ギィィィ、ガリッ、ガリガリボリボリ。カチッ。
「あぁん?」
氷を噛んでいたら奥歯になんかがはさまった。
ペッ、と手のひらに吐き出す。
アタリ。
古めかしい書体の黒い文字で小さな木片にそう刻まれていた。文字も木片も時間がそれなりに経ったようにかすれている。
「はぁあ?」
氷が残るグラスを照明に透かす。飲んでたのは正真正銘ただのオレンジジュースだったよな?
カラン。融けた一番上の氷が一段下に落ちて元々あった氷と二つでクルクル回る。グラスを揺らすと奥の氷が手前に、手前の氷が奥にと二つが一緒に小さな円を描いて回り続ける。
一瞬だけ周囲の、店の、世界の喧騒が消えた気がした。
どいつもこいつも綺麗な音を立てやがって。
「なんなんだよ。ったく」
トレーと食い終わったゴミを捨てに行く。たまたま返却場所にいた店員がお捨てします、と節介を焼いてくれたので楽にすんだ。
ポケットに手を突っ込んでファストフード店を後にする。
「お、お客様!」
すぐに慌てた様子でさっきの店員が追いかけてきた。
「んだよ」
「ひぅっ、いえ、あの、これ忘れ物です」
そう言って渡してきたのはさっきのアタリ札だった。
「これさぁ、なんなの?キャンペーンかなんか?」
「えっ?当店ではそういうキャンペーンは現在実施しておりませんが――」
「氷の中から出てきたのに?」
「そ、そんなはずは」
女の眼が変わった。クレーマーを見る目だ。
誰がこんな手の込んだ芝居を打ってクレーマー気取りの返金騒ぎを起こすかっての。大体店出た私を追いかけてきたのはお前だろうが。
「いや何でもねぇ。さんきゅーな」
面倒なことになる前にアタリ札を取り、私は今度こそその場を去った。
親指で木札を弾いてはキャッチするという意味もない行動を繰り返しながら歩く。
弾くと小気味よい乾いた音を立てて回りながら跳ぶから、ほんの少し楽しい。
裏には何も書いていない長方形のよく分からない木の札。
私はこの無責任にアタリとだけ幸福感を押し付けてくるそれを案外と気に入り始めていた。
「何がアタリなんだか」


いつもの道を歩いていたら、神社の前がいつもよりヤケに騒がしかった。
鳥居の向こうでは祭りが開かれていた。二桁いかないくらいの出店とまぁまぁの数の客。飲んで騒ぐジジババどもとガキどもの喚き声。境内から響く太鼓の音や小舞台の放送音。
田舎の小さな祭りを象徴するような光景だ。反吐が出る。
黄昏時のくすんだ橙色がこいつら全てを焼き払ってしまえばいいのに。
「あれ?」
いつの間にか賽銭箱の前にいた。
幸せに浸れるヤツらを憎しと見ていたらいつの間にかここまで来てしまったのか。
せっかくだし、なんか入れてやろう。信心深いからな、私は。
心の中でバカ笑いをしながらポケットをまさぐる。あれ?財布は反対側のポケットだったか。
指先がなにか硬い感触に触れた。取り出すとさっきの木札だった。
「これでいいや」
親指で弾いて賽銭箱に札を弾き入れる。
カラカラカラカラ……。札は転がりながら賽銭箱に吸い込まれていく。
「っと、これどうやんだったっけ」
鈴に吊るされた太い麻縄を見て途方に暮れる。拍手も何回だっけな。
うーん、と首をひねる。
真似るように麻縄もその長い胴体をひねる。
「は?」
誰も触っていないのに麻縄が勝手に途中からくいっと曲がっている。
「嘘だろ。なんだそれ――」
視界がうんとグルグル回って私は気を失った。


冷やりとした感触で目を覚ます。
「おや、目を覚ましましたか」
ハスキーな声が耳元から聞こえる。
首を声の方に向けると額からズルッと氷水の入ったビニール袋が落ちて床でべチャッと音を立てる。
