「あのね、メイクがしたい!」
 それが小学校から帰ってきた理香の第一声だった。
 聞けば下校時に友達とのおしゃべりでアニメの話題になり、そこに出てきた化粧グッズの話で大いに盛り上がったらしい。まだ低学年だから化粧の意義もあまり分かっていないだろうが、そうか、ついに……
 「ついにこの日が来たか……」
 期待に目を輝かせる娘とは裏腹に私の頭は痛くなっていく。残念ながら化粧を教えられる人材がこの家にはいない。男手一つで娘を育ててきたため家事全般は一通りこなせるのだが、化粧とやらには生まれてこの方お世話になったことがないのだ。
 かと言って理香もいずれは化粧をしなければならない身、ずっと化粧を遠ざけておくわけにもいかない。悩んだ挙げ句、娘のために化粧セットを買ってあげることにした。明日は予定があるから買い物は今日のうちに済ませておこう。

 どうやら、そもそも小学生が化粧をしても良いのかという問題から考えないといけなかったらしい。そのことに気付いたのはショッピングモールに到着して店に入ってからだった。スマホで調べると出るわ出るわ、やれ肌を傷つけるだの、やれ友達との格差が発生するだの、Googleの検索結果は親を不安にさせる文言のバーゲンセールだった。化粧をするのは時期尚早だったかな、と若干後悔しつつ、なるべく子供の肌に優しい(らしい)メイクセットを購入した。かつての知り合いにメイク道具だけで数十万も費やす人がいたのでビクビクしながら値札を見たが、子供用だからなのか普通に安かった。ピンクを基調とした装飾入りの化粧箱は私の目から見ても可愛さに溢れており、理香の喜ぶ顔を思うと自然と笑みが零れるのだった。

 「理香ただいま~。メイク道具買ってきたよ~」
 玄関の扉を開けて戦利品を掲げると、奥の部屋から娘が子犬のように走って来た。抱きしめようとすると娘はスルリと避けて化粧セットをひっつかみ、そのままトットットッと子供部屋に帰っていった。包装紙を破るベリベリという音がした後、思い出したように部屋から顔を出して「パパありがとー!」と叫び、再び部屋に引っ込んだ。プレゼントをあっという間に盗まれた私は、ただただ苦笑いするしかなかった。少なくとも喜んでいるのには違いないから、とりあえず良しとしよう。
 だが問題はここからだ。私は化粧のやり方を全然知らないし、ましてや子供向けのメイクの作法なぞ想像もつかない。令和の時代なら「メイク講座」のような動画がYouTubeに沢山転がっているだろうから娘と一緒に勉強するかなあ、などと考えながら子供部屋を覗くと、あまりの光景に思考が全て吹き飛んだ。
 子供部屋には以前娘に買ってあげた大きめの着せ替え人形があるのだが、それが椅子に座らせられていた。そこまではいいのだが、その口元が「タコかな?」となるくらい口紅でぐるぐる円を描かれていた。喜々として口紅を振るう娘にしばらく固まっていたが、ようやく頭が追いついてきた。
 「あぁ…………そういうことね」
 理香は自分で化粧をしたかったのではなく、誰かに化粧をしてあげたかったのだ。

