***
「ヤッバ。かっこよすぎ」
SNSをぼーっとスクロールしていた一乃は思わず声が漏れた。
「かっこよすぎて意味わからん」
一乃は無意識にいいねボタンを押していた。
派手な主張の激しい写真にあふれるタイムラインの中にふと現れたその一枚。
一乃はいいねを押したあともしばらくの間その写真から目が離せなかった。
『わたし』
たったそれだけ。
一人の女性が鏡に映った己の姿を引きで撮っただけの写真。
たったそれだけ。
特徴的なファッションもユニークなアイテムも過剰なエフェクトもなく。
ただの一枚の無加工の自撮り写真だった。
***
一週間後、いかにもSNS映えしそうな内装とメニューが売りのカフェで二人は会っていた。
街のあちこちが黄色やオレンジに染まり始めた中の、気持ち良く晴れた秋の日だった。。
「いやー望美先輩、マジ、ホント、かっけえっす」
手に持った彩りの強いドリンクをパシャパシャと写真に収めながら一乃は望美を誉めたてる。
「うんうん。ありがとうね。でもそういうこと言うときはさ……」
言葉の後ろの方が聞き取れず一乃は聞き返す。
「え?なんすか?」
「ううん。なんでもない」
「?」
一乃はそこでやっと顔を上げ、望美の方を見る。望美は苦笑していた。
「で、なんだっけ私の写真がえらく気に入ったんだったっけ?」
ぱぁっと一乃の目が輝く。スマホを操作して例の写真を表示して望美に向ける。
「そうっす!これこれ!マジ、なんか、ヤバくて、ビビッてきて――……ええっと!」
「はいはいはい、わかったから。それでわざわざDMまでしてきて私と会おうと思ったのよね」
前のめりに椅子から座を浮かした一乃を落ち着かせるように望美はゆっくりと静かなトーンでしゃべる。
「ですです。もーなんつーか、あれっす!」
「どれ……っす?」
「師匠!」
「師匠?」
「はい!望美先輩のこと師匠にしていいっすか!?」
「お、お~。そういう感じかぁ」
「ファッションとかメイクとか勉強させてください!っす!」
「うーん。勉強って言ってもなぁ私が君に教えられるようなことあるかなぁ」
高校の制服を崩して着ている一乃の姿をじっと見ながら望美は不安に思ったのだった。
なんでこの子と会ってみようと思ったのか。望美は一週間前のDMのやり取りを思い出していた。
特に何も考えずにいつも通り日記のような感覚で休日のお昼に上げた一枚の写真。
いつも通り誰の目に触れるでもなく、一つのいいねやコメントがつくこともなくネットの世界の片隅に消えていくはずだった普通の自撮り。
上げた後は写真のことなんか忘れて買い物に出かけた。
帰ってきた後も写真のことなんかこれっぽっちも憶えていなかった。
ベッドに入って寝る前に何の気なしに開いたSNSに一通のDMが届いていた。
最初はたまにある迷惑な誰かのいたずらかと思ったが、書かれていたのはあまりにも熱量のこもりすぎた、恋人への手紙のような長文メッセージだった。
今風の日本語が多すぎて何を言っているのか分からないところも多かったが、写真をとても気に入ってくれたことはとても伝わってきた。
そしてDMでやり取りをしているとどうやら彼女は私に会いたいらしいということがわかった。
とにもかくにも「ヤバすぎて」私に会ってみたくなった、と。
最初は迷っていたけれど押しの強い彼女に負けて、ついでにたまたま会えるくらいには近い距離のところに住んでいるということも判明したのが相まって、なし崩し的に彼女お気に入りのカフェで会う約束をしてしまった。
それからというもの時間が合えば毎日のように二人は一緒に色々なところに出かけて、沢山の話をした。
というより一乃が望美の出かけるとこを都度都度聞き出してはついて回っていた。
最初は戸惑っていたが、そもそも誰かと予定を合わせたりして何処かに出かけたりするのが好きではない望美にとって勝手についてくる一乃の距離感が案外心地よく、気が付けば師弟というより友だちのような関係になっていた。
ただ時々一乃が見せてくれる彼女のSNSを見る限りでは、お互いかなり感性が異なると望美は感じていたので望美の行く先に何故そんなに毎回楽しそうについてくるのかが不思議でしょうがなかった。
だからある時思わず聞いてしまった。
その時は大きな駅の中のコスメエリアを二人で物色していた。
「いちちゃんはさ、メイクしてるときいつも何考えてる?」
「え?考え……っすか?メイク中?」
「そそ」
「ん??うーん……、うーん??今日ファンデノリ悪いなとか、まつげバッチリ決まったなとか、」
「――……。あー……ね。そうだけどそうじゃなくてさ」
「……??」
「やっぱいいや。なんでもない。あっこれめっちゃいちちゃんに合うんじゃない?」
やっぱり話せば話すほど一乃のことは分からない。望美はふと目に入った明るめのグロスを一乃に手渡しながらそう思っていた。
だけど一方で、話せば話すほど自分を慕う一乃の思いが嘘偽りないということは伝わってきて望美はほほえましく思うのだった。
「ほーこれっすかー。ちょっと試してみるっす!」
一人でいるときも自然と一乃だったらどうするかなと考えている自分に、一乃がいる生活が当たり前になっていることに、望美が気づくのはそれからすぐのことだった。
***
あっという間に2年ほどが経っていた
。
一乃は2年もの間飽きもせず望美を一心に真似して望美のセンスやテクニックを学び取った。
