10メートル四方の真っ白な部屋の中心に、それは鎮座していた。
それを最初に見た時の印象を尋ねたら、全員がこう答えるだろう。
「鉱物」と。
物々しい台座の上に2メートルほどの透明な結晶がそびえ立っていた。
「鉱物」からは数え切れないほどのケーブルが伸びており、その全ては巨大なコンピューターへと接続されていた。
コンピューターの傍らにはくたびれた顔の研究者が立っていて、頬をさすりながらその「鉱物」に話しかけた。
「おはようございます、アン」
『挨拶』[238-a7h-4jm]
『疑問』[357-j2H-dKv]
研究者、バーニーが頬から手をどけると、そこは見事に赤く腫れていた。
「ああ、これですか? 今朝も上司に一発やられましてね」
『同情』[513-8DL-ca9]
「いえいえ、私がどんくさいのが悪いんですよ」
バーニーは部屋の中央まで歩いて行って、空からの来訪者を撫でた。
「主観」のデータ化に成功したのは、つい10数年前の話である。
ヒトの思考・感情・感覚、そういった脳裏に渦巻く全てのものは他人に転送可能となった。
もちろん人間社会に多大な影響を与えるとしてこの技術はすぐに規制対象となったが、各国の軍では密かに研究が進められていた。
その技術はやがてヒト以外にも適応可能となり、公にはなっていないが現在のところ哺乳類の感情までは読み取れる。
電気信号が司る限り理論上あらゆる生物の思考は読み取れるはずであるが、脳が小さ過ぎるとまともなデータが得られないのだ。
この技術はこれまで敵国のスパイや要人を捕らえて情報を強制的に抽出するといった軍事目的でしか使用されてことなかったが、ある日思わぬところで活躍することとなった。
遡ること2年前、この国の軍が砂漠に落下した隕石を回収したのだが、その解析を進めるうちに驚くべきことが判明したのである。
隕石内に埋め込まれていた「鉱石」から、脳波に酷似する信号が検出されたのだ。
「鉱石」にはすぐに装置に取り付けられ、「アン」と名付けられて意思疎通を図ることとなった。
それから何回も季節が変わり、ようやくこの国の言語を教え込むことが出来た。
どうやら人間の声は認識できるようで、話しかけると電子的な反応はあるのだが、残念ながら「鉱物」に発声器官は存在しなかった。
よって人間側がアンに話しかけ、その時の「主観」データを全て人間側に転送することでコミュニケーションを成立させている。
アンの思考は概念として抽出され、それは50億を超える項目に分類されて番号を付与される。
そしてバーニーの頭に取り付けられている受信機に全て転送され、復号化してバーニーの脳内に同じ思考を発生させる。
もちろん危険と隣り合わせではある。
もし「アン」がとてつもなく繊細な生物で、表面を少し押しただけで計り知れない痛みを感じる場合、転送されるのは圧力の数値ではなく壮絶な痛みの方だ。
つまり「アン」の正体が未知数な以上、データを受信する人間にも少なくないリスクがある。
それなのにバーニーが受信機をつけなくてはならないのは、つまりはそういうことなのだ。
「アン」にプライバシー含む人権がないのと同じように、彼もまたまともな人間扱いをされていないのだった。
簡単な問診をした後、バーニーは布でアンの表面を磨き始める。
その行為はアンの利益にならないと「会話」の末判明したのだが、バーニーはアンに埃まみれで居て欲しくなかった。
アンに1から言葉を教えたのはバーニーだ。
親も妻も子もいないバーニーにとって、アンは初めてできた家族のようなものだった。
愛情表現のやり方が分からない彼にとって、アンのために出来ることは掃除だけだった。
当初は双方に利益がないから掃除は無意味だと主張していたアンだったが、やがて静かに受け入れるようになっていた。
丁寧にしっかりと磨き始めると、アンの感覚がバーニーに流れ込む。
それは硬化した皮膚を優しくさすられるようなむず痒い感覚と、そして、
『安心』[614-KWF-15c]
アンに自分を認めて貰えているという、確かな証拠だった。
それはバーニーにとって、この上なく心地よいものであった。
彼の心のどこかで、何かが波打っている感覚があった。
『説明』[149-3f8-k2K]
「そうですか。なるほど」
現在バーニーの脳内には、数十万年前のどこかの銀河の映像が映されている。
それはアンがまだ有機生命体であった頃の風景だ。
同じ映像をモニターしている上司達は今頃大騒ぎだろうな、とバーニーは監視カメラをチラッと見た。
アンの周りにいるのはおびただしい数の泥人形のような生物達。
もちろんアン自信も泥人形だった。
それは、当時アンの種族全員で行われた大激論の様子だった。
