そう、あれは一学期の期末試験が終わった後の帰り道だったと思う。
解放感でいつもと違うことがしたくなって寄り道してみた。
普段通る道から外れた人気のないあぜ道を進んでいくと、小さくて寂れた神社があった。
管理者がいるかどうかすら分からない、その古びた神社を横切った時、僕は運命の出会いを果たした。
本殿の下で小さく丸まっていた黒猫。
野生の鋭い眼光は残したまま、でも、痩せていて元気はあまりないように見える。
こんなこともあろうかと、鞄に忍ばせていた「ちゅーる」を取り出して目の前に出すと、彼はこちらを見たまま少しずつちゅーるを舐め始めた。
その、まさに小動物的な可愛らしさに心を撃ち抜かれた。
シンプルだけど彼を「クロ」と名付けることにした。

僕の家のマンションは、ペット禁止になっている。
犬・猫はもちろん、金魚やハムスターもダメだったはずだ。
昔はよく、猫を愛でるために近所の友達の家に上がり込んでいたものだ。
でも年を取るにつれて、人のペットに手を出すのも気が引けてきたし、男が猫を可愛がってるのを他の男友達にイジられるのが嫌でやめてしまった。
かと言ってマックで週2回バイトしているだけの高校生の僕が、猫カフェに通い詰める金も当然ない。
まぁそんな訳で、僕が出来るのはひっそり野良猫を愛でることだけだった。
夏休み中も毎日のように神社に通って、クロとの愛を育んだ。
猫缶を買うためにバイト漬けの夏休みになった。
野良猫を「不衛生だから」と嫌う母親にバレると面倒くさいので、猫缶も毎日コンビニで1つずつ買ったせいで割高になったが、後悔などある訳がない。
クロが少しずつ懐いてきて、僕が神社に入ってくると軒下からひょっこり顔を出すのが、もうたまらなく可愛かった。


二学期になってもその逢瀬をやめる訳もなく、「ゲーセン行こうぜ」という高橋の誘いを断って、早々に学校を後にした。
大粒の雨が降っており、この9月頭の残暑が重なってなかなかに不快指数が高い天気だ。
いつものコンビニでネコ缶と自分用のヨーグルッペを買って神社に向かうと、クロは軒下で雨宿りしていた。
「ほぅら、出ておいで~」
しゃがんで声をかけながら猫缶を袋から取り出すと、クロはまだ開け終わっていない猫缶を僕から奪い取るように前足をジタバタさせている。
「こらこら~焦るなって~」
クロがケガしないように綺麗に蓋を開けて地面に置いてやると、一心不乱に食べ始める。
あぁなんて可愛いんだ、クロ。
頭をなでてやっても、それを意に介さずクロは猫缶を貪り続ける。
これも信用の証ということだ。

しかし、この一人と一匹の幸せ空間を邪魔する奴が現れた。
「おっヨーヘー、何してんの?」
「っ…!? ……って、なんだ咲良か」
「よっすー。こんな雨の中なんかしてると思ったら、やっぱ猫がらみか」
そこに立っていたのは、所謂幼なじみの咲良だった。
僕の猫マニアっぷりを知っている人間で良かった。
ひた隠している訳ではないが、同級生に見つかって学校で変に噂されるのも嫌だった。
安心して、視線をクロに戻しながら応対する。
「うん。っていうか、こんな所通るんだな」
「ん、まぁね」
彼女は一個上の高3だが、昔からのなじみでタメ口で話している。
と言っても、まともに会話するのも僕が高校に入る時以来だから一年半ぶりくらいだ。
「そういえば、みぃちゃんは元気?」
「あー最近分かんないや。おじいちゃん家にも行ってないし」
「それは残念だなぁ」

