わたしは化粧に取り憑かれていたことがある。化粧台の前に座っては、何十分も試行錯誤し、光の当たり方が変わったり、わずかに顔の筋肉を動かしたりしたときの様子を観察したものだ。今では、そのわたしが化粧をとんとしなくなってしまった。
ありがちなことにわたしが化粧を一通り覚えたのは高校卒業直後であった。卒業式直後、ひとり上京して新しい大学生活の基盤を整えようとしているときにはじめて化粧をしたのだ。いま思い返すと眉を整え、ニキビ跡を隠し、目立たぬ色の口紅を塗っただけのごく簡単なものであったのだが、鏡に映った姿は1Kの部屋の寒さ寂しさを忘れさせるのに十分だった。そのまま日用品を買いに出かけ、部屋の掃除をし、あらゆるものを適切な位置に配し終わった時には日はもうほとんど暮れてしまっていた。夕飯前に一息つこうとベランダに出たわたしは生活に伴う避けられない疲労を感じつつも高揚した気持ちを感じていた。その時にはもう化粧に取り憑かれていたのだと思う。
いきなり少し遠出してデパートの化粧品売り場に行こうなどとは思わなかったが、翌日からは生活用品を買いに出る度に化粧品も幾つか買うようになった。学期が始まり、大学に毎日通うようになると毎日欠かさず化粧をした。時には朝昼で二度化粧をすることもあった。新しくできた友人たちは、そういう話を聞く度に戸惑ったような笑みを浮かべていた。わたしは部屋の中ほどに化粧台を置き、それを中心に家具を配置し直していた。わたしがこうなったのは不思議なことではない。というのも、はじめて化粧したあの瞬間からわたしにはわかっていたのだ。つまり、化粧したわたしはわたしではない。もちろん常識的にはわたしではあるのだが、しかしそれに大した意味はない。すべての道がローマに通じるといってもやはりここはローマではないのだ。薄紅色を唇に載せたあの朝、鏡の向こうを覗き込んだだけで、わたしには十分だった。鏡の向こうの洗面台はせせこましく、惨めったらしかった(そう感じていたのはわたしだけだった)。鏡の向こうの人物は、わたしの顔をじっと見つめていた。彼女は微かに上気した血色の良い顔で、押し黙ったまま立っていた。狼狽し気恥ずかしささえ覚えていたわたしには、見られるのが恥ずべきことのように思えた。わたしは彼女の視線を避けるように顔の細部に目を向けた。程よい長さと濃さに整えられた眉、大きくカールし活力を感じさせる睫毛、シミが隠されただ健康的でなだらかな起伏のみのある肌、その中で陰が強調され雪山の厳しさすら連想させる鼻筋。最後にわたしの視線は唇に吸い込まれた。わたしの唇はぼてっと肉がついていて色も薄く、周囲との境界がぼやけて締まりのない唇であった。それがどうだろう。鏡に映っている彼女の唇は色こそ淡紅色であるものの自信ありげに上向いており、見るものに印象を残さずにはいられなかった。
今になって気づいたのだが、奇妙なことなど何ひとつなかった。それは起こるべくして起こったことなのだ。毎朝、化粧台の前に座る度に、その考えが徐々に強まっていった。彼女は復讐を望んでいるのだ。人類が鏡を大量生産する技術を身につける前は彼女たちは不羈だったはずだ。ナルキッソスは水鏡を覗き込むしかなく、彼女たちと世界の境界は風に吹かれるだけで曖昧になった。だが銅鏡の発明から今まで彼女たちの自由は削がれる一方だった。銅鏡が錆びやすいのは彼女たちの最後の抵抗の跡かも知れない。そして、あの冷酷な輝きを持つ銀には彼女たちも手出しができなかったと見える。我々は意図せざるうちに彼女たちを世界から切り離し、果ては固定化すらしてきたのだ。
化粧に特段の仕掛けなどありはしない。ただ、今までの人生のほとんどは化粧をせずに過ごしてきたのでまだ慣れていないだけなのだ。そう自分に言い聞かせようとしたが、だめだった。彼女にもわたしにもわかっていた。だから、あの出来事には何も奇妙なところがなかったのだ。鏡の向こう側の彼女をわたしは、今にも触れそうな距離で見つめていた。顔全体で硝子板から流れ出す冷気を感じていた。不連続なことは何もなかった。わたしは鏡に押し付けられた自分の顔を見たのだ。それは紛れもなく鏡に映った見慣れた自分の顔だったのだ。その時、不意にわたしの顔は鏡から離れたので、わたしはすべてを理解した。
ただ、奇妙なことに、わたしの考え方が変わったわけでもなかった。いわゆる考える前に体が動く状態がずっと続いているだけで自分の行為に違和感はなかった。わたしの思考は行為を追認するのが精一杯で完全に後手に回っていたのだ。はじめてそうと気づいたとき、わたしは生き埋めにされた人が自分の運命を知った時のような恐怖を覚えた。
以前、わたしはよく化粧台の前に座っていたが、最近はあまりそうしなくなった。近頃は何週間も化粧台を使わないことがある。昨日はめずらしく鏡を覗き込んだが、それだけであった。どうやらわたしはもう化粧に興味がないらしく、ただ部屋の真ん中にドレッサーがあるというだけのようであった。


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