最後に誰かと喋ったのはいつだろうか。
 自分の顔が映ったモニターを見ながら、私はふとそんなことを考えた。
 人と話すのを煩わしく思っていた私は、他人との交流が皆無に近かった。大学の講義ではいつも一番端の席に座り、一言も発することもなく帰宅する。それが日常だった。
 だから家から出れない日々になっても全然苦に思わなかったし、むしろ人に気を遣わない分楽になったといえる。
 そんな自分がこうして遠隔飲み会とやらをしようとしてることは、自分自身なんだか滑稽に思えていた。

「彩花先輩お疲れーっす!」
 ディスプレイに後輩の姿が現われたのは、予定の時間から30分後のことだった。遅刻したのにも関わらず微塵も申し訳なさそうでない後輩に毒気を抜かれる。そういえばこいつはこんな奴だった。
 私はほぼ人付き合いをしないのだが、その唯一の例外と言えるのが学科の後輩である里穂だった。
 初めて会ったのは2年前。学食に行っていつものように一人で昼食をとっていたら、突然見知らぬ人が隣に座ってきて、驚く私に馴れ馴れしくマシンガントークをかましてきた。それが彼女だった。
 特段用があったわけではないらしい。里穂曰く「一人でご飯を食べるのが嫌だったから」とのことだが、私には全く理解出来ない思考回路だった。私にとっては衝撃的な出会いだったが、里穂にとっては当たり前のことのようで、そうやってどんどん知り合いを増やしているようだ。ただ彼女と喋っていると、不思議と緊張したり気を遣ったりすることはなく、私も話し始めて1分ほどで人と話す不快感は消え失せていた。それが里穂の魅力であるのだろう。
 それ以来ばったり出会った時に話をする間柄だったのだが、つい2日前に里穂から突然電話が来た。
 「先輩どうせ暇ですよね? 明後日サシ飲みません?」
 大学で誰かと食事をしたことも数えるほどなのに、飲み会など雲の上の存在である。そんな私に飲みの誘いは青天の霹靂だった。最初は、このご時世だから家から出たくないと突っぱねたのだが、「じゃあZoom飲みならいいっすよね!」と丸め込まれて今に至る。

 「うわあ、彩花先輩の部屋なんにもないっすねー」
 スマホの画面をじっと眺めた里穂は、開口一番そう言い放った。もちろん悪意は全くない。
 「里穂さんさ、人を30分待たせといて最初に言うことそれなの?」
 「すみません! テニスしてたら思ったより長引いちゃって」
 この状況でテニス?と顔をしかめたが、咎めても暖簾に腕押しなので黙ることにした。こういう人種は生き方も考え方も自分のような根暗とは違うのだと、里穂と話すたびに考えさせられる。
 「ま、とりあえず飲みましょ? ささ、先輩早くお酒持ってきてくださいよ!」
 二十歳にもなっていない後輩に酒を急かされる。溜め息をつきながら焼酎を冷蔵庫から出すと、水と氷をぶち込んで再びパソコンの前に座った。どこで手に入れたのか、モニターの向こうには豪華な装飾のされたワインボトルがあった。私の視線に気付くと、里穂は自慢げにボトルを抱える。
 「あ、これですか? 昨日バーでオールした時に隣に座ってたお兄さんに貰ったんすよ!」
 今の一言の中に、私に理解出来ないものが4つあった。1つ、こんなご時世にバーに行ったこと。2つ、そんな場所でオールをかましたこと、3つ、そのオールを見知らぬ客としたこと。4つ、オールすることを知っていた上で次の日の予定に私との飲み会を入れたこと。それら全部に突っ込んでいたら話が進まないので、感じた疑問を全部飲み込んだ。
 「あんたさ、凄いよね」
 「え? どこがですか?」
 「どこって、全部よ全部。そもそもさ、なんで私と飲もうと思ったの?」
 そう、そこが不思議だった。私にとって知り合いと言えるのは里穂ただ一人だが、里穂にとって私は数多の知人の一人に過ぎないはずである。なぜわざわざ飲み相手に自分を選んだのか、理由がさっぱり分からなかった。
 「飲んでるのは先輩とだけじゃないですけどねー。ここ2週間毎日誰かしらと飲んでますし」
 理由は至極単純で、知り合いを片っ端から飲みに誘っているだけだったようだ。それでも2週間は尋常じゃない。
 「2週間毎日!?」
 「はい。聞きます? 理由」
 その言葉で、流石の私も察した。いかに里穂のような人間でも、こんな時に2週間連続で飲むなんて馬鹿なことは普通しない。それなりの理由があるはずである。以前里穂から彼氏の愚痴を散々聞かされたことがあったから、恐らくそれ関連なのだろう。心の準備をして里穂に話しかけた。
 「私で良ければ聞くよ?」
 「ありがとうございます! 先輩聞いてくださいよー」
 そう言いながら、里穂は酒を片手に語り始めた。
 「今緊急事態宣言が出てるじゃないですか」
 「出てるね」
 「だから家で勉強でもしてよっかなーって籠もってたんですよ」
 「いいことじゃない」
 そこで里穂は溜め息をついた。
 「で、結局勉強も30分で飽きたんで漫画読み始めて。そのまま夜になってご飯作ったんですよ。その時にですね」
 「うん」
 「茶碗を倒してしまって、『あっ』って叫んだんですよ!」
 「……うん」
 里穂は拳で机を叩いた。その真剣さに少し気圧される。里穂はワインを飲み干すと絶望するかのように叫んだ。
 「その『あっ』がですよ、その日あたしが最初に発した言葉だったんですよ! それに気付いたら、なんでこんなに人生無駄にしてるんだって、もう悲しくて悲しくて!」
 「……うん?」
 「だから毎日誰かと飲もうって、そう決めたんです!」 
 「…………」
 沈黙が流れる。
 しばらく考えた後、私は口を開いた。
 「彼氏と別れたとかじゃなくて?」
 「彼氏? 3ヶ月前に別れましたけど?」
 私は首を捻った。そして心底困惑しながら尋ねた。
 「里穂さんは、人と喋らないと死ぬわけ?」
 「死にますよ! その日なんて情緒不安定になってその後友達と2時間電話しましたもん」
 この後輩は私と人種が全く違うと、頭の中では分かっていたつもりだった。しかしこうも価値観が違うと、呆れを通り越して最早笑えてくる。馬鹿なのはそれなりの理由があると思っていた自分の方だった。いや、里穂にとってはこれがそれなりの理由なのだろうが、私には飲み込めない。
 フリーズする私を尻目に里穂はまた話し出す。
 「あ、彼氏と別れたこと知らなかったんですか? 実はですね――」

