み目と目が合うと、もうっと膨らませていた頬を戻して彼女はゆっくり微笑んだ。
「そのままでは風邪を引きますよ。そろそろ帰りましょう」
雨は止んで、残った日差しが石畳の色を変え始めていた。
彼女は傘をそっと畳んで紐を締めて細くすると左手に持って腰の横に添える。
彼女は膝を半分くらい曲げて腕を目一杯伸ばして右手を僕に差し出した。
「さぁ」
彼女の眼を見つめていた僕は、彼女のシルエットを辿るようにして、差し出されたその手のひらまで視線を動かしていく。
***
厚く濃い灰色の雲に覆われた空から雨が降り注いでいた。
雨は線を束にして僕を貫くようにこれでもかと濡らしていた。
立ち尽くした僕は茫然と目の前を虚ろな眼で見ていた。
口まで伝ってくる大量の雨水が呼吸を邪魔して、溺れるかと勘違いしてしまいそうだった。
僕の身体を洗い流し、雨は足元の濁流に混ざっていく。
ただひたすらに流れは汚さを増しながら何処かへと流れていった。
「何をしにきたんだお前は!」
雷鳴と紛うほどに怒り狂った口調。
彼女は低く枯れたような声をしていた。
「……僕は、」
かすれた声を絞り出して僕は答えようとする。
一回水で咳き込んだ後、言葉を続ける。
「僕は、ここに……、あれ?……あれ?」
後ろからの怒鳴り声に振り返りもせず答えようとしていた僕は言葉に詰まった。
「どうした?」
さっきよりは怒気を減らし、代わりに奇妙がりながら彼女は僕に言葉の続きを問い詰めた。
「……わからないんだ。ここにいる理由が」
頭の中まで洗い流されたかのようだった。
「はぁっ!?」
彼女の驚き声に怒気が少し戻っていた。
「いや、忘れたんだ……多分」
さっきまで憶えていたそれを僕はたった今、一切合切忘れてしまったんだ。
そう思った。
空虚さだけが全身を満たしていた。
思い出せないそれを、思い出せやしないと分かりながらも、思い出そうと僕は虚空を見上げて激しい雨に打たれていた。
「ふざけてんのか?」
僕は答えない。
乾いた眼を潤そうとする途切れない慈雨に心を奪われていた。
視線は背中にずっと感じていた。
同じ方向を向いていたに違いない。
そう思っていた。
雨音にかき消された溜息が聞こえた気がした。
「はぁ。ふざけているわけじゃあなさそうだが、」
とん、と背中が小さい手のひらのような感触に押された。
あまりに弱い力でなんとか僕を動かすぐらいの力。
むしろ僕が壁で彼女が後ろに下がるために押したかのように。
抵抗することもなく半歩ほど僕は立ち尽くしていた右足を前に出して、身体は半歩の半分だけ前に出た。
虚空から離された視線は束になった雨を貫いてその先を見た。
たったそれだけ。それだけで充分だった。
届かないと思っていた目の前にあったそれに手が届く気がした。届いた。
きっと思い出せると思った。
精一杯腕を伸ばし、人差し指も伸ばして、ちょん、と指先が触れた。
黒い大きな四角い石の塊の角。ひんやりとしていた。
硬い無機物の手触り。
水など気にせず在るだけの存在。
呼び名は……いや、それにどう呼びかけるかは人次第だろう。
「それでいい。思い出せなけりゃそれでいいんだよ。忘れたんならもうそれは無いんだ、」
降りしきる雨音に混じって聞こえないはずの一滴が落ちた音を聴いた。間違いなかった。
「戻りな。お前が居るべき場所はここじゃねぇだろ」
聴こえた音に何かを思い出しそうになって、慌てて僕は振り返った――
***
澄み渡る青空。視界を遮るモノは一つもなくどこまでも見渡せる。
何もない。
なにかがあったんだきっと。
僕はそのなにかは分からないけどなにかがあったことを知っている。
――それで充分だ。
知らないはずなのに知っているような声が聴こえた気がした。
あとちょっとで思い出せると直感した。
「どうかなさいましたか?」
知っているはずなのに知らないような声が後ろからかかる。
「いや、何でもないよ」
僕は前を向き直して差し出されていた手のひらを握り返した。
そして引っ張られるままに立ち上がる。
握った手は僕のよりも少し冷たかった。
けれどとても柔らかくて温かいと錯覚する感触。
彼女は手をほどき肩にかかったタオルの片端で僕の顔に残った雨粒を拭おうとする。
一瞬真っ白に視界を覆った布地に思わず目を瞑った。
再びを目を開けると彼女はにこりと笑って僕と同じ方向に向きを変えた。
翻ったスカートが照りつける日光を反射してキラキラと輝いた。
「さぁ行きましょう」
彼女について僕は進む。
ぴちゃんと足元で小さな水溜まりが弾けた。
一歩、また一歩。
最初は重い足取り、段々軽い足取りに。
虹色に煌めく長い長い橋を渡り始める。
橋の下は美しい透き通る巨大な水溜まり。
流れのないこれは……?