だいぶ一乃のSNSは変わった。一乃は気づいていないようだったが。
実のところ一乃は対等に望美と語り合えるほどになっていた。
だが一乃はあくまで師匠師匠と望美を仰ぎ続けた。
果ては一乃は進路相談も望美にしだして、ある意味では文字通り望美は一乃の人生の「師匠」とも言うべき存在になっていた。
望美は望美でそんな一乃を愛おしく思い、一乃が何かを求めればできる限りのことをして彼女に応えていた。
冬が始まろうかという少し寒めの日。吐く息が乾いた空気を白く湿らせていた。
たまたま近くに来ていたので、その日は一乃の学校帰りに望美が合わせて二人の行きつけの静かな雰囲気の喫茶店に来ていた。
「いやーマジぜんっぶ師匠のおかげっす」
必然的に学校関連の話題になった。どうやら無事一乃の進路は決まったらしい。
「そっかそっか。よかったねぇ~」
「はい!っす!」
会った時から変わらずキラキラと目を輝かせて一乃は望美を見ていた。
「それとこれ見てくださいよ!」
「ん~?」
一乃が画面を向けて望美に見せたのは、先週二人で行った海辺の写真だった。
望美が一人で何かを考えるときにいつも出掛けているお気に入りの場所だ。
つい話してしまったところ一乃もどうしても見たいというので先週連れて行ったらどうやらSNSに上げていたらしい。
よく見るといいねがそこそこついている。
「ただ写真撮ってあげただけなのに結構気に入ってもらえたんすよ!ヤバくないっすか?!流石師匠の秘密の場所って感じっす」
チクリと何かが望美の胸の奥に刺さった。
綺麗に撮れていた。私がよく教えたように。
「あ、今日のグロスあの時選んであげたやつだ~」
「っす!!気に入ってるんでリピってるんっす」
一乃の目がさっき以上に輝く。
「どれどれ~?もうちょっと見せて」
望美は一乃の顔を強引に引き寄せた。
輝く目を覗き込み、無邪気にツヤめく唇に望美は自分の唇を重ねた。
「――っ!!!!ちょ、ちょ、ちょっと師匠っ!!??」
「だって綺麗に塗れてたからね~」
「理由になってないって!はっ、マジやっべー、やべーっすって師匠」
「そーかなあ普通だよ普通」
そう言いながら望美は満面の笑みで一乃の頼んでいたケーキを一欠片フォークで取るとおいしそうに頬張った。
一乃は呆然と困惑した目でそんな望美を見ていたのだった。
***
年は明けて雪の降った日。空はどこまでも分厚い鉛色の雲に覆われていた。
珍しく積もった雪を口実に一乃を公園に望美が呼び出していた。
ひとしきり雪ではしゃいだ後、一乃がベンチに腰掛けて雲に向かって重い白いため息を吐き出した。
「あーあアタシ最近ダメダメっす」
一乃は卒業を控え何かとセンチメンタルになっていた。漠然とした将来への不安といったところだろうか。
ひとしきり一乃の話を望美は聞いていた。
「そんなことないと思うよ~」
嘆く一乃の頭を望美は後ろから抱きかかえるようにして優しく撫でた。
「完璧美人の望美先輩にはどーせわかんないっすよ」
上から覗き込む望美を見ながら一乃が拗ねる。
「ひっどいなぁ。私にだって色々悩みあるんだよ?」
望美の目の奥と鉛色の空が重なった。
「嘘ばっか。たとえば?」
頭をさらに上に向けてやんわりと一乃は体を望美に押し付ける。
「ん-、今日は雨で髪まとまらないなーとか」
望美は目をそらし空を見上げるとフーッと小さなため息を吐いた。
「ほーらそんなんじゃん。あーあー相談したアタシがバカだった」
「でもちょっとは元気になれたでしょ?」
「はーーっ。そうゆうとこほんっと師匠ムカつく」
いつの間にか向き直っていた一乃が望美の腰に腕を回しお腹に顔をうずめる。
「――っ……、――……ふふっ」
望美はゆっくりと抱き返し頭をまた撫でた。
「けど好き」
今にも泣きそうな微かな声で一乃はそう言った。
「もー素直じゃないんだから。かわいいなあもう」
「せっかくメイク師匠みたいにかっこよく出来るようになったのにな……」
顔を上げた一乃の目元には涙が浮かんでいた。
涙で滲んだシャドウを望美がハンカチで拭う。
思わず目を瞑り視界の霞んだ一乃の目には師匠がどんな顔をしているか見えなかった。
「いいこと教えてあげる。涙はね、どんなに綺麗に化粧しても隠せないのよ。」
「?」
望美が掬うように一乃の髪を撫でる。くるくると髪を指で回す。
「でも、綺麗に化粧をしてるとその涙が何よりも美しく輝くの」
「なんすかそれ」
望美が遠くを見つめていた気がした。
望美はそれ以上何も言わずふふっとだけ笑った。
その笑顔がやたら一乃の心に残った。
雲間から陽ざしが零れ雪を照らし溶かしていた。
***
春のはじまり。バカみたいに晴れた最高の日。
二人はちょっと遠出して遊園地に来ていた。
ひとしきりはしゃいで遊びまわったあと、そこまで人気のないゾーンのレストランの端っこの席で二人は話をしていた。
つい先日卒業した一乃のお祝い。そういう名目で今日は遊びに来ていた。
だが、一乃はいつも以上に大げさにはしゃぐ望美に違和感を抱いていた。
「あのー望美先輩……なんかあったんすか?」
「えっ?なんで?」
不意に一乃が尋ねると望美は一瞬声を高くした。
「いやなんかいつもよりファンデ厚いし全体的に濃い目だなーって」
「……そういう気分なだけだよ~」
一乃はため息をひとつ大きく吐いた。