有機生命体は子孫を残し続け、世代を超えて進化することで種を保存している。
種を保存することが至上命題であるならば、その結果こそが大事であるのなら、と1人の泥人形が語った。
【有機の体を捨てて、脳神経を決して壊れない鉱石に移植する。退化もせず、進化もしない、そんな無機の永遠を手に入れた方が良いのでは】
数百年の議論を経て、その提案が採用された。
そして、千年以上を生きれるはずの頑強な体を全て廃棄し、全員が鉱物になった。
「……凄いものを見ました」
想像できない、という言葉は存在しない。
何故ならイメージそのものが脳に送られてくるからだ。
だが転送されてきた予想を遥かに超える風景に、バーニーがショックを受けることはなかった。
アンにとって、その大いなる過程は取るに足らないものだったのだ。
だから転送されたバーニーにとっても何でもないことに感じられる。
この部屋において、事実は何の意味もなさない。
その事実に何を思うかが全てなのだ。
それでもバーニーは、アンの存在を遠くに感じた。
気が遠くなる程の期間思考を続けていたのにも関わらず、アンから転送された感情にネガティブなものは一切なかった。
仲間と会話できない寂しさも、終わりの見えない人生への恐れも何もない。
その強さはこの数十万年で培ったものではなく、種族として本来アンに搭載されていたものなのだ。
『心配』[435-kO8-qAp]
バーニーが考え込んでいると、アンの気遣いが転送されてきた。
そう、感情はあるのだ。
この数十万年を感情を持ちながら過ごせるということが、遠いのだ。
それから半年の時間が過ぎた。
バーニーとアンがただ「会話」をしながら過ごせばいいだけの時間は唐突に終わりを告げた。
最初は宇宙人というだけでもてはやしていたバーニーの上司達の興味が、次の段階に移ろうとしていたのだ。
バーニーも軍に所属してる以上、いつかはこの日が来ることを心のどこかで覚悟していた。
「それで」
巻きタバコをふかしながら、恰幅の良い上司がバーニーに問いかけた。
「アンは『我々』にどう役に立ってくれるのかね?」
人間は未だ種の保存について種族全員で議論できるほど成熟していない。
同じ種族より、より上に、より強く。
棚から落ちてきたロストテクノロジーを用いて、いかに軍を強化出来るか。
この国の民のの至上命題など、所詮はその程度のものなのだ。
アンは技術職ではなく一般人であったから、抽出できる情報はさほど多くはない。
人類の大半がコンピューターの仕組みを知らないのと同じ事だ。
だが太古の超文明の「常識」1つだけで人類の技術レベルを2つも3つも押し上げることが可能であることは、バーニーも薄々感じていた。
そして軍にとっては、「鉱物」そのものも垂涎ものの研究対象だった。
人類も同じように無機物へと思考回路を移植できるのか。
そしてその際にどれほどの苦痛に絶えられるのか。
その実験台になれるのは、今1人しかいない。
「あと1週間で、僕とアンはお別れなんだそうですよ」
バーニーはどこか他人事のようにアンに告げた。
彼はただの実験台であり、アンの「主観」をそのまま人間に転送しても安全かを確かめる毒味役だった。
そのリスクが限りなく低いことが判明した以上、彼がお払い箱なのは当然のことだった。
宇宙人からの情報搾取という美味しい役割を軍がいつまでもバーニーに任せておくはずがない。
軍トップからの命令で、バーニーはアンに軍事利用計画について告げることを固く禁じられた。
そしてそのことが、バーニーの心に重くのしかかっていた。
アンの全てはバーニーに転送されるが、逆はない。
快く全てをさらけ出してくれるアンに対し、バーニーだけが後ろ暗い秘密を抱えている。
それは彼にとって、途方もなく辛いことだった。
『狼狽』[685-lHk-w23]
アンの驚きようは予想を超えたものだった。
バーニー基準で言えば、突然月が2つになった程度のレベル。
この純粋な宇宙人は、地球人が善意でケーブルを繋いでおり、友人を作ってもらうためにバーニーを派遣したのだと思っている。
だからいつまでもバーニーが側にいると信じて疑わなかったのだ。
『疑問』[698-23q-Ql0]
「何故か、ですか?」
アンからの問いかけに、バーニーはボリボリ頭を掻いた。
そしてその指先だけに意識を運び、なるべく平静を保って答えた。
「来月から別の国に行かなくてはならないのです」
『拒絶』[813-KNi-9w7]
「大丈夫ですよ、私の代わりにもっと面白い人がおしゃべりに来てくれますから」
それはバーニーがアンに対して初めてついた、言い訳の出来ない明確な嘘。
もうすぐ会えなくなることが告げられ、アンの中で様々な思考や感情が渦巻くのがバーニーには視える。
