「暑い……」
 梅雨が明けて雲一つ無い真夏の空の下、俺は見知らぬ街の見知らぬ道で絶望に浸っていた。要するに迷子である。
 スマホは電車の中に置き忘れた。改札を出て、いざ地図アプリを開こうとした時のあの冷や汗がまだ体に残っている。
 駅で紛失物の手続きをした後、仕方なく本屋で道路地図を買い、そのまま街へと繰り出した。無事に目当ての店にはたどり着けたのだが、方向音痴が祟って帰り道で現在地が分からなくなった。それからマップル片手に1時間彷徨って今に至る。
 「えっと、ここにY字の道があるから、多分今この交差点にいるよな? あ、でもこの交番が載ってないし違うか。この道のカーブ具合からしてこの辺だと思ったんだけどな……」
 汗がポタポタと地図の上にしたたり落ちる。急いでハンカチで額を拭き、また額に皺を寄せて地図を眺める。何回見てもここがどこなのか分からない。
 時間と共に不安だけが募っていく。まだ昼過ぎではあるが、飛行機のチェックインは16時までだ。こんなところでもたもたしていたら最悪乗り遅れることになる。
 自分が引っ張るスーツケースのゴロゴロという音だけが耳に響く。今どこにいるのか分からないことがこんなに不安だとは思わなかった。スマホがない時代、人々はどうやって知らない土地へ旅行に行ったのだろう。全く想像できない。
 暑さと焦りで頭が回らなくなってきたので、ひとまず喉を潤すことにした。自販機でペットボトルを買って道ばたのベンチに座る。蓋を開けて思いっきり口の中に流し込むと、冷たい炭酸が喉から熱を奪っていく。その感覚がたまらなく心地よい。
 声をかけられたのは、最後の一滴が舌の上に落ちた時だった。
 「あの、すみませーん」
 その声にビクッとして横を向くと、綺麗な女の人が立っていた。白を基調としたオシャレな服装。空よりも青い日傘。歳は恐らく自分より3,4ほど上だろうか。
 ただ一番目を引いたのは、その手に持つ、どこかで見たことのあるマップルだった。

 「へえ、河本君も空港まで?」
 その女の人――大西さんとはすぐに打ち解けた。全く同じマップルを見せ合って2人でひとしきり笑った後、近くにあった公園で空港行きの作戦会議となった。迷子が2人に増えてもどうしようもないのだが、同士がいるだけで心強い。それに見知らぬ土地で見知らぬ女の人とこうして喋っているのは、なんだか夢でも見ているようで不思議な気分だった。
 「そうですね。16時、いえ15時半にはついとかないと駄目なんですけど、道が分からなくて」
 「私も18時の飛行機なんだよね。地図見ても全然分かんないからもう人に聞いちゃえって声かけたら、その子も迷子っていうね!」
 大西さんは口元を押さえて愉快そうに笑った。
 「すいません……」
 「気にしないで! 丁度良かったじゃない。こうなったら一蓮托生よ」
 にこにこしながら彼女はマップルの表紙をぽんぽんと叩いた。その様子に一瞬見蕩れ、そしてそれを誤魔化すように質問した。
 「あ、あの。大西さんは持ってないんですか?」
 「持つって、何を?」
 「スマホですよ」
 彼女は「あー」と苦笑いをして、ポシェットの中をごそごそ探った。
 「そうだよね、今の子ってみんなスマートフォンだよねえ。私なんてまだこれですよ」
 そう言いながら大西さんは年代物のガラケーを取り出した。
 「河本君は持ってないの? それとも電池切れ?」
 「電車の中に忘れてきてしまって……」
 「あちゃあ……なるほどね」
 大西さんはしばらく「うーん」と唸ったあと、「よし!」と手を叩いた。
 「それじゃ、まず私たちがやることは――」
 そう言いながら、彼女はマップルをベンチの上に広げた。
 「ここがどこか、探すこと!」