それから何も言わず持っていた食べかけのやたら色の濃いドーナツを望美の顔の前に突き出した。
無言で食べろという圧力。
負けたとでも言うように望美は苦笑してぱくりとそのドーナツを頬張る。
食べ終わるとふーっと短く息を吐いて望美は話し始めた。
「そっか。いちちゃんもけっこー分かるようになってきたね。誰に似たんだろうね」
「当然っすよ!師匠に教えてもらってんすからね!」
望美は嬉しそうに笑うと一乃のほっぺたを両手でゆるく揺さぶる。
「うりうりーっ、かわいいやつよのぅ」
――どうせわかんないよ。
「で、なにあったんすか?師匠」
一乃の目の奥の光は初めて二人が会った時とは違う鋭さを放っていた。
本当によく似てしまった。
「しつこいね今日のいちちゃん」
――ホント誰に似たんだか。
「あったりまえすよ。大事な人が泣いてたとあっちゃ理由を聞かずにはいられませんから!」
――あぁどうしよう。
「――そこまでバレてたかぁ」
望美は自身の目元を無意識にこすった。
――涙は流れていない。私は大丈夫。
「一番弟子をなめないでください!っすよ~」
――本当にかわいい弟子だ。私にはもったいないくらい。
「ちょっとねー、親と揉めてるんだ最近」
「親と……っすか」
「実家に戻って来いとかさ色々」
「え、師匠遠くに行っちゃうかもしれないってことすか?」
「ううん行く気はないよ私は。それでずっと平行線」
「な、なるほど」
望美の嘘は続いた。
一乃はただただ真剣に話を聞き続けた。
***
新年度が始まる直前。桜が半ば散って生ぬるい風が吹き始めた頃。
一乃が新しい生活に向けてバタバタして遊園地以来二人はなかなか会えていなかった。
ソファに寝転がって一乃は望美に送るメッセージを考えていた。
「んー、『師匠どうしてアカウント消しちゃったんすか』っと」
二人でいる時間が増えてからは望美のSNSに写真が上がることはそもそも少なくなっていた。
しかしとはいえ何もアカウントごと消すことはないはずだ。
夜になっても次の日になってもいつになってもメッセージに既読がつくことはなかった。
「間違えてブロックしちゃったのかな。んなわけないよなー」
まだ新生活が始まるまで少しだけ時間がある。
一乃は望美の家を直接訪ねることにした。
そこで初めて気が付いた。
「あ、アタシ、師匠の家知らないや」
あれだけ一緒にいたのに師匠の家に行ったことだけはなかった。
いつもどこに行こうとか約束して待ち合わせてたから。
二人でいるだけで楽しくて、一乃は大体いつも望美の行きたいという所に行っていたから。
何かの際に望美の家を見てみたいと言ったことはあったがはぐらかされて終わった気がする。
「どうしよっかなー」
一乃は二人で話したことを思い出してなんとか情報をつなぎ合わせた。最寄り駅とかよくいくお店とか。
案外簡単に絞り込めた。
それだけ沢山の話をしていたから。
あとは写真を頼りに道行く人に総当たりで聞きこんでやっと望美を知る人を見つけた。
「あら望美ちゃんの知り合い?」
近所話が好きそうなおばさんに一乃は話を聞いていた。
「うっす!望美先輩はアタシの師匠、あーいや、大事な先輩なんっす。急に連絡が取れなくなったんで探してるんす!」
「そういえば最近見かけないわね。望美ちゃんはいつも挨拶が丁寧で近所でも評判よかったのよ~」
「さすが師匠っす!それで、あのー、望美先輩の家どこか知らないっすか?」
「そうねぇ、確かこの先のちょっと右に行った方のアパートだったかしら」
「あざっす!」
やっと会える。もう会えないんじゃないかって思った。なんてのは大げさか一乃は心の中で笑った。
最後に会った時からまだ一か月も経っていないが長い間会えていなかったような感覚だった。
***
アパートの大家さんのインターホンを鳴らし、望美を探していると伝えると慌てた様子で大家さんが出てきた。
「望美ちゃんの知り合い?誰か来てくれないかとずっと待ってたのよ!」
「あ、はい弟子っす。待ってた?なんでっす?」
キョトンとしていると大家さんが話を続ける。
「ほら望美ちゃんってご両親いないじゃない?それでもどうしてもって言うから保証人無しにしてたのよ。それで困っててねぇ」
「ちょ、え?両親がいない?」
確か実家と揉めてるという話を聞いていたが一乃には何が何だか分からなくなってきた。
「あら?知らなかったの?それで、部屋はもう綺麗にしたんだけど、私物がねぇ、棄てるわけにもいかなくなって引き取り手に困ってたのよ。ていっても望美ちゃんほとんど物持ってなかったから少しだけよ。お願いできる?」
「ん??ん??なんの話っす??」
なぜか今度は大家さんの方が目を丸くする。
「それはあなたもちろん…………。…………もしかして聞いてないの?」
渡されたのは一つだけ。
見慣れたハンドバッグだった。
中にはメイクポーチとかが残されていた。どれも見慣れたものだらけ。
スマホとか個人情報に関わるものは業者によって回収処分されたらしい。
価値もなく引き取り手が来た時に簡潔に譲渡できる遺品のみが残されていた。
その結果がこれだけ。
アパートの前でハンドバッグを抱いて崩れ落ちた一乃を抱きしめてくれる望美はもういなかった。
桜の花びらが春風に散っていった。
「どうしてっすか師匠……。どうして何も言ってくれなかったんすか」
違う。気づけなかっただけ。
「アタシ、師匠のこと何にも分かってなかった」