私は寝かされていたようだ。木張りの床に古めかしい組まれた大木で出来た天井。神社の中だった。
正座をするこの中年の巫女が私を看病してくれていたようだ。
「わ、私はいったい……」
「びっくりしましたよ。祭りで参拝する人はほとんどいない中、拝殿に人が倒れてるって聞いて慌てて駆け付けたらあなたが倒れていたので」
どうやら私は賽銭箱の前で気絶してしまったみたいだった。
木枠で作られた窓の向こうは真っ暗になっていた。
「バチが当たったのかなぁ」
「おやまぁ、なにかバチの当たることでもしたのですか?」
「そこまでではないと思うんだけどなぁ」
「話してみてください。あなたが正直に話して反省すれば、神は咎めたりはしないはずです」
「なんだそりゃ?……んーまぁ、なんだ、小銭が無かったから代わりにアタリを入れたんだよ」
「アタリ?なんですかそれは」
「私にもよく分かんねーけどな。アタリって書いてあるちっせぇ木の板だったよ。ここに来る前に拾ったんだ」
「まぁ!そんなよく分かってもいない拾い物を神聖な賽銭箱の中に?」
心底あきれたような巫女に真顔で私は詰め寄る。な、な、なんですかと巫女が座ったまま後ずさる。
「って言ってもな。アタリだぞアタリ。良い物を私は神に捧げたんだ。褒められはしてもバチが当たるほどじゃなくないか?」
気迫に圧され巫女は無理矢理に納得した顔をする。
しかし、すぐに何か思い出したように神妙な顔で詰め寄った私の顔を逆に覗き込んでくる。
「それ、おかしいですね」
「あぁん?何がだよ」
「あなたが倒れている間にですね、私が今日のお賽銭回収の当番だったので作業していたのですが、そんなアタリと書かれた板は入っていませんでした」
「はぁ!?んなわけねぇよ。確かに私は……」
左右のポケットを慌てて確認するが、やはり木札は入っていない。
「うん、やっぱりポケットには無いな。やっぱり間違いなく私はあの時入れたはずだ」
「うーん。なんだか変な話ですね。あなたが嘘を言っているようにも見えませんし……」
「ったりめぇだ。そんなしょーもない嘘つくかってよ。ったく、どいつもこいつも」
それから私たちはもう一度賽銭箱を確認しに行った。
巫女が賽銭箱をひとしきり探したが、やはり中には何も残っていなかったようだ。
ほら見てくださいと言われるので、私も賽銭箱を覗き込む。
「へぇー中ってこうなってんだな。んー、ホントに何も入ってねぇな。妙な気分だぜ」
箱の中に突っ込んでいた首を抜いて私は巫女の方に振り向いた……つもりだった。


そこはもう賽銭箱の前などではない、見憶えがなんとなくあるが全く別の異質などこかだった。
「おいおいおい、なんだこりゃ。どうかしちまったのか私は」
先ほどまでいた神社の境内に似てはいるが人っ子一人見当たらず、屋台や舞台も無い。
鳥居から神社までを切り取ってしまったような空間。鳥居と社殿を繋ぐ石畳の真ん中くらいに私は立っていた。
振り返ると覗き込んでいた賽銭箱も無くなっていた。
静寂だけが空間に満ちていた。
夜だったはずなのに空や鳥居の向こうは真っ白だった。まるで切り取られたこの空間だけが虚無の中に浮いているような景色。
「夢でも見てんのか私は」
カラン、カラン、カラン。視界の奥で勝手に麻縄が揺れ、括りつけられた鈴が大きな音を立て始めた。
カラン。カラン。カラン。呼応するように大人一人分はありそうな大きな立方体状の氷が空中から現れる。
宙に浮いた氷が一つ、また一つと音に合わせて増えていく。空中を氷がゆっくりと舞うようにゆらゆらと浮いたまま動く。
クルクルと氷自身が回転しながら、時折り氷どうしがぶつかり、風鈴のような澄んだ音を響かせる。
「なんなんだよ……」