 2人で探せば何とかなるのでは、という淡い期待を持っていたのだが、それは早々に打ち砕かれた。2人とも方向音痴に加え、地図を見るのが下手くそだったのである。
 それぞれのマップルを見ながらお互いに意見を出し合うが、この30分まったく進展がない。
 「もしかしてここですかね?」
 地図上で今いる公園らしきものを見つけて大西さんに声をかける。
 「え、どこ?」
 「52ページの」
 「52ページ……めくったよー」
 「Aの2です」
 「Aの2? あ、はいはいここね」
 「その真ん中の緑の四角ってこの公園じゃないですか?」
 大西さんは地図を指でなぞり、少しして首をかしげる。
 「うーん、そうかなあ……さっき向こうから歩いてきたけど、ここに神社ってあったっけ?」
 「神社? そのマークお寺ですよ」
 「あ、そうだった!」
 「あー、でもお寺だったとしてもそんな建物なかったですね……」
 「でしょう? 残念だったねー」
 ずっとこの調子である。一生ここがどこか分からない気がしてきて、思わず溜め息が出た。
 「飛行機、間に合うかなあ……」
 「諦めちゃだめ。きっとなんとかなるって!」
 大西さんは懸命に励ましてくれるが、その顔にも不安が見え隠れしていた。
 「もう少し目印になるものがあればいいんですけどね」
 「ね。せめて線路とか……」
 そこまで言いかけて、大西さんはハッとした顔になった。その様子を見つめていると、急に笑顔になって俺の腕を引っ張った。
 「今ねー、めっちゃいい方法を思いついたよ。ほら立って立って!」
 引かれるままにベンチから立ち上がると、彼女はしたり顔で喋り出した。
 「あのね、一応ここって都会じゃない」
 「そうですね。一応は」
 「だからどこまでもまっすぐ歩いて行けば、十中八九線路にぶつかるでしょ? それで、ぶつかったら線路沿いに歩いて行けば……」
 そこまで聞いてやっと言わんとすることが分かった。なぜこんな簡単なことに気がつかなかったのか。
 「……駅に着きますね!」
 「そういうこと。そしたらもうこっちのもんでしょ?」
 「大西さん、天才ですね!」
 「もっと褒めていいんだよー」
 自慢げに青い日傘をくるくる回す彼女が、日射しも相まって女神のように見えた。

 太陽の方に歩くと決めて、公園から出る。大西さんが歩みを止めたのは、喋りながら20分程歩いた時だった。
 「どうしたんですか?」
 大西さんは人差し指を口元にあてて、辺りを見回した。
 「ちょっと静かに……聞こえない?」
 「え?」
 耳を澄ますと、かすかにカン、カンという聞き慣れた音が聞こえてきた。2人で顔を見合わせる。
 「あっちの方でしたよね?」
 「うん!」
 2人で早歩きで進んで行く。ビルとビルの間を通り抜け、住宅地の狭い道を進み、田んぼの横を通る。誰もいない工場を見つけ、私有地の中をこっそり進み、林へと続く階段を上っていく。しばらく木陰を歩いていると、目の前が突然明るくなって開けた場所に出た。そこには人と自転車だけが通れる小さい踏切があった。踏切の向こうには大きな道路があり、その奥は砂浜だった。
 「こんなに海が近かったんだねえ!」
 大西さんは目を輝かせながら水平線を眺める。釣られるように海を見ると、遠くで飛行機が離陸しているのが見えた。空港も結構近いらしい。
 ふと思い立ってマップルをペラペラめくる。海沿いの線路をたどっていくと、空港との位置関係からすぐに現在地が見つかった。
 「大西さん、ここですよ! 55ページのHの6!」
 差し出された地図を覗き込むと、大西さんはうんうん頷いた。そして細い指で地図をなぞっていく。
 「……ほんとだ。ここの踏切だね。てことはこの道をこう来たから……さっきの公園はここかあ」
 「公園のすぐ近くに駅がありますよ。逆の方向に歩いていればすぐ線路だったんですね……」
 「いいじゃない、冒険できたんだし。楽しかったよ、私は」
 そう言って大西さんは歩き出した。踏切を渡り、道路を横断して砂浜へと降りる。俺も慌ててその後を追いかけた。
 海辺に来ると、彼女は海水を手で掬って「冷た!」とはしゃいだ。
 「泳げたら最高に気持ちいいのにねー」
 「十分気持ちいいですよ。これで体も冷やせますし」
 俺はハンカチを取り出して海水にひたす。そして力一杯搾った。冷えたハンカチで首元を拭く俺を、大西さんはうらやましそうに見つめてきた。
 「あ、いいなあそれ。私も大きいハンカチ持ってくれば良かった」
 「今日海に来るなんて微塵も思ってなかったですからね」
 その言葉に、大西さんは今日一番の笑顔で頷いた。
 「本当にね!」

