日本のとある場所に、急成長を遂げる私立大学があった。2051年の秋、その大学前の通りで起きた事件が、大混乱を巻き起こした。
事件が起きた日はちょうど大学祭の1日目だった。その大学の全国的な注目度は急速に高まっており、大学前の歩道は報道関係者と来客でごった返し、車やバイクがひっきりなしに走っていた。事件発生とともに、通りに居合わせた人々は文字通りパニックに陥った。交通も混乱状態になった。
この大学が位置するのは、とある民間大企業が建設した計画都市の中だった。過疎化が進んだことでこの地方の土地の買い上げは容易となり、民間大企業による広大な計画都市の建設と、教育機関である学園と大学の設置が実行された。緑に囲まれたこの都市は、フランスのパリを真似て放射状に設計された。大学があるのはそのうちの一角であった。大学ではなく学園が経営母体となったのは、その大企業がこれから複数の教育機関を設置する意図があるからだと言われていた。
大学の外周は、どこか大正時代を思わせるデザインの赤色の煉瓦の壁で仕切られていた。大学前の通りは『大上通り』と名付けられ、大企業が設置した「経済特区」によって商業的に守られた店が街をつくっていた。大学正門の近くには、カフェ・居酒屋・肉屋・ラーメン屋・本屋・自転車屋が店を構えていた。学祭当日は、県内外からやって来た大勢の人々の話し声や足音が、煉瓦で出来た歩道や、商店の中まで響いた。昼下がりの時間帯、大通りのカフェは学園祭を見てから一息つく客で溢れかえった。
事件の目撃者の一人、庄野悟 (しょうの さとる) は、東京大学を卒業後にこの大学の大学院へ進学し、自由文化研究科の修士2年として科学哲学を専攻する一大学院生であった。事件当日の昼下がり、庄野は大学構内にある学生寮で仲間と小宴会を催すため、酒の入ったレジ袋をさげて帰っていた。その途中で、学祭で人の多い大上通りに差しかかった。庄野は歩道の雑踏をスムーズにすり抜け、構内がある側へ横断歩道を渡るため、信号待ちの集団に混じって立ち止まった。11月の半ば、秋の気配がすっかり濃くなった木々や空が、様々な期待を胸に信号待ちをする人々に向かって微笑んでいる質感がそこにはあった。時折、庄野や他の信号待ちの人々の前を通過する自動車やバイクが静かなエンジン音を立てて、表面が新しいアスファルトの道路を滑って行った。
庄野が待っていた信号が青に変わった。人々の足音と共に横断歩道に踏み出すと、庄野は地面に引かれた白線とアスファルトの境界からふと目線を上げた。偶然、大学時代の学科の先輩が、人混みに紛れて向こうから渡ってくるのに気がついた。
「Aさん!」
庄野は声を上げた。
「ん?」
眼鏡をかけたひょろ長い体型の男性が、横断歩道の真ん中に歩いてくると同時に庄野に気がつき、確かめるように顔を伺った。
「おお・・・!庄野じゃん。元気してた?」
「おかげさまで元気にやってます!」
庄野は横断歩道を渡るのをやめ、先輩が渡るのと同じ側の歩道へと戻った。
「あ、ごめんごめん、急ぎだったら勿論行ってくれよ。」
「全然大丈夫ですよ。だらだらした飲み会の買い出しですし。」
庄野は通行人の邪魔にならない位置まで歩道に戻ってきた。
「へー、院からこの大学に来てたんだな。ここ、何かと話題だよな。」
Aさんは大学の赤い煉瓦の外壁を振り返った。見上げると、外壁の向こうに見える白い建物に嵌められたガラス窓の中を、学祭の来客達の影が動くのが見えた。
「そうなんです。ここは修士課程からリサーチ・アシスタント(RA) 制度で年間300万円貰えるんです。普通の院だと、タダ働きな訳ですけど。」
庄野は酒の入ったレジ袋を、右手から左手に持ち替えた。二人の横を、信号を渡った大勢の人達がゆっくり通り過ぎていった。イベントで人が密集した状況特有の、浮いた雰囲気を漂わせた来客が、学祭のパンフレットを軽く眺めたり、大学の建物を見上げたりしてバラついたペースで歩いた。庄野と先輩の横で、横断歩道の青信号が点滅し始めた。
「教員の採用も質はしっかりしていますし、国内外のいわゆる有名大学との共同研究も盛んなんですよね。このままアメリカの有名私立大のような立ち位置になっていくんじゃないでしょうか。」
「そうなんだね・・・。いや、『日本のスタンフォード大』という期待や噂はよく聞いてるよ。国立大はもうずっと運営でヒイヒイ言ってるだけだし、こういう私立大学も面白いのかもしれないな。正直言ってもう国に金がないのも悪いんだよな。」
この学園の理事長は40代半ばの実業家として有名だった。米国からの帰国子女で日本の大学を出た後に中国でVR事業に成功し、大資本を元手にこの広大な都市と学園を設立した。たまにテレビ出演もしていた。
学園は教員の給料を高く設定し、世界的に就職難のアカデミア業界から優秀な若手や中堅を、大規模に教授・准教授として採用した。それで一人当たり年収数千万円と潤沢な基盤研究費を実現させており、そこそこの話題となっていた。
「悪い。赤信号に変わってしまったな。」
Aさんはすまないと手刀をきる仕草をした。
「全然大丈夫ですよ。先輩は・・・・。」
庄野が「先輩は近頃いかがお過ごしですか?」と言いかけたその時、突然、50mほど離れた雑踏から金切り声と絶叫が上がった。
「うわあああああ!!」「ぎゃあああああああああああああ!!!!」
庄野は、叫び声が上がった方角をすぐさま振り返った。しかし、何が起きているのかが人混みに紛れて見えなかった。次の瞬間に、群衆の一部が逃げ出すさまを見て、異常事態を悟った。逃げ出した群衆がいなくなり始めたタイミングで、庄野は「それ」を見た。
路上で、白くて醜悪な形をした「のっぺらぼう」がスクーターに乗っていた。スクーターは昭和的な古めかしいデザインで、時速20kmほどで大通りを直進していた。人々が叫び声をあげた理由は、言葉に絶するようなその造形だった。白塗りで、空に向かって伸びていて醜悪な形をしたのっぺらぼう。その形によって、庄野にとってはまるで人間の恐怖心に直接手を突っ込んで握り潰すような衝撃が襲った。絶叫した男性や女性の一部が歩道に倒れ、残りの群衆は即座に車道の反対側へと縮み上がるか、バラバラと逃げていった。
のっぺらぼうが運転するスクーターは、そのまま曲がって路地に消えていった。残されたのは大上通りの大混乱であり、歩道のところどころでパニックで泣き叫ぶ数百人の老若男女達であった。
その場にいた学園関係者や学生達は、パニックになって卒倒した人々を見てすぐさま救急車を手配し、警察に通報し始めた。
一方、学祭を取材にきて偶然居合わせた報道関係者達は、材料集めに必死になった。慌てて撮った白塗りの不気味な「のっぺらぼう」の断片的な映像に加えて、パニックになった通行人を撮影したり、目撃者のインタビューを咄嗟に敢行した