みぃちゃんは彼女の家で昔飼ってた猫だ。
みぃちゃんと戯れるためによく家を訪ねていたが、5年程前にみぃちゃんが祖父母の家に引き取られてからは家に行っていない。
その結果、咲良と顔を合わせることも自然と減っていった。
そんなことを思い出している間に、クロは猫缶を食べ終えて満足げに寝転がっていた。
クロに嫌がられない程度にお腹を優しく撫でていると背後から質問が飛んできた。
「ねぇ、そのヨーグルッペもネコにあげるの?」
咲良が地面に置かれたビニール袋を指しながらそう尋ねる。
僕はフッと鼻で笑いながら
「バカ言うなよ。猫は牛乳も専用のものじゃないとあんまり良くないんだぞ? これは僕のだよ」
「あっそ、じゃあ貰うね」
言い終える前に袋から取り出して、ストローを差している。
「あっ、おい…」
「──久々に飲んだけど美味しいね。ほら、ありがとう」
一口飲んで少し凹んだ紙パックをそのまま僕に渡してくる。
あまりに予想外の行動に、思わず上ずった声で答えてしまう。
「い、要らねえわ! 何したいんだよ!」
「そ。じゃあ全部貰うわ」
そう言いながら再びストローを優しく咥えている。
その所作を変な目で見てしまい、恥ずかしい気持ちが湧き上がってくる。
しゃがんだ状態から見上げているからかもしれないが、咲良は随分大人っぽい印象に映った。

彼女は二口目のヨーグルッペを摂取すると、紙パックを左手に持ちかえて右ポケットに手を突っ込んだ。
次の瞬間、ポケットからは何か箱のようなものが出てきた。
そこからスティック状のものを一本取り出して口に咥えた。
ストロー? いや明らかに違う。
「えっと、咲良それ……タバコ?」
「どう見てもそうだろ。親とか先生にゼッタイ言うなよ」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
呆然とする僕をよそに、彼女はライターをカチッカチッと何度か指で弾き、タバコの先端に火を灯す。
そのまま息を吸ったが、むせたようでゴホッゴホッと咳き込んでいる。
少しバツが悪そうにこちらを睨んでくる。
「何見てんだよヨーヘー」
「不良少女……」
「ピアス一個も開けてないし不良じゃないよ」
「なんだその基準」
「生活指導とかもされたことないし」
タバコ吸ってればそれだけで十分不良じゃないか、と言ったところで無駄な気がしたので言葉を飲み込んだ。
神社の縁側に座って煙草をふかしている彼女の横に腰掛け、もう一つの疑問を投げかけた。
「てか、なんでここで吸ってるんだよ」
「人目につかなさそうな場所をたまたま見つけただけ。こんな寂れたトコ誰も拝みにこないでしょ。しかも大雨だし」
確かにそれはそうだ。晴れている日ですら滅多に敷地内で人を見かけない。
「っていうかタバコとか吸うんだな、多分ネコの健康にも悪いからあんまり近くでは……」
「はー……相変わらずネコのことばっかりだな」
「悪いか? ネコさえいれば僕の人生万々歳だ」
「ふーん、悩みがなさそうで良いね」
「そう言う咲良はなんか悩みでもあるのか」
「………いや、別に」
再びタバコを吸って、今度はむせることなく吐き出している。
何となく会話が途切れて少しの間沈黙が流れる。
携帯を取り出して天気予報を見てみると、雨はまだ降り続けるようだ。
いつも以上に人気がなく、ただ雨音とタバコの煙が漂う空間はなにか異世界にでも来たような不思議な雰囲気がした。
「ヨーヘー」
「何?」
携帯から顔を上げて横を見上げると、咲良はフーと煙を僕に向かって吐いて目の前が真っ白になった。
と、同時に不快な匂いの煙を吸い込んでしまった。
「ゲホゲッホゴホッオエッ………ちょっと何するんだよ!」
「ねぇヨーヘー。みぃちゃんはいないけどさ、たまには前みたいにウチ来なよ」
「ゲホッ……は? なんで?」
「いいじゃん、なんでも」
彼女は立ち上がって、タバコをピンク色の携帯灰皿の中に押し込んだ。
「じゃ帰るわ。ヨーグルッペの箱捨てといて」
そう言うと立てかけていた傘を差して、止めてあった自転車を手で押してそのまま神社の鳥居の方へ向かう。
「おーい! タバコは吸うのに傘差し運転はしないのかよ!」
と叫ぶと、振り返って少し笑いながら
「うるさーい! あんまりでかい声で言うな!」
と叫んで、そのまま帰って行ってしまった。


ヨーグルッペと猫缶をビニール袋に入れて、クロに目をやるといつの間にか寝ていたようだ。
満腹で眠りにつくその表情はとても幸せそうだ。
気持ちよさそうなクロを見つめていると、先ほどのある情景を思い出してしまった。
──雨で濡れたシャツから透ける黒っぽい下着のシルエット。
頭をぶんぶんと振り、その情景は胸の奥に秘めておこうと決めて神社を後にした。


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