暑い。
地下鉄の駅から一歩踏み出した瞬間、全身を熱気が包んだ。
もう夜も遅いというのにこの暑さはなんだというのか。
早く家に帰ってシャワーを浴びたい。そして冷たい水を飲みたい。その一心で歩き続ける。
公園が目に入る。いつもと少し様子が違うようだ。
いつもはセミがうるさいだけだが、今日は薄ぼんやりとした明かりが灯り、人が集まっているようだ。
祭りか。面倒だな。
この公園は木々が生い茂っていて風通しもいいからそれなりに涼しい。だから少し休んで涼んでいく日もあるのだが、今日はそれもできそうにない。
祭りは既に終わって客は帰っているようだ。残っているのは店員たちで、撤収作業をしながら話に花を咲かせる人もいれば、そんなことお構いなしにテントの中で酒盛りをしている者もいる。
まあ俺には関係ない。とっとと通り抜けて……
「あのー」
不意に声をかけられる。振り向くとそこにいたのは女だった。
手拭を頭に巻き、髪を後ろで括っている。そして両手には何かが入ったプラカップ。
「氷、いりません?」
「……氷?」
「余っちゃいましたんで。はい」
片方のカップが手渡される。まだ返事をしていないのだが。
カップを見ると、氷の塊が無造作に入っていた。とけた水滴が滴り落ち、底に少し溜まっている。
「この暑さなんで、冷たいものが欲しいかなと思いまして」
冷気が手の中に広がるのを感じる。
……確かにこいつはちょっと魅力的だ。
コップを傾け、水を口の中に流し込む。
キンキンに冷えた水が喉を、脳を冷やしていく。ぼんやりしていた頭が一気に冴えた。
「一息ついたでしょ?」
気づくと女はベンチに座っている。
「そうですね、どうも」
「良ければ座って話しませんか? ここなら風がよく通って涼しいですよ」
知ってますよ。あなたが座っているそのベンチは俺がよく休憩に使うスポットだ。
「氷がとけるまでの間、涼んでいきませんか」
「いいですけど……」
「よかった。ちょうど話し相手が欲しくて」
ということで俺もベンチに腰を下ろすことにした。なるべく端の方に。