 熱心にメイクをする娘を眺めながら、ベッドに座って物思いにふける。理香の横顔は本当に茜にそっくりだ。誰よりも美人だった妻に。
 『人と違うことをしたいんだよね』
 と、茜はよく言っていた。化粧をするのが大好きで、メイクなんて他人と同じことの筆頭だよな、とからかうと可愛らしく怒った。
 『メイクだからこそ人と違うことができるんだよ!』
 あまりに怒らせ過ぎると、次の日の弁当箱がラメ入りの可愛らしいものになっていたりした。私は会社の机で涙目になりながら、「人と違うこと」と「常識からの逸脱」の違いを知った。
 流石にもうあの日々を思い出して泣くことはないが、やはり少しばかり感傷的になる。まぶたを閉じれば、いつでも鮮明にあの笑顔を思い出せる。あの美しい……
 そこでパッと目を開いて理香を眺める。今まさに己の美を体現しようとする娘を。
 「美しいって、なんだろうなあ……」
 妻の言っていた「人と違うこと」の良さが最近になって分かってきた気がする。だからこそ「美しい」という言葉にモヤっとしたものを感じるようになった。
 美しいとは感覚だ。人が生まれてから現在までに培ってきた経験で構築されたものだ。だから時代によって「美しい」の基準は違うし、今も刻一刻と流行の名の下に変化し続けている。ならば私は妻の化粧を綺麗だと感じたのは近代に生まれたからだろうか。お互い平安時代に生まれたら、美しいと思わなかったのではないだろうか。化粧は突き詰めると自分のためのものだ。より美しくなって周囲にとっての価値を高め、それが自信に繋がっていく。つまり「誰が見ても美しい」が化粧の条件で、それは価値観のすり寄せだ。実際に化粧の役割が「自らの顔を装飾し世間の美的感覚に迎合すること」であるならば、茜は何故あそこまで頑張って化粧を……
 不意に脚を揺さぶられる。見ると、理香が満面の笑みで人形を見せびらかせてきた。
 「どう? びじんでしょ?」
 正直に、正直に言うと、有名なキュビズム画家も裸足で逃げ出しそうなメイクではあった。けれども理香が生れて初めてした化粧であるという事実に加え、良い返事を心待ちにしている可愛い目を見つめていると、これも味のある素敵なメイクのような気がしてきた。いや、絶対に素晴らしいメイクに違いない。恐らく異世界の彼方の辺境の地では絶世の美女と祭り上げられるだろう。……我ながら親馬鹿だなと思う。
 だから「素直に」美人だと褒めると、理香は今年一番の笑顔を見せ、嬉しさで部屋中を飛び跳ね回った。よほど私に褒めて欲しかったらしい。
 娘のはしゃぎ様を見て、ふと茜との思い出が蘇った。
 何回目だったかは忘れたが、茜とのデートの時に彼女のメイクを褒めたことがある。私は茜のアーモンドのような目が好きだったのだが、そのかっこいい目をより際立たせるメイクが詳しくない私から見ても素敵だったから。すると茜は今の理香のように嬉しくて堪らないという顔になった。気恥ずかしくなって、
 『そこまで喜ばなくても……。素敵だね、なんてみんなから言われてるんじゃないの?』
 と言うと、茜は照れくさそうに笑った。
 『世界中でたった1人にだけ伝わればいいメイクだってあるんだよ』
 そこで我に返った。
 部屋を走り回る理香を捕まえてぎゅっと抱きしめる。妻と一緒の癖っ毛を撫でながら、ぼそっと呟いた。
 「そうだよな。誰かのためにする化粧も、あるんだよな」

 ・ ・ ・

 次の日は早めに起きた。というのも今日は茜の命日で、墓参りの準備で忙しいからだ。線香やらライターやら色々用意しないといけないし、後で近所の花屋にも行かないといけない。
 顔を洗いに洗面台に行くと、鏡にタコが映っていて眠気が吹き飛んだ。見ると口の周りに大量の口紅。夜中に起きた時に理香が「施した」に違いない。
 早く落とさないとと苦笑しながら水を掬ったが、昨日の出来事が頭をかすめて手を止めた。
 「……落とすのは理香に感想を言ってからだな」
 それに、と鏡に映るメイクを見ながら思う。この化粧は「常識からの逸脱」かもしれないけれど、同時に「世界中でたった1人にだけ伝わるメイク」でもある。きっとこの顔を見ただけで私の幸せっぷりが分かるだろう。ああ、見れば見るほど素敵なメイクだとも。これは恐らく、どの時代でも変わることのない美しさだろう。外出する時はマスクでもつければいいさ。
 丁度その時、理香が起きてきた。寝起きで目をこすっていたが、私の顔を見るや否や嬉しそうに笑った。そんな娘を抱き上げて高い高いをする。私が言うべきことは一つだけだ。
 「おはよう理香。どうだい、パパは美人だろう?」


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