気付けば、私もしくは足元のこの空間の中心を中心にして十個ほどの氷が漂い、公転の様相を呈していた。
透き通った氷の表面は微かに融けているのか、滑らかに向こう側を映している。
目の前に来た氷の向こう側を一瞬なにかの影が通り過ぎた。
はっとその氷を目で追うがもう見えなくなる。
視界の端で別の氷に影が映る。
直視しようとすると影は別の氷へと移っていく。
しばらく影を視界に捉えようと奮闘していたが次第に疲れてくる。
「アホくせぇ。付き合ってられるか」
目を閉じる。音だけが私の全てになる。
氷と氷がぶつかる音と音の間隔が段々と長くなっていく。
空白の空間、透明の氷塊を音だけで想像する。やがて訪れた無音の時間。
ゆっくりと私は瞼を開ける。
足元に深めの水溜まりが出来ていた。
広い水溜まりは端が見えず、この空間の地面全てを覆っているようだった。
「目で追えなければ見なければいい、か。賢いようで目の前の現実から目を背ける愚かな行為だ」
中性的な声が背後から聞こえた。
こんなところで話しかけて来るなんて、ロクなヤツじゃない。そう覚悟して振り返る。
そこには誰もいなかった。振り返った際に私の足でピチャリと水が跳ねた。波紋が音も立てず広がっていく。
「無駄だよ。影は捉えられても、正体までは視えない。ボクはそういう存在だ」
「へっ。神かなんかでも気取ってんのか」
「さぁどうだろうね。そんな高尚なモノではないとはボク自身は思っているが」
足元から広がっていた波紋が段々と弱まり消えそうになったとき、私の身長ひとつ分先の目の前で大きく水が弾けた。
目線の高さまで浮き上がったそれは、バスケットボールくらいの大きさの水の球だった。
とめどなく滴る水が水溜まりに帰っていく。
水球の中にはよく見ると一回り小さい氷の球があった。
「これは?」
「ボクであり、ボクでないモノ。ボクを模した何かさ」
「なんだそれ。お前は氷なのか?」
「そうじゃないさ。さっきキミが見た氷球の中に映ったボクの影と同じようなモノだよ」
「ふぅん」
近づいて覗き込んでも氷を透かした先に社殿が見えるだけで、氷自体にも氷の中にも別の何かがそこにあるようには見えない。
「透き通ってても中身が見えてるとは限らないんじゃない?」
「意味分かんねぇよ」
「そうだな。たとえば――」
「おおおぉ……、うわっ!」
氷の球がどんどん大きくなり、私にぶつか……らずに貫通してもっと大きくなり、やがてこの空間の隅の方までまで広がっていく。
この空間そのものが氷の中に入っているように、あたかもスノードームのようになった。
「――こういう風にね。見えていた大きさの中に、キミが見ている大きさ或いは考えている大きさの《中身》が詰まっているとは限らないのさ」
今さら何が起こっても不思議にはならないが、当たり前のように氷の中にいても息は出来るし普通に動ける。
氷の中にいるだけで、他は何もさっきまでと変わらない。
「……もっと意味分かんなくなっただけだっての」
水が氷になるときにその体積は大きくなる。液体が固体になる過程においてその体積が小さくなる方が自然で、水のように逆に大きくなる物質は珍しい。そんな話を化学の教師がしていたのを何故だか今ふと思い出した。
「その性質がこの星を育んだのさ」
「へぇそうなの?」
勝手に考えていたことに語り掛けてくるコイツにも最早驚きはしない。驚いたらその分だけ無駄だ。
「氷が水に浮く。それだけでも深く考えてみると面白いんだよ」
「ふーん」
「いかにも興味ないって感じだねキミ。感じ悪いよ?」
「そういう性分なんでね。悪く思わないでくれ」