「氷ってことはかき氷屋さんですか?」
「ええ、そうです。結構いいですよ。作ってるときも涼しいし、終わってからもこうして残った氷で涼めますから」
「確かに」
『冷静に考えるとヤバいよね、かき氷って』
不意に実家の妹の声が頭に浮かぶ。
『何がだ』
『水じゃん、原材料。雰囲気だけで買わせてるけどさ』
『かわいくねえこと言うなあ』
『はあ?本音言ってるだけですけど。言っとくけど全部作りもんだからね、女のかわいげなんてのは』
……嫌なやりとりを思い出してしまった。こんな時に難癖女のことを考えても余計に暑苦しくなるだけだ。早く頭から出ていけ。
「普段は和菓子屋なんですけどね。こういう場所じゃさすがに出しにくいですから」
「ああ、なるほど」
言われてよく見れば、やけにしっかりした割烹着を着ているのに気づく。そう思うと頭の手拭も上等な品に見えてくる。
「あ、じゃあ宇治金時とかも?」
「ありますよ。あんまり数は出ないんですけどね。売れ行きはいちごミルクが一番です」
「なるほど。まあ定番ですかね」
「ですね」
話しつつ、冷水を喉に流し込んでいく。水が溜まるたびにちびちび飲んでいるので一回あたりはわずかな量だが、それでも火照った体には最高に効く冷たさだ。かき氷もいいが、今はこの水がありがたい。
「美味しそうに飲みますね」
女は目を細めて笑う。見られていたらしい。
「いや、まあ美味いですよ。こういう時の水は」
「そうですね。暑い時は水が一番ですね」
そう言いつつ、彼女のカップの水は減っていない。と思っていると、向こうも見られていることに気づいたらしい。
「じゃあ私も」
頭を上に向けてカップを口につける。
カップの中の水が減っていくのと同時に、喉が音を立てながら断続的に動くのが目に入って、思わず目をそらす。
やがて水がなくなり、正面に向き直ると彼女は満足そうに息を吐き出した。
「『ためて飲む派』なんです」
「それは我慢して、っていう話ですか?」
「そうですそうです。我慢した分、余計に美味しく感じるっていう」
「なるほど。俺は我慢できずに『飲んじゃう派』ですね」
彼女の顔がふっとほころぶ。いい人だな、と思う。
「派閥といえば、『氷食べる派』ですか?」
「飲み物の氷は結構食べる方ですね。外だと食べづらい時もありますけど」
「あー、そうですね」
「まああと大きさにもよるかな……細かい氷の方が好きですね。さすがにこの氷はまだ食べられないです」
カップの中の氷はまだ外壁に接したまま、落ちる気配がない。
「それは誰でも無理ですって」
自分の手元の氷を見て彼女は笑う。
「私、氷食べるのが好きなんですよね。氷単体で食べることもあるくらい」
「ああ、いますよね。じゃあこの氷も……」
「はい、食べるつもりで。今はまだ食べられないんで、我慢の段階ですね」
「なるほど……」
彼女が氷を食べる姿を思い浮かべる。口に含み、中で転がし、徐々にとける氷。
この人も最後には氷に歯を立てて粉々に噛み砕くのだろうか。あまり想像できない。
「だいぶ涼しくなってきましたね」
「そうですね。お陰さまで」
「氷さまさまってやつですね」
そう言って小さく笑うと、彼女は指を組んで伸びをした。
「あー、もう夏も終わりかー。夏らしいこと、あんまりしなかったなあ」
「いやいや、9月も夏だと思いますよ。相当暑いじゃないですか」
「まあ、暑さで言えばそうですけどね……」

「千絵さん!」
不意に男の声がして振り向くと、坊主頭の大男が息を切らせて走り寄ってきていた。
「どうしたの?」
「すいません千絵さん、休憩中に。向こうのテントで勇悟さんが酔っ払っちゃって暴れてまして」
「またか……。わかった、すぐ行くから頑張って抑えといて」
「すいません、ありがとうございます!」
男が立ち去ると、彼女はすっと立ち上がった。
「話の途中でごめんなさい。急用ができてしまったんで」
「ああ、いや全然……」
返事を言い終わらないうちに彼女はカップを呷り、まだ大きい氷の塊を一口に頬張った。
そして間髪入れず顎を何度も動かし、ガリゴリ、メキメキと音を立てて氷を砕いていく。
みるみるうちに氷が小さく細かくなっていくのがわかる。
それらを一気にゴクンと飲み込むと、彼女は頭の手拭をむしり取って口を拭いた。
「じゃあ、行ってきます。カップはそのベンチにでも置いといてもらえば結構ですから」
「あの、その暴れてる人って……」
「ああ、うちの宿六です。餡子作りの修行もロクにしないで酒ばっかり飲んでるボンクラですよ」
「あ、そうなんですね」
「ああなったら口で言っても聞かないんで、ちょっといわしてきますわ」
彼女は勢いよく腕をまくり、首を左右に揺らしてコキコキと鳴らす。
「今日は話に付き合ってもらってありがとうございました」
「あ、いえ、こちらこそ」
「じゃ、いつかまた会えたら」
そう言うと彼女はテント群の中に飛び込んでいった。
俺はカップに残った氷を口に放り込んだ。
「おい何すん、やめ、やめろ!」
「このボンクラが! ロクに働きもしないくせに人様に迷惑かけてんじゃないよ!」
「イデ! ちょっとやめ、イデデデ! 勘弁してくれ!」
勇ましい怒号と悲痛な叫びが聞こえてくる。
『な? 言ったっしょ。所詮、作りもんなんだよ』
難癖女の幻聴が聞こえる。
うるせえ。
顎に力を込める。氷がガリッと砕ける音がした。


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