鏡の前に立つと、尾神は自分の顔をじっと見つめました。
『見つめる』というより『睨む』だな、と心の中で自嘲します。
顔をしかめたつもりがなくても常に眉間にシワが寄っていて、双眸は突き刺すような鋭い視線を放っています。
世の中そのものを忌み嫌うような目つき。
性根の歪みが視線の歪みになって現れているのかもしれない。
私の人相が悪いのは、私が人間として歪んでいるからなのか?
一人でいる時はそんな余計なことばかりを考えてしまいます。

街で一番大きな交差点。その近くのベンチに尾神は腰掛けます。
待ち合わせの十五分前。
尾神はこの時間が好きでした。何もすることのない、所在ない時間。それでも退屈ではありませんでした。
雑踏を眺めて、見慣れた男がひょっこり顔を出すのを待っている。ただそれだけの時間が幸せだったのです。
「すまん。待たせた」
「いいよ」
「じゃあ行こうか」
「うん」
いつも通り、時間丁度に男は現れました。
この荒木という男は余計な会話をしようとしない、無口な人間です。二人は黙ったまま、並んで街を歩いていきます。この時間も尾神は好きでした。

荒木と出会うまでの尾神は、男と付き合って、寝て、別れてを繰り返していました。
自分を愛してくれる存在を求め、それ以外の物事は全てが退屈でした。
退屈を覆い隠すように眉間のシワを化粧で塗りつぶし、精一杯の笑顔を浮かべて過ごしました。
愛される幸せを感じ、自らもありったけの愛で男を包み、欲望には熱心な奉仕で応えました。
そうすれば恋人とベッドに入っている時だけは自分が歪んだ人間ではなくなるような気がしたのです。
しかしそれも長くは続きません。愛を感じられるのは最初だけで、時が経てば男は己の性欲を満足させるために腰を振るだけになっていました。
そうなると途端にその男が退屈な存在に見えてきて、逃げるように去る。その繰り返しでした。
尾神は男と別れると、寂しさを紛らわせるためにバーに行っていました。
人が少ない夕方の時間を狙って、マスターに愚痴を聞いてもらっていたのです。
マスターはいつも『ふふっ、そういうこともあるよねえ』と言って笑います。本当か嘘か、ちゃんと聞いているのかどうかもわからないような反応だけれど、少なくとも自分の存在を許してくれました。素っぴんの自分を受け入れてくれました。
普段の着飾った自分を知る人が誰もいないそのバーが、自分の中の毒を吐き出せる唯一の場所だったのです。
ある時、いつものように愚痴を聞いてもらいに行くと、カウンターには先客がいました。
尾神は居心地が悪くなって帰ろうとしましたが、マスターがそれを引き止めました。
『たまにはいいじゃないか。似た者同士、話が合うかもしれないよ』
その男も尾神と同じように、辛いときの逃げ場所としてバーに通っていたのです。
マスターはカウンターに座っている二人を見比べて笑いました。
『君たち、そっくりじゃないか』
言われて顔を見合わせると、いつも鏡で見ているのと同じ目がこちらを見つめていました。退屈を噛み殺すような苦々しい目。突き刺すような鋭い視線。眉間のシワの形までそっくりで、二人も思わず笑いました。
その後は夜遅くまで愚痴を言い合い、その勢いのまま男と寝ました。
荒木という名前を知ったのは朝になってホテルを出る時でした。

荒木は愛想のない男でした。これまでの男と違って、愛を囁く言葉も、優しい慰めの言葉も持ち合わせていませんでした。
何も言わずに、ただ傍にいてくれました。
ただ黙って自分を受け入れてくれました。尾神にはそれが幸せだったのです。
いつしか尾神はひとつの変化に気づきました。
鏡の中の自分と同じ、睨むように険しかった荒木の目つきが、性行為のときは少しだけ優しい目に変わっているのです。
同時に、自分の眉間にもシワが寄っていないような気がしました。
それに気づいてから、できるだけ目を合わせるようになりました。
舌と舌を絡める度、性器を舐める度、彼を見つめると、愛おしむような視線が返ってきました。それがたまらなく嬉しくて、より深く荒木のことを好きになっていきました。
この人のために尽くしたい、という思いが溢れました。
それは自分が愛されるためだけの奉仕とは違う何かでした。

いつしか眉間を塗りつぶすような化粧はしなくなっていました。
眉毛やアイラインを黒く濃く描くシャープな印象の化粧に変え、パーマをかけるのもやめて、服も男の趣味より自分の好みに合わせて選ぶようになりました。
周りの人間は『刺刺しくなった』と揶揄し、尾神から距離を取るようになりましたが、荒木からのキスの回数は増えました。

「なあ」
「ん?」
荒木が遠慮がちに口を開いたのは、二人で一夜を明かしたのち、尾神が荒木に服を着せている時でした。
「どうしたの?」
「その……渡したいものがあって」
尾神が襟を揃えるのを待ってから、荒木は鞄を探り、小さな箱を取り出します。
「俺は贈り物は得意じゃないから、気に入ってもらえるかわからないが……できるだけ似合うと思ったのを選んだつもりだ」
「開けていいの?」
「ああ」
尾神が箱を開けると、中には銀の指輪が入っていました。
「これって……」
荒木は咳払いを一つすると、尾神を真っ直ぐに見据え、緊張した面持ちで言いました。
「どうか俺と結婚してほしい」
少しの沈黙の後、尾神は思わず笑みをこぼしました。荒木の額に、いつもと同じ、いやいつも以上に深いシワが刻まれていたからです。そのシワが自分の額にも同じように刻まれているに違いないと思うと、なんだかおかしくなってしまったのです。
そして次の瞬間には荒木に抱きついていました。
荒木を見つめて「ありがとう」とだけ言うと、そのまま唇を重ねました。
舌を伸ばし、絡め合い、口の中を隅々まで味わうように這わせました。
唇を離すと、二人の間で唾液が糸を引いて落ちました。
「私も、アンタしかいないと思ってる。でも私たち、変な夫婦になるだろうね」
「ああ」
そう言うと荒木も笑いました。


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