 地図を見たら近くの駅まで1kmくらいだったので、そこまで線路の横を歩くことになった。そばにあったコンビニで大西さんがアイスを奢ってくれて、それを食べながら2人並んで歩いて行く。日射しが暑かろうと大西さんは俺を日傘の中に入れてくれた。頭の上でゆらゆら揺れる綺麗な青を見ながら、彼女と他愛のない話をした。
 出身地の話。家族の話。大学の話。聞くと大西さんは4年らしかった。その話題になると、大西さんは少し顔を曇らせた。
 「……就職、できたらいいなあ」
 大西さんが背伸びをしながら溜め息をつく。
 「大西さん、就活で来てたんですか?」
 「まあね。河本君は旅行?」
 「そんなところです」
 「いいなあ。大学入りたてなんでしょ? 今のうちに遊んでおきなよ。あと数年もしたら余裕なくなるから」
 「やっぱりそうなんですね……サークルの先輩もみんな大変そうですし」
 「そうそう。旅行なんて、こうして就活帰りにぶらぶらするくらいかなあ」
 「どこに行ったんですか?」
 と聞くと、大西さんは恥ずかしそうに笑った。
 「どこにも。だって今日ずっと迷子になってたし」
 どうやら大西さんは俺に声をかけるまで結構さまよっていたらしい。その時、彼女が自分のようにスーツケースを持っていない事に気付いた。
 「そういえば、荷物はいいんですか?」
 「駅のコインロッカーに入れっぱなしなんだよねえ。だから1回戻らないと」
 「大変ですね……」
 「そ。だから河本君とはそこの駅でお別れかな」
 いつの間にか駅にたどり着いていた。駅員が1人だけの小さな駅。俺が切符を買った後、大西さんも購入する。もちろん行き先は反対だった。
 大西さんが切符を見つめて「本当にこの切符で大丈夫だよね?」と心配そうに呟いたから、2人でしっかり料金を確認した。自信を持った大西さんは改札へと向かい、途中で立ち止まって俺の方を振り返った。そしてまっすぐ俺の目を見つめる。
 「ここまで付き合ってくれて、ほんとにありがとね。とっても……とっても楽しかった」
 「こちらこそ。一人じゃきっと飛行機に間に合いませんでしたよ」
 「それは私もだよ。何かお礼でもあげられたら良かったんだけど……」
 大西さんはポシェットの中を探りながら考え込む。そして何か閃いたのか、茶目っ気たっぷりの顔になった。
 「河本君、これいる?」
 差し出してきたのは彼女のマップルだった。それには流石に苦笑するしかなかった。
 「全く同じの持ってますよ」
 「それじゃ、交換しよ!」
 そう言って大西さんは俺の持っていたマップルと取り替えた。そして少し不安そうに聞いてくる。
 「……いいかな?」
 「も、もちろんですよ」
 ドキッとして空返事をすると、彼女はパッと笑顔になった。
 「良かった! これは記念にするね」
 丁度そのタイミングでベルがなり、電車がホームに入ってくる。空港とは反対方面の、大西さんが乗る電車だ。
 大西さんは切符を切ると、振り返って小さく手を振った。
 「それじゃあね。河本君。お元気で」
 「あ――――」
 心配だから一緒に駅まで付き添いますよ、なんて言いたかった。でも……そう、時間がない。飛行機が立つまで時間がない。
 「――――大西さんも、お元気で。内定、出るといいですね」
 「うん……ありがと」
 俺に微笑みかけた後、そのまま彼女は電車に乗り込んだ。ドアが閉まり、ゆっくりと電車が動き出す。見えなくなるまでお互いにずっと手を振っていた。
 そうして、駅には俺だけが残された。長い沈黙の後、独り言が口から漏れ出る。
 「……連絡先、聞いておけば良かったかな」
 そして手元のマップルを見る。それを眺めながら、寂しく笑った。
 「そうだった。スマホ、ないんだったな」

  ○

 目が覚めて、枕元の時計を見る。朝の9時半という表示を見て肩を落とした。寝過ごした。もうホテルの朝食は終わってるだろう。なんならもうすぐチェックアウトの時間である。
 急いで着替えて部屋を片付ける。手を動かしている間、頭の中は昨日の面接のことで一杯だった。
 あの質問の返答、多分印象悪かったよなあ。
 後から鏡見たら髪が少し乱れてたよなあ。
 面接官の反応、あんまり良くなかったなあ。
 ――――第一志望なのに、駄目だったかもなあ。
 「……家に、帰るか」
 荷物をまとめ、1階に降りてチェックアウトを済ます。ホテルの玄関を出て、駅へ向かうルートをスマホで検索する。スピーカーから味気ない機械音声が聞こえてきた。
 『この先、1キロメートル、道なりです。その先、左に曲がります』
 よし行くか、と歩きだそうとしたその瞬間、ハッとして体が固まった。
 頭の奥底から、忘れていた思い出の破片が次々に浮かび上がって来る。
 その破片を繋ぎ合わせながら、急いでスーツケースを開けた。記憶が正しければ――
 無我夢中で漁ると、奥底のポケットから3年間ずっと入れっぱなしだったマップルが出てきた。
 『そのまま、道な――』
 スマホの電源を切ってかばんに放り込む。そして立ち上がると、マップル片手に見知らぬ街へと足を踏み出した。
 もう顔も思い出せないけれど。
 それでも未だに目の裏に焼き付いている、あの青い日傘を追いかけるように。


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