違う。分かろうとしなかった。
「…………」
追いかけるばかりで自分のことしか考えてなかった。
「…………」
教えてもらった望美の眠る墓の前で一乃は静かに空を見上げた。
清らかな春の訪れ。陽気な日差しがとめどなく流れる涙を乾かしていく。
――いちちゃんへ
大好きだよ。ごめんね。
たったそれだけ。
メイクポーチの奥に入っていた小さな手紙に書かれていた。
何もわからないまま。
引き取ったバッグの中身をよく調べても師匠がこの世を去った理由は全然分からなかった。
小物を見るたびに記憶が蘇っては涙が頬を伝う。
大切な記憶が思い出となっていく。
どれも見たことのある物ばかりだったが、一つだけ知らないアクセサリがメイクポーチの奥に入っていた。
結構ボロボロになったハンドメイドのお店とかで売っていそうなシルバー調のネックレス。
望美にとっては大切なものだったのだろうか。
全てを大事にバッグに戻すと一乃は家に持って帰った。
何も新しいことは考えられなかった。
ぐるぐると師匠との思い出だけが一乃の頭の中を埋め尽くしていた。
***
一乃は望美を喪ってから、一人での過ごし方も思い出せず無為に時間を過ごしていた。
何度も望美と来た公園。一面の曇り空、春の終わりにしては少し冷たい風が吹いていた。
ベンチに座って何もせず一乃はボーっと空を眺め、雲の切れ間を探していた。
「イチノさん……でしょうか」
震えながら絞り出したといった声色が聞こえた。
一乃の目の前にいつしか誰かが佇んでいた。
「ん?誰キミ。アタシになんか用?」
望美が顔を上げると、朱とナイトブルーを基調にしたゴシックな服に身を固めた背の低い少女が一乃を見ていた。
少女は声をかけてきた割に腰が引けていて少し距離も遠かった。二人の目が合う。
少女の顔は喜びをあらわにする。
「わわ、やっぱりイチノさんだ!!」
「はぁ?」
少し取り乱していたがやがて少女はぴしりと背を伸ばすと挨拶を勝手に始める。
「ごほん、申し遅れました。私、ヴァーミリオンナイトと申します。直接会うのは初めまして、です」
「は?ばーみりっ……??は?なんて?」
「ヴァーミリオンナイトですっ!いつもコメントしてるあのヴァーミリオンナイトです!」
「…………、あー、うーん、えーっと…………?」
二人の間に若干の気まずい無言が続く。
「も、もしかして憶えてもらっていないです?!こんなにコメントしているのに!」
あれやこれやと一乃があげた写真とヴァーミリオンナイトがつけたコメントをスマホで忙しなく表示して見せてくる。
望美と行った場所。
望美と食べた物。
望美と二人でいる時に撮った写真。
目線を外してもう一度望美は空を見上げた。目の奥に灰色の風景が入り込む。
「……あー、何アタシのファンかなんか?うれしいけど悪いな~。ちょっとわかんねーわ」
――涙は涸れてる。大丈夫。
「本当に認知されていないのですか……がーん。でも私くじけません!」
ふーっと鼻息を荒げて少女は両腕を曲げて気合を入れる仕草をした。
「何一人で言ってんのお前?」
「え?いやこれはそのー……、ごほん。わ、私のことはいいのです!そ、それよりイチノさん、最近投稿がないのはどうしてなのでしょうか?」
「ん?あーー、気分じゃないっつーかなんつーか」
「も、も、もしかしてどこかお体を悪くされたのでしょうかかっ」
――しつけーなぁ。
一乃の目が空を睨む。少し少女はたじろいだ。
「いやいやそういうんじゃねーよ。ただ写真とか撮る気持ちにならねえってそんな感じ。てかなんでこんなこと見ず知らずのバー、ヴァ?お前に言わなきゃいけねーんだよ」
だんだんと一乃の声に苛立ちが滲み始める。
「うっ……覚える気ゼロですか……」
少女は勝手に残念がり一人で勝手に話を解釈し進める。
「病気じゃなくてよかったのです!でもでも、うーん、気持ちにならない……のですか。それはどうしたら前みたいに戻りますか?」
――前みたいに……は絶対ありえない。師匠はもういないのだから。
「いや知らねーよ、アタシが知りてーわ。てかなんなのお前さっきから気持ち悪いな。アタシのファンってよりストーカーじゃね??」
「す、す、す、ストーカーだなんてとんでもないです!私はただただ一乃さんが心配なだけでで、で決して怪しい者ではっ……」
少女があれ?と首を傾げる。
「では……?」
固まった少女の方を思わず一乃は見てしまった。
「ありました!冷静に考えると私すごく怪しい人でした!」
「おう……気が付いたなら何よりだ。さっさと帰ってくれ、こっちの気が狂いそうだ」
――望美がいた頃の写真を見せられて。
「でもでもでも!一乃さんが心配なのは本当なのです!」
「わかったわかった」
――帰れと言ったのに。
勝手にベンチの隣に座った少女は一人で延々と、いかになぜ一乃のSNSの投稿が好きなのかを聞いてもいないのに語り続けた。
なんでだろう。
とても懐かしい感じと期待感が入り混じっていた。
息苦しい今をほんの少し忘れられた。
ぽつりと梅雨の訪れを予感させるような温かい雨滴が一乃の頬に落ちた。
「キレイです!」
後半は流すように話を聞いていた一乃が声にハッとして意識を向けると、隣でパシャパシャと少女は空の写真を撮っていた。
レンズの向く先を見ると雲間から日差しが差し込んでいて淡い虹が出ていた。
――綺麗だったなぁ。