そしてそれらの心象風景は重なり合い、色をつけ、像を結ぶ。
そこに浮かび上がったのはバーニーの姿だった。
この1年半の様々なバーニーが現われては溜まり、現われては溜まり、そして無数のバーニーが一瞬のうちに仕分けられる。
数多のバーニーから抽出された数人のバーニーの傍らには、どれも彼の上司がいた。
バーニーはアンの扱いを良くするため、上司に誤魔化しの報告をする。
ーーボリボリと頭を掻きながら。
ごくん、と自らが唾を飲み込む音をバーニーは聞いた。
肺の内側に氷があると錯覚するほど肝が冷えた。
自分が嘘をつく時の癖を見抜かれたという恐怖。
震えそうになるのを辛うじて押さえながら、バーニーは別れの挨拶をした。
「それではアン、また後で」
アンの抱く感情は、そのまま全てバーニーに襲いかかる。
そしてそれは、
『疑心』[812-eZ8-35n]
彼が、
『疑心』[824-eZ8-4hU]
部屋を、
『疑心』[886-eZ8-jni]
出るまで、
『疑心』[891-eZ8-99f]
届き続けた。
アンに嘘がばれたことはすぐにバーニーの上司の知るところとなった。
アンの主観データは「安全と確認されてから」上司にも転送されているので当然のことだった。
翌日、いつも以上に体重をかけてバーニーの頬を殴った後、上司は一言だけ言った。
「次はないぞ」
バーニーはアンに嫌われたかもしれないというショックを引きずっていてそれどころではなかった。
そうか、もう殴られることはないのか、というのが素直な感想だった。
ズキズキと痛む頬を押さえ、ビクビクしながら部屋に入ると、脳内が一つの感情で満たされた。
『憐憫』[698-45F-wsM]
鉱物は何も喋らない。
微塵も動きもしない。
けれどもバーニーのことを心配してくれる、この世で唯一の存在だった。
信頼を裏切っておきながら、なおも体を気遣ってくれるアンの優しさにバーニーの目頭が熱くなる。
その日、バーニーは一言も発さずにアンの体を磨き続けた。
自分が去った後も、少しでも長く綺麗であるように。
丁寧に磨きながら、バーニーは心のどこかでまた何かが波打っているのを感じた。
それから数日は、宇宙の話など全くせず、他愛のない話で盛り上がった。
その時間はあっという間で、ついにバーニーがアンに会える最後の日が来た。
彼が部屋を訪れると、アンには追加のケーブルが配線されていた。
もちろん「実験」用のものである。
このケーブルを通してありとあらゆる刺激をアンに与えるのでだろう。
バーニーはケーブルを引きちぎりたくなる衝動にかられたが、自分の死期が早まるだけだと悟ってぐっと我慢した。
「アン、調子はいかがですか?」
バーニーはそう尋ねた後、ハッとして自分の顔に触れた。
そこには一筋の涙がつたっていて、静かに床に落ちた。
今バーニーの頭の中を占めている感情は、彼自身のものではない。
それは紛れもなく、アンの涙だった。
バーニーは悲しいような、そして何故か嬉しいような不思議な気持ちになって、アンに背中を預けるように腰を下ろした。
「実は、外国に行くというのは嘘だったんですよ」
ぽつり、と彼は語り出した。
「ただ単にアンの懐柔という私の役割が終わったから、もう必要ないんだそうです。これからはアンをただの道具だとしか考えていない連中が、あなたの頭をいじくり回しにくるでしょう」
アンの思考に、動揺は見られなかった。
「すみません、嘘なんかついて」
『既知』[423-u8K-al9]
「ああ、やはり知っていましたか」
バーニーは苦笑いをした。
人付き合いが皆無である彼にとって、親しい相手への隠し事というのは想像以上にこたえるものであった。
そこから開放されて彼はホッと胸をなで下ろしていた。
そしてバーニーはアンをじっと見つめた。
「アン、私はあなたに会えたことが心から嬉しい」
彼はガラス細工を撫でるように、そっとアンの表面に触れた。
「だから伝えたいことが数え切れないくらいあります。しかし、アンに本当のことを言ってしまったので、モニターしている上司がもうすぐ踏み込んでくるでしょう」
そう言ってバーニーは立ち上がり、新しく搬入された装置にかけてあるヘッドギアを手に取った。
「ですが、おあつらえ向きに今日はここに『これ』があります」
それはありとあらゆる刺激をアンへと伝える装置。
つまり今だけは、彼の全てを嘘偽りなくアンに伝えることができる。
バーニーはスイッチを入れ、目を瞑って念じる。
彼の中を占める1つの感情が、1ビットたりとも欠けずにアンへと転送された。
「感謝」[959-Yn8-7eR]
一瞬の沈黙。
バーニーにはそれが永遠のように思えた。