……河?
……湖?
……海?
虹の橋は踏みしめる度にシャンと不思議な音がした。
楽しくなって羽が生えたように歩調は跳ねる。
大きな水溜まりにはところどころに流氷の如く白い氷が張っていた。
ただ流氷と違って薄く、下の水面が透けている。
橋は終わりが見えず、緩やかに上っている。
水溜まりも橋もどこまでも続く空と同じよう。
――――――。
ハッとして振り返ろうとした。
いつの間にかタオルは大きくなって身体を包み込み、フードのように頭を覆い、後ろを見えなくしていた。
「さぁ前へ。戻りは出来ません」
慈しむように無慈悲な声で彼女は言った。
「そう、か」
自然と声が漏れた。
微かな声はそれを最後に零れ落ちるように消えてしまった。
***
そうだったなぁ。
「そうなのですよ。思い出しましたか」
……前へ。
「えぇ。前へ進まなくてなりません。そのために私たちはさらにその前をゆくのです」
僕の知っている人たちもそうだったよ。
「そうでしょう。忘れていても皆どこかに憶えていますから」
忘れていても、か。
「無くしていたモノは見つかりましたか?」
そうだなぁ。
「亡くしていた心はどこにあるか分かりますか」
僕と在った。
「今は?」
あの子たちと共にあるのでしょう?
立ち止まって欄干から見降ろした大きな大きな空は無数の忘れ物に満ちている。
それはいつか見つけられるその日まで在り続けるのだろう。
「そういうことです、」
初めから在ったのにいつからそれは忘れられたのでしょう
忘れたその時は分からぬまま思い出すその日まで
ただ在ればよいのです
………………。
最後にもう一度だけ声を……。
「良いでしょう」
僕は眼下に広がる美しい空にありったけの思いを込めて一言だけ語りかける。
「ありがとう」
「ふふっ」
彼女は最期の僕の声に愛おしむように笑った。
どうしました?
「いえ、皆ありがとうと言うのですよ。今貴方が言ったように」
そうでしたか。分かる気がします。
欄干から手を離し、僕はまた前を向く。向ける。
「では。参りましょうか」
はい
シャンと音が響いた。
響いた音は空を巡り、降り注ぐ。
きっとかならず君は笑うんだ。
***
一筋の煙がゆらゆらと昇っていく。
それを追いかけるように私は空を見上げた。
太陽が遍く照らしていた。
雲一つない空なのに頬に水滴を感じた。
風も吹いてもいないのに鈴のような音が聴こえた。
ぜんぶ光って弾けて跳ねて石畳に吸い込まれていく。
この場所には私の他に誰一人いない。
でも何かが確かに在って、一緒にあるんじゃねえの。
美しい空から目を下ろし、私も前を見る。
「忘れた頃にでもまた来るよ。じゃあな」
私はにやりと笑った。
トップに戻る