***
雨も降ってきて落ち着いた空気を吸いたくなったので、少女に付きまとわれたまま一乃は二人でよく行った喫茶店に来ていた。
ここの写真もSNSによく上げていたからか、わぁとかはーとか言いながら少女は店内やメニューにいちいち感動していた。
「で、なんだ。要するにお前はアタシの投稿が二週間無かっただけで心配になってストーカーみたいなことして探しに来たって?」
ひたすら少女が自分の世界に入り込んで帰ってこなそうだったの仕方なく一乃から声をかける。
「決して二週間はだけということは!いえ、あ、……す、す、ストーカー…………、はい、否定できないのです」
「ガチ?」
「が、ガチです!!」
「なんでちょっと自信ありげなんだよ。ヤバすぎでしょ」
アタシも最初はこんな風に見えていたのだろうか。一乃は砂糖をありったけコーヒーに入れてかきまぜた。
「ううぅ……」
さすがに反省しているのかバツが悪そうに少女は紅茶をすすっていた。
「よく見つけてきたなぁ。あ、てかさ、なんだっけバ、ヴァ?なんとかってのは本名?なわけないよね」
食い気味に少女が顔を輝かせて立ち上がる。がたっと大きな音が静かな店内に響く。
「ヴァーミリオンナイトですっ!」
「わかったわかった落ち着け。んで座れ」
「す、すみません。そ、そのヴァーミリオンナイトは私のアカウント名で本名は、その、」
少し恥じらいながら少女は本名を名乗る。
「朱夜っていいます」
「あや?どんな漢字?」
仰々しいヴァーミリオンナイトという名前が安易に本名を英語にしただけと気づいて一乃の笑い声が店に響いたのはすぐ後のことだった。
なんだかんだ二時間は話して二人は店を出た。
話といってもほとんど朱夜の話を一乃が聞いていただけだったが。
夜に近い夕方の空に薄く光る月が浮かんでいた。
「まー、でもさ。ちょっと元気出たわ。んー、いやちげーか気が紛れた的なやつ」
「わわわっ、光栄なのです」
朱夜が照れつつも笑顔を浮かべる。
さっきまでぐいぐい一人で喋っていたくせに褒められたその時だけ朱夜は照れくさそうに年相応に愛らしい表情を見せた。
「あーやっぱ今のなし!なし!ストーカーに感謝してどうすんだアタシ」
「またストーカーって!ひどいのですっ!」
「ごめんごめん。いやーマジウケる、ははっ」
笑ったのはいつぶりだろう。少し気が軽くなった。
ぴたっと道の途中で朱夜が足を止めた。
「ん?どうした?」
一乃が振り返ると朱夜は緊張した顔で手を身体の前で祈るように組んで何かを言いたそうにしていた。
「あ、あの、あのあの、あの……」
「うん」
「その……それであのですね……」
こういうところはやっぱり尻込みしてしまうのか。根はだいぶ臆病な子らしい。
どれだけの勇気をふり絞ってアタシのところに来たのか。それは今日話していてなんとなく分かっていた。
それだけ本当にアタシのことを心配していたことも。
一乃はぽんと手を朱夜の頭に置いた。
「またね」
遊び倒したあといつも別れを惜しむ一乃にこうやって望美はしてくれていたのだった。
――最後に遊園地行った時は師匠、またねって言わなかったなぁ。
朱夜が月明かりに照らされたように輝く。
「は、はい!またよろしくお願いします、です!」
***
人の気も知らず降り続く慈雨は春の淀みを洗い流していった。
朱夜はどこにでも一乃の行くところについてきた。
一乃といるだけで楽しい嬉しいという気持ちが朱夜から溢れていた。
仔犬のようについてくる朱夜がいるのがだんだんと一乃の日常になっていく。
出かける気分じゃなくても朱夜に今日はどこへ行くのですかと聞かれたらなんとなく一乃は出かける気分になった。
外に出ること、気分転換することからどうしても遠のいていた一乃の日常が少しづつ取り戻されていく。
ただそこに望美だけがいなかった。
ぽっかりと空いた穴。
朱夜が穴を埋めることはなくてもその周りに立って一乃に穴を見えないようにしてくれていた。そんな気分
だけど。
楽しいけど不意に訪れる空虚感。
何かが足りないという不足感。
「一乃さん?」
ふと意識が遠くに持っていかれて朱夜に引き戻されることが初めのうちは多々あった。
「わりぃわりぃ」
朱夜の前だと一乃はなんとなくかっこいい先輩を演じていた。
仮面の下で出かける度に思い出した。
いつも師匠とここで待ち合わせたっけ。
よく師匠と来たっけ。
毎度のように師匠と長居したっけ。
思い出す度に蓋をしきれず心に重く問いが圧し掛かる。
――どうして師匠は自ら命を絶ってしまったんだろう。
「はぁ~一乃さんはやっぱり綺麗です!かっこいいです!」
「おう、そうか~」
朱夜は事あるごとに一乃への憧れを口にする。
初めは照れくさく嬉しかった。
朱夜が褒めれば一乃はそれを教えてくれた望美も含めて肯定されているような気分がした。
アタシがいることで師匠は生き続ける。
自然と笑いあえるくらいには仲良くなって、朱夜も時々は自身の話をしてくれるようになった。
今、学校でどうしているか、とか。家での話もちらほら。
話は大体いつの間にか一乃大好きっぷりを朱夜が話すだけになることになるのだが。
朱夜はたぶんここ以外では独りだ。友達の話を聞かない。
うっすらと一乃は朱夜の孤独を確信しつつあった。
相当浮くであろうファッション。かなり独特な言動。朱夜のそれらは元々かもしれないが今はおそらく彼女が自身を守り固めるために身に纏っているものだ。