その永遠は、アンにとっての永遠として今まさに転送されているだろう。
その永遠の沈黙ののちに、アンから同じ感情が返ってきた。
『感謝』[961-Yn8-h99]
そして、さらに驚くべき宣言がバーニー頭の中に飛び込んできた。
『告白』[972-hgb-8Yh]
バーニーの驚きは相当なものだった。
告白とは、秘密を打ち明けること。
全ての思いが相手に伝わるこの部屋で、最もあり得ない概念だった。
バーニーは固唾を飲んでデータの転送を待ったが、しばらく待っても何も起こらなかった。
ただ、心のどこかで何かが波打つばかり。
バーニーが首を傾げると、アンは一層強く念じたようだった。
何も起こらない。
波の勢いが強くなった気がした。
そしてアンがもう一度あらん限りのエネルギーを込めて念じた、ような気配がした。
そこに来てようやく装置が感情データの存在を感知した。
『■■』[999-Error-1]
その瞬間、バーニーの心が波にさらわれた。
彼はその感情に触れて、それが地球上どの生物にも理解不能な概念であることを直感で察した。
もともと秘密でも何でもなかったのだ。
ただ人類に理解が出来なかっただけの話。
装置を通してバーニーとアンは同化する。
感情の渦潮に溺れ、液化した思考の海に沈むと、そこではありとあらゆる事象が乱れていた。
視覚から味を感じた。
鼻で負の値の匂いを嗅いだ。
世界全てが蝸牛に触れていた。
舌先で時の歪みを把握した。
海の底に溜まった喜怒哀楽を手で掬った。
そして、そこにはもう1つ感覚があった。
五感とは明確に異なる、独立した感覚。
第六感のように脳内だけで完結するものではなく、物理的で、そして絶対に理解不能な感覚。
仮に兮感と呼ぶとすれば、今まさにバーニーはアンに兮れていた。
兮て、兮いで、兮わって、兮いて、兮っていた。
それだけでバーニーの魂は幸せで満たされた。
■■という概念は決して理解できはしないけれど、嫌な気分はせず、むしろ嬉しさに包まれた。
刹那の時間を無限に細分化し、その一瞬一瞬をバーニーとアンは心ゆくまで楽しんだ。
そしてどんどん意識が薄れていった。
・ ・ ・
目覚めたときには、再びあの白い部屋にいた。
バーニーがぼうっとしていると、床を踏み抜きそうなほど大きな足音がして怒り狂った上司が部屋に飛び込んできた。
右手には口径の大きい拳銃が握られている。
バーニーがアンを庇うように立ち塞がる。
上司が引き金に指をかける。
床が揺れ出したのはその時だった。
上司もバーニーも回りを見渡す。
地震だと認識した時には、既に2人は宙に浮いていた。
下から突き上げるよな衝撃に研究所は絶えきれず、瞬く間に2つに避けた。
走馬灯のように時間がゆっくりと流れ、バーニーは必死にアンに手を伸ばす。
彼が最後に見たのは、ケーブルをなびかせながら深い深い亀裂の奥底に落ちていくアンの姿だった。
バーニーが目覚めると、周りは瓦礫の山だった。
上司どころか、人の気配が全くなかった。
見ると研究所を囲っていた高い壁が跡形も無く崩れ去り、森が見えている。
バーニーは人が集まる前に森へと逃げ出した。
走りながら、彼はアンとの思い出を回想する。
バーニーには以前から気になっていたことがあった。
彼がアンに人間の持つ概念を片っ端から教えていた時、アンがどうしても理解できない概念が1つだけあった。
それは、「愛」[XXX-10v-EXX]であった。
アンの種族には愛というものが存在しなかったのだ。
そしてその代わりにあった概念が、おそらく■■だったのだろう。
バーニーが森を抜けると、一面の草原が広がっていた。
夕日に照らされて金色に輝いており、その美しさにバーニーは見蕩れた。
バーニーはその場に腰を下ろし、目を細めて太陽を眺めた。
そしてアンに思いを馳せる。
有機の体を捨ててまで手に入れた無機の体であるから、例えマントルまで落ちても死にはしないだろう。
むしろ地球も鉱物みたいなものだから、もしかしたら地球と同化できるのかもしれない。
そうであって欲しい、とバーニーは願った。
アンが秘密にしていたものは、バーニーへの■■だった。
それが何なのかは彼には分からない。
恐らくあと10万年生きても理解できないだろう。
それでも、きっとこの上なく好意的なものだったのだろうとバーニーは思った。
理解出来ない以上証拠などなにもないが、確信だけはあった。
「だから私も、アンを愛している。それだけでいい」
バーニーはそう呟いて、地面を優しくなでた。
この星において、事実は何の意味もなさない。
その事実に何を思うかが、全てなのだから。
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