「分かった分かった。そろそろこの時間も終わりにしよう。どの道そろそろ終いの時間だ」
今の視界は普通の大気中での視界と大差なかった。この空間が氷の内側に包まれていくさっきの光景を見ていなければここが氷の中だということも分からないくらいだ。
だが唐突に、ここが氷の中であると明確に分かるくらいに空中のあちこちで白いヒビが現れ始めた。飲み物に入れた氷にヒビが入るのと全く同じように。
ピキィッと鋭く高い音とともに大きな球の外側からこちらの内側に向かってヒビが幾つも入っていく。
「今度はなんだよ」
「綺麗な球体の氷ってのは氷の中でも特に作るのも維持するのも難しいんだ。特にこんなバカでかい氷だとなおさら、ね」
「おいおい、これ割れたりしねぇよな」
一緒に私や空間ともども砕け散ってハイ、お陀仏じゃ笑い話にもならない。
「清く澄み渡り。美しく透き通り。凍てつくトキコオリ。儚き時間は永遠には氷らず。……これにて融解!彼の者を解き放ち、流れる水と共に時の流れにいざ帰したまえ」
声だけ聴こえていた何かが急に高らかにそう叫ぶと氷の白い亀裂から次々と水が湧き出てくる。この巨大な氷球の中に流れ込む水はたちまちに足元の水位を上げていく。
「久々の来客で楽しませてもらった礼だ。呪いは水と共に洗い流しておこう」
「は?呪い?お前は何を言っ、ゴボボ」
あっという間に氷の中を満たしてしまった水に溺れていくさなか、透明な大きな魚の形をした氷が見えた気がした。いや龍の形だったかもしれない。いや人の形だったか?いやいや四つ足に角の生えた動物?
見えた何かを見た気がしただけで、一体全体それが何だったか分からなくなっていくところで私は気を失った。


「カハッ、溺れっ!わっ!」
もがいた手が空を切り、起こした身体から掛け布団がずり落ちる。
急に起き上がった額からぬるっと水の入ったビニール袋が掛け布団の上にピチャリと落ちた。
「おや、目を覚まされましたか。だいぶうなされていたようですが」
聞き覚えのあるハスキーな声が横から聞こえる。
首を声の方に向けると正座をする中年の巫女が私を見ていた。
私は寝かされていたようだ。木張りの床に古めかしい組まれた大木で出来た天井。神社の中だった。
さっきの神社に戻ってきたようだ。変な夢を見ていた。
「……」
「びっくりしましたよ。祭りで参拝する人はほとんどいいないはずなのに拝殿に人が倒れてるって聞いて慌てて駆け付けたらあなたが倒れていたので」
巫女は私と初めて話すような口調だった。
「お前、さっき私と話したよな?」
「おや、まぁ何ですか急に。私とあなたは初めて会うはずですが」
「??」
いったい、どういうことなのか。
「どうしましたか」
こっちが聞きたいくらいだ。
「……んーまぁ、なんだ、あんたが出てくる変な夢を見ただけだ。気にしないでくれ」
「私があなたの夢に、ですか?不思議なこともあるものですね」
「私にもよく分かんねーけどな。神社の中だしな。そういうこともあるんじゃねぇの」
「まぁ!神聖な場所をそんなオカルトスポットのように仰るなんて!」
心底あきれた様子で巫女は私に詰め寄る。な、な、なんだよと私は布団ごと後ずさる。
「悪い悪い」
気迫に圧され私は思わず謝ってしまった。
「そういや、ここの神様はどんなヤツなんだ?」
「ヤツってあなた……。まぁいいでしょう。ごほん、お話しします。此処、氷室の神社に祀られるは――」
聞いてみれば、遥か昔この付近の河が氾濫した後に建てられたこの神社には治水を願い水に関わる神が祀られているとのことだった。
ということは、夢で見たというか聞いたあの声の主はその神か何かだったのだろうか。
「あー、そうだ」
「今度はなんですか一体」