あまり自分の話を朱夜はしたがらない。無理に聞き出すこともしないが苦労はしていそうで時々心配だった。
「朱夜はどっか行きたいとこないの?」
ある時一乃は聞いてみた。
「私は一乃さんが行くところならどこでもい……はっ!ありますあります!」
朱夜はスマホをやたら一生懸命操作していたかと思うと一枚の写真を一乃に見せた。
この数か月無意識に避けていた場所。
望美の好きだったあの海辺の写真。朱夜の画面では当然のように既にいいねが押されていた。
モヤっと何かが一乃の心の奥で渦巻いた。
「どうしてここ?」
「はいっ、あの~それはですね。実はこの写真が私が一乃さんのアカウントを初めて見つけた時の写真だったのです」
独りでいた時にふとSNSを見ていて手が止まった。
引き込まれた。
目が離せなかった。
朱夜はそう語った。
綺麗に撮れてはいると思うが、ひとっけのない普通の海辺の写真だ。
どうして朱夜はこの写真に惹かれたのだろうか。
「ビビッときたのです!ディスティニーです!」
朱夜は大げさにそう言っていた。
「じゃ~今度行くか~」
「ぜひっ!」
断る理由もなかったので二人で行く約束をした。
望美が生きていた時は一人で行こうと思ったことはなかったし、今でもそれは同じだった。
望美が大切にしていて一乃にとってもなんとなく大切な場所のような気がしていたからだろうか。一乃にとってその海辺は二人で行く場所だった。
あるいは望美を強く思い出してしまう場所だったからかもしれないが。
夏の真っ只中でもその海辺には相変わらず誰もいなかった。当然、望美も。
銀色に照る太陽が水面でゆらゆらと眩しすぎるほどに反射していた。
どこまでも晴れ渡った日。真っ青な大空が全てを曝け出す日。
海辺に来ていつもよりも口数の減る一乃。思い出に頭が支配される。
「実物で見ると写真よりもっと綺麗です!」
朱夜の声が聴こえるが届いてこない。
頭がクラクラしてくる。
海辺ではしゃぐ朱夜を一乃は防波堤に座りながら見ていた。
コンクリートの先に見える蜃気楼が水平線をゆがませる。
波の音が遠のいていく…………
『いちちゃんはさ、メイクしてるときいつも何考えてる?』
何も考えてなかった。
何も考えず思ったままに生きていた。
考えても分からなかったから。
メイクはみんなしてるからしていただけだった。そうしないと「変」だから。
師匠を初めて見たあの写真に引き込まれたのは、望美のメイクやファッションが生き方が誰かのためではなく、誰かの見ているアタシではなく、「わたし」だったからだ。
アタシは私にはなれない。
真似事で塗り固めた仮面の下には何もないから。
師匠に憧れ師匠の真似をしていればアタシは私になれる気がした。でもなれなかった。
アタシのことも師匠のことも何も分かっていなかった。
師匠は何を思い生きていたのだろうか。
――ねぇ師匠?わかんないっすよアタシには……
温い温度と柔らかい感触に気が付いて目が覚める。
目を開くとすぐそこに朱夜の顔があった。額にはひんやりとした濡れタオル。
「よ、よかったぁ」
どうやらアタシは気を失っていたらしい。
ぽたぽたと涙が一乃の顔に落ちてくる。
「うわっおまっなんで泣くんだよ」
「だ、だって一乃さんが急に倒れてて、私どうしようって」
「あーわかったわかったありがとうな」
どうやら少しの間陽ざしにやられて気を失っていたらしい。一乃は体を起こすと安心して泣きじゃくる朱夜の頭をなでた。
落ち着くと二人で腰掛け海を見ながら話をした。
「あの、師匠ってどなたですか?」
鼓動が早くなる。
朱夜に望美の話をしたことはなかった。
なんとなく。話せば望美との記憶が思い出になるような気がしたから?
違う。奥底で渦巻いていたモヤモヤが急激に膨れ上がる。
「ん?どうした急に」
「実は、さっき一乃さんが倒れていた時に師匠ってうなされながら涙を流していたので気になりました。す、すみません聞いてしまって」
「アタシ泣いてたか。そっか」
「あの、もし、よかったら話していただけ――」
「うん、大丈夫だから。心配すんなって」
「でもでもでも」
「まーなんだ気にすんな。昔の夢を見ただけだって」
「そ、そうですか」
そうだ、それでいい。アタシの仮面だけを朱夜は見ていればいい。
爆ぜる寸前なんだ。
仮面の下の何もない風船が破裂しかかっている。
「飲みますか?」
息苦しさを必死に隠す一乃に朱夜は水筒を手渡す。
『そっか。いちちゃんもけっこー分かるようになってきたね。誰に似たんだろうね』
いつかの師匠の声が聞こえた。
あぁダメだ。アタシもう限界だ。
師匠のような優しさがそっと仮面の下ののっぺらぼうのアタシを引きずり出そうとする。
「私。一乃さんのことが大好きです。尊敬してます。その一乃さんが苦しそうな姿をしているのを見ているだけなのは……私がつらいです」
絞り出すように声を朱夜が紡ぐ。
「大好きね。『私』が、か」
「あ、え、その私が心配でってことで、」
「アタシのこと好きって言うのって全部師匠が教えてくれたことじゃん」
「え?」
ずっと分かっていた。
これまでの数か月。分からない振りをして自分をだましていた。
朱夜が慕っているのは、全て師匠がアタシに教えてくれたことだった。
そしてコイツはアタシとは違うんだ。
アタシに憧れていてもアタシには無い「私」を初めから持っていた。