 そこから里穂の長い話が始まった。彼氏の話、バーで会った客の話、テニスの話、外出自粛の話。話題が途切れることはなかった。
 誰かとサシ飲みするというという少し前では考えられないことを今している。里穂がひたすら喋り、私は相づちをうつ。それだけのことなのに、何故か心地よかった。
 だから気を抜いた瞬間に、ぼそっと呟いてしまった。
 「里穂さんは、楽しそうだな」
 「えっ?」
 里穂が私の言葉に目を丸くした。私も自分で自分の発した呟きに驚いていた。人付き合いはしたくない、人と会話するだけストレスだ。そんな私が里穂を羨ましく思うはずがないのに。
 「それって、先輩も私みたいにもっと遊び回りたいってことですか?」
 「いや、そういう訳じゃ……」
 私の反応をどう解釈したのか、里穂の機嫌がことさら良くなった。
 「いやー、てっきり先輩は人と話すことが大嫌いで、今日の飲み会も半分嫌々付き合ってくれてると思ってたんで、意外ですね!」
 そんなはずはない。里穂のこの2週間の行動は社会通念上よろしくないことだし、考え方も全然理解出来ない。それでも、こうして自分なんかと飲んでくれてるのが嬉しくて、そして全力で生を謳歌する里穂を自らの価値観で全否定しようとする自分が小さく感じられた。
 「そう思ってたなら、なんで誘ったのさ」
 誤魔化すように言うと、里穂は当然のように宣言した。
 「あたし、縁は大事にしたいんで!」
 にこにこ笑う里穂が、私には眩しく見えた。
 「縁か。それこそ私には縁遠い生き方だよ。里穂さんの生き様はさ」
 そうぼやくと、里穂は首を横に振った。
 「そんなことないですよ。去年ドイツに行ったときに考えたことがあって」
 「ドイツに行ってる時点でもう差が半端ないんだけど」
 「まあまあ聞いてくださいよ。ドイツにはビールのお祭りがあるんですけど、知ってます?」
 「オクトーバー、なんちゃらってやつ?」
 里穂は満足そうに頷いた。
 「それです! で、そのお祭りって、日本関係ないじゃないですか」
 「まあ、日本にビールないからね」
 「で、日本のお祭りも、ドイツ関係ないじゃないですか」
 「そりゃね」
 「大昔だと、土器作ってた時代もお祭りをしていましたよね。それ用の土器もありますし」
 「うん……それで?」
 まだ理解出来ていない私の顔を見て、里穂はニヤッと笑った。
 「つまりお祭りってのは他から伝わったものじゃなくて、その地域の人が自分で作ったものなんですよ。日本でもお祭りが誕生して、それとは関係なくドイツでもお祭りが誕生する。それって凄くないです?」
 「凄い、のかなあ」」
 「凄いですよ! 私が思うに、人間にはお祭りをする遺伝子があるんですよ。じゃないと説明がつかないです!」
 自説を披露したあと、里穂は誇らしそうに胸を張った。
 「あたしはそれを陽キャ遺伝子と呼ぶことにしました」
 「ひっどい名前だな」
 里穂はビシッと私を指差した。
 「で、彩花先輩にもきっと陽キャ遺伝子があるはずです! だから陽キャになれますよ!」
 「それって、暗に私が陰キャだって言ってる?」
 「違うんですか?」
 「違わないけどさ……」
 不服そうな私を見て里穂は子供のように笑った。そして、時計を見て残念そうな顔をする。
 「あ、先輩すみません。あたしそろそろ寝ないと。明日は朝から友達とパフェ食べに行く約束してるんですよね」
 やはりというか、里穂には明日も予定があるようだ。
 「ほんと元気だね、あんたは」
 「昼からはバレーボールするので、なんなら講義がある時より忙しいっすねー」
 「言っても無駄だろうけど、感染に気をつけなよ」
 「こんなど田舎じゃ、感染したくても出来ませんって!」
 それじゃあまた!と言って画面がブツッと切れた。嵐のように来て嵐のように去って行く人だった。とにかくどっと疲れが出た。
 手元を見ると、焼酎に浮かんでた氷が完全に溶けていた。あんなに人を避けていた私が、酒を飲むのも忘れて談笑していたらしい。
 薄くなった焼酎を喉の奥に流し込む。「まっず」と顔をしかめながら、カレンダーを確認した。
 どうやら悪酔いしてしまったようだ。
 そうじゃなければ、次の飲みはこちらから誘おうかなんて、考えるわけがないのだから。


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