ふと思い出してポケットを確認するがやはり木札は入っていない。
「うん、やっぱりポケットには無いな。やっぱり間違いなく私はあの時入れたんだよな。そして倒れて起きたそこから夢だったのか……?」
「何を仰っているのですか」
倒れるまでの経緯と夢の話を憶えている限り細かく巫女に私は話した。
「うーん。なんだか変な話ですねぇ。あなたが嘘を言っているようにも見えませんし……」
「ったりめぇだ。そんなしょーもない嘘つくかってよ。ったく、どいつもこいつも」
それから私たちはもう一度賽銭箱を確認しに行った。
「あっ!これですか?その木の板って。さっきお賽銭を回収した時には見逃していたみたいです」
巫女が手の平に広げて見せたのはまさにあの木札だった。
「そうそう。それだよそれ」
「でも、これアタリじゃなくてタタリって書いてありませんか?」
「はぁ?何言ってやがる……」
「ほらほら、よく見てください」
ジッと私はその札を見つめる。
アタリに見えていた文字は筆記調でしかもかすれていたため言われてみれば確かにタタリに見えなくもない。というかどちらかというとタタリだ。
「うーん。んー。まぁなんだ。そういうこともあるか」
「何がそういうこともあるか、ですか!神様にタタリと書かれた物を捧げるなんて!バチがあたりますよ」
「悪い悪い。だけどさ、もう十分当たったようなもんだよ。訳の分からねぇ夢、見させられたんだからなこっちは」
「そうかもしれませんが……。あっ!」
タタリと書かれた木札を怪しんで見ていた巫女が何かに気付いたように声を上げる。
「なんだよ今度は」
「見てください、これ。板にヒビが入ってます」
「ん?ヒビ?」
私が手に入れた時にはそんなヒビは入ってなかったはずだが。もう一度札をよく見てみる。
暗くなってきていて見逃しそうだったがヒビがタタリの文字を消すように入っていた。
「多分ですけど、これ呪いのお札だったんじゃないですか?それをウチの神様が祓ってくれたんですよきっと!」
「呪いィ?んなバカな話があるかよ。それこそ……」
もっとよく見てみようと私が巫女の手から木札を手に取った瞬間だった。
パキン、と札がタタリの文字を上下半分で真っ二つにするように割れてしまった。
「きゃっ。なんですか!?」
割れた札は僅かに湿っていてひんやりとしていた。
冷たすぎないで心地よいくらいの冷たさ。
「呪い、ねぇ。まぁそれが事実だったとして、なんでそんなものを賽銭箱に入れた私の呪いを神様は祓ってくれたんだろうな」
「それは……。どうしてでしょうねぇ……。あなたは本当にこの文字がアタリだと信じていたんですよね?」
「あぁそうだな」
「だったら、そのアタリと書いてある少なからずご利益のありそうなものをお供えしたあなたの心に神様が心打たれた……とか?」
「ってもなぁ。ホントは呪いのアイテムだったんだぜ?」
「そうだとしてでもですよ。神様は真に信じる心や願う心を見透かすと言います。あなたのその少しでもマシな物を供えようという心がけを愛しく思い、呪いを解いてくれたのかもしれませんね」
心を見透かしたのだったらなおのこと私を呪いから救おうなんざしないはずだ。
「私がお供えされる側だったらどう思ってようがタタリを押し付けられたらキレるけどな」
「それは、人と人ならざるモノの感性の違いかもしれないですね」
真の心を見通す。それは言い換えれば見えている事実に囚われず本質を見抜くということ。
『透き通ってても中身が見えてるとは限らないんじゃない?』
夕暮れに吹いたそよ風に乗ってそんな声が聴こえた気がした。
「そうだな。そう思っておくよ。神様には何でもお見通しだって」
「殊勝な心がけです。案外素直なんですね、見た目や話し方とは裏腹に」
「うっせぇな。悪いかよ」
「いえいえ。そういうところも気に入られたのかもしれませんね」
「あぁ?お前バカにしてるだろ」
「まさか。本心で言ってますよ」
「どうだか」
ひらりと落ちて来た枯れ葉を巫女は手に取ると、はぁっと小さな溜息をついた。白い息がゆらりと空に散る。
「皆さんがあなたと同じように心の清らかな方であれば……」
「今度は褒め倒す気か?気持ちわりぃな」
「いえ、皆さんが神様に常にお見通しされていると意識してくれれば、と」
「悪い世の中じゃなくなるってか」
「そうです!神様じゃなくてもいいんです。なんでもいいんです。その人にとって行動を起こす前に頭を冷やすきっかけになれば。お天道様でもご先祖でも身近な誰かの視線でも」
「そうだなぁ。そう簡単にはいかないだろうけど、ちったぁ良くなるかもな」
カサッと視界の端で枯れ葉が地面に落ちた。
顔を上げると巫女はいなくなっていた。元からそこにいなかったように。
気が付けば辺りは白い濃い霧に包まれていた。巫女が吐いていた白い息のように。
そもそも今は春の終わりだった。白い息が出る季節なんかじゃなかった。
霧の向こうから遠く小さく太鼓を打ち鳴らす音が聴こえてくる。合わせて屋台や舞台から流れ出る騒がしい音と声。
無音が少しずつ遠のいていく。
聴こえてくる音に私は耳を澄ませた。
目を閉じる。見る必要なんてない。


カラン、カラン。
美しく澄んだ鈴の音がすぐ近くで響いた。
目を開く。私は賽銭箱の前にいた。
「ったく。ホントにふざけたヤツだ。冗談が過ぎる」
祭りの音があちらこちらから聞こえてくる。
「もう賽銭なんか入れてやらねぇからな」
何も賽銭箱には入れず、縄を揺らして鈴を鳴らすこともせず、私はその場を後にした。
なんだか見慣れてしまった石畳を歩き、屋台と人混みの中を歩いていく。
「嬢ちゃん、一本どうだい?」
鉢巻を締めたジジイに勧められたのは昔懐かしいアイスバーだった。
「ん。じゃあくれ。ソーダ味で」
「まいど!」
金を払おうとポケットを探る。
あの呪いだかなんだかの木の札は跡形もなく消えていた。
全てが夢だったかのよう。
取り出した財布から小銭で代金を支払い、細いアイスバーを舐めながら境内を出ていく。
鳥居を抜ける頃には食べ終わってしまった。
食べ終わったアイスバーの木の棒を適当な排水溝にでも捨てようと辺りを見回す。
夏の訪れにはまだ早いと言わんばかりの涼しい夕風がアイスで冷えた体を撫でていく。
遅れてきた冷たさで頭がキィンとする。思わず顔をしかめ、目を瞑る。
「あいたたたたっ」
痛みが収まってくると、思わず握りしめてしまった棒の先が目に入る。
そこにはひらがな三文字。今度は間違えないように。
あたり。
祭りの屋台でアタリが出てどうすんだよっ!そうツッコまずにはいられなかった。
しょうがない。
ポイ捨てはやめだやめ。
『なんでもいいんです。その人にとって行動を起こす前に頭を冷やすきっかけになれば』
私は、その言葉を思い返していた。
「マジで頭を冷やしてくるなっての」
あんな体験はもうこりごりだ。
アタリの棒はポケットに突っ込んで大人しく帰ることにした。
まぁなんだ。持っていればご利益でもあるかもしれねぇしな。信心深いんだ、私は。
「ははっ」
しょうもないことを考えた自分に思わず笑いがこぼれた。
「何がアタリなんだか」

パキンと、ポケットを外から握りつぶして、アタリ棒を真っ二つに折った。



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