「お前にはなんもアタシのことなんかわからねーよ」
「そんなことは!私はただ心配で……」
「うっせぇ」
気まずい無言が流れる。
受け取られず差し出されていたままになっていた冷えた水筒から水滴が落ちる。
落ちた水滴はコンクリートの色を変えることなく乾いていく。
「うっ、うぅ、」
カランカランと水筒が大きな音を立てて転がった。
朱夜が大声をあげて泣きながら走り去っていく。
「あ、ちょ、どこいくんだ、待てっておい!――」
朱夜の座っていたところは数滴分コンクリートが湿っていた。
転がった水筒を拾いあげ、一乃は立ち上がる。
波風の音が騒がしく耳にまとまりついた。
「――あーあアタシだっせえの。」
海辺の最寄りの駅まで戻っても朱夜は見つからなかった。
ふと嫌な記憶が頭をよぎった。
どうしようかと途方に暮れているとメッセージの着信音が鳴った。
『すみません、先に帰っていてください。私は大丈夫です』
「謝るのはアタシの方だっての」
仕方なく帰りの電車に乗り、また師匠のことを思い出しながらうつらうつらとしていた。
あれ?もしかして師匠も同じだったのかな。
***
次の週末。
珍しく朱夜の方から誘いがあった。
行先は言わずこの前と同じ海辺の近くの駅集合とだけ。
一乃が駅に着くと朱夜はもう待っていた。目元が赤くなっていた。
気まずくて一乃はすぐには何も言い出せなかった。謝るにしても何をどこから話せばいいか迷っていた。
「行きましょう」
朱夜が導くまま二人は駅を出た。
海辺とは反対の方に商店街がある少し人気のある場所。
無言で二人は歩く。
またよく晴れた夏の青空だった。遠くに大きな入道雲が見えた。
二人は何も言わず歩く。朱夜に一乃がついていく。
道の先が蜃気楼で揺らめいていた。
朱夜が一乃を連れてきたのはとある雑貨屋だった。
何の気なしに歩いていたら見逃してしまいそうなほどの小さな素朴なお店。
アタシより師匠が好きそうな店だな。店の窓にはチョークでHopefulHappyと書かれていた木板がかけられていた。
店の前には水を撒く一人の女主人の姿があった。こちらに気づくと朱夜に手を振る。
「おやこの前の朱夜ちゃん、とそっちは一乃さんかい?」
「はいっ。またお邪魔させていただきます」
一乃が何が何だか分からないまま言われるがまま店内に入る。
一つだけ置かれたテーブルと二つの椅子に二人を座らせると女主人は勝手にコーヒーを出してくる。
「この前はびっくりしたよ。軒先の掃除をしていたら急に泣きながら走ってくる子がいたもんだから」
どうやら朱夜がこの前海辺から走り去った後、この店の前で女主人がその姿を見て思わず呼び止めて話を聞いてくれていたらしい。
そして一乃と仲直りが出来なかったら二人でまた来なさいと言っていたらしかった。
「はぁ、すみません。なんか迷惑かけて」
「いいのよいいのよ。気にせずゆっくりしていきな」
窓の外を見ると海が良く見えた。どこまでも広がる大空に一筋の飛行機雲が出来ていた。
女主人は気を利かせたのか店の奥に行ってしまった。
少しの間沈黙が流れる。
やっとのことで一乃は話し出す。
「ごめんな、あや」
俯いたまま朱夜はスカートの端を握りしめていた。
「うぅ……違うのです。私が悪かったのです。勝手なことばっかり言って一乃さんを困らせてしまったのです」
「そうじゃねーんだ。この前のことだけじゃなくてさ」
「はいっ?」
この一週間ずっと考えてきた。
「アタシはお前のことも師匠のこともなんっにも分かろうとしてなかったんだ」
「師匠……?」
「そそ。アタシにもさ、あやにとってのアタシみたいな憧れの人がいたんだよ。その人ばっか見ててその人みたいになろうとして必死だった。あぁなりたいって思ってた」
「そっ、そうだったんですね……」
「かっけー自撮り上げてたのを見てさ弟子入りしに行ったんだ。あやみたいに」
「そ、それで師匠」
「うんうん。だからさアタシたちって結構似た者同士だったのかなって」
そうアタシと朱夜、師匠とアタシはきっと似た者同士だ。じゃなきゃこんなにお互いが大切になんかならない。
「私が一乃さんと似てる……」
一乃は頷いた。コーヒーを一口飲む。師匠が好きそうな味だった。アタシも好きな味。
「師匠師匠って言ってさ、どこでもついてったんだ」
――それが師匠を苦しめてたなんて思いもせずに。
「た、たしかに私と一緒です。なんか想像できません一乃さんのそんなところ」
「だよなぁ」
カップから昇った湯気を指でくるくると遮ると湯気は指にまとわりつくようにして、消えていった。
「アタシも一緒。師匠のことを全然わかってなかった。アタシが好きな師匠を師匠に押し付けてた」
「だから師匠はアタシが殺しちゃったようなもんだ。最低なやつなんだよアタシ」
「……!こ、ころし?」
「うん。師匠はアタシの知らないところで苦しんでたのにそれに気づけなくて死んじゃった」
はっと朱夜が息を飲んだ。
「そ、そんな、一乃さんが悪いわけでは」
「あやには分からねー…………、って言っちまったら前と一緒だな。ありがとうな、そう言ってくれて。でもさアタシが師匠が死ぬ原因になったのは多分間違いないんだ。今ならわかる気がする」
「どうして、そう思うのでしょうか?」
「あやのおかげだよ」
「え、わ、私?」
「うん。あのな、あやがアタシにかっけーって言ってくれるとこ全部師匠がアタシに教えてくれたとこなんだ」
「えっ!?」
言葉がのどにつっかえそうなのに、甘苦いコーヒーが全部言葉を吐き出させてくれる。
「あやがアタシにかっけーかっけーて言ってくれて最初は嬉しかった。でもさ、どんどん言ってくれれば言ってくれるほどあやが好きなのはアタシじゃなくてアタシを通して見えてる師匠なんだって」
「……………………」
「だんだんそう思いはじめてたらなんか辛くなってさ。アタシは師匠の真似ばっかして師匠みたいになれた気がしてたけど結局そんなことはなかった」
「馬鹿だよなー。人の真似してかっこつけてそれで『師匠』になれたつもりになってたんだ」
ハリボテの仮面の下で泣いてることに自分でも気が付かずに。
「……………………」
「はい、馬鹿です。大馬鹿です。」
「…………だよなぁ」
「馬鹿馬鹿馬鹿大馬鹿ですっ!!」
朱夜の手が震えていた。
「何もそこまで言わなくても……ってなんであやが泣いてんだよ」
朱夜の目から大粒の涙があふれていた。
「だって、だってっだって!一乃さんが大馬鹿だからぁっ……。ほんっとに私のこと何もわかってないっ!!私はっ、私は――」
精いっぱい息を整えて朱夜は言葉を続ける。
「――はぁっはぁっ、心外なのです!私は一乃さんの『師匠』が好きな、わけではないのです、何も分かってません!!」
「は?そんなこと――、」
「分かります!だって私は一乃さんが誰かの真似をしていたことことなんて百も承知でした!!」
「えっ……?」
「キレイとかカッコイイとかそうじゃなくて一乃さんがその師匠さんに憧れて一生懸命頑張って頑張って、頑張って、それが一乃さんでその輝いてた一乃さんが私は!」
「――――!」
あぁアタシも最初はそうだった。
師匠がかっけーって見えたのは写真がイケてたからじゃない。
ただの自撮りなのに師匠が輝いて見えたからだった。
いつの間にか忘れてた。
また分かってなかった。
まだまだ分かってなかった。
朱夜のこと師匠のこと。アタシのこと。
「馬鹿馬鹿馬鹿!一乃さんの馬鹿ぁ」
「あぁごめん、ごめんな……」
「うわあああぁぁぁん」
大泣きする朱夜を撫でて一乃は思いを巡らせた。
やっとわかった気がする。師匠にアタシがビビッときた理由。
師匠も今のアタシと本当に本当に一緒だったんだ。きっと。
「おやまぁそんなに泣いちゃって大丈夫かい」
奥から女主人がコーヒーのおかわりを持って出てきた。
コーヒーを注いでいると朱夜が顔を上げる。目元に涙をいっぱいに浮かべながら。
こんなにアタシを大好きで、こんなに真剣にアタシに向き合ってくれる。朱夜が愛おしくてしょうがなかった。
「そうだ。あや、いいこと教えてあげる」
「?」
朱夜の涙をハンカチで拭う。
「涙はさー、どんなに綺麗に化粧しても隠せないんだよ。でも、」
「「綺麗に化粧をしてるとその涙が何よりも美しく輝くの」かい?」
ハッとして一乃は声の重なった方を向く。
立ち昇る薫り高いコーヒーの匂い。女主人がにっこりと笑った。
「どうして……」
「さぁねえ店を開く前に同じことを誰かに教えた気がするのさ。まっ昔の話さ」
ふふっと彼女が笑う。なぜか記憶の中の笑顔と重なった。
涙が止まらない。零れていく。
「あれ?あれ?」
「一乃さん?」
自分でも分からないくらい涙がこぼれる一乃を朱夜がびっくりして見ている。
エプロンから取り出した布巾で女主人が一乃の涙を拭ってくれる。
「ほんとうにあんた達似た者同士だねぇ」
泣き止むと一乃は女主人に声をかけた。
「また、二人で来てもいいですか?」
「もちろんいつでも歓迎さ」
女主人は帰りにお店の名刺を手渡してくれた。
HopefuHappyという店の名と、慶とだけ女主人の名前が書かれたシンプルな名刺。
ここは二人にとって大切な場所。
***
夏の終わる前。秋の訪れにはまだ早いかという頃。
朱夜と二人で師匠の墓参りに行った。
朱夜がどうしても行きたいと言ったのだ。
アタシもそんな気分だった。いっぱい報告したいこともできた。
墓の前に行くと一輪のリンドウがすでに置かれていた。
墓前に座って長い間、手を合わせていた。
「行きましょう」
朱夜が手を差し出す。一乃は握り返し立ち上がる。
青空の向こう少し遠くに海が見える。
帰りに海辺に寄り、慶さんの雑貨店にも寄った。
「いらっしゃい」
前のように気さくに迎えてくれる。
コーヒーを頼み、お店を物色する前に慶に一つの包みを渡す。
「これ、壊れてしまってんすが、捨てる気にもならないんで差し上げます」
中には望美のメイクポーチの奥に入っていた古さびたシルバー調のネックレス。
包みから取り出してそれを見た慶は一瞬目を丸くした。
慶は一乃を見て、一乃の目の奥のどこか遠くを見てぼそりとつぶやいた。
「大事にしてたんやねぇ。ありがとう」
二人でコーヒーを飲み他愛のない話をした。
帰り際に朱夜と一乃でおそろいのアクセサリーを買った。
「また来ます」二人はそう言って店を出る。
夕方になっていた。
水平線の向こうに夕陽が沈んでいく。
オレンジに光る空はこれから来る秋の訪れを感じさせた。
「帰るか」
「はいっ!」
波の音がいつまでも柔らかく続いていた。
どこまでも、どこまでも二人の影が夕焼けに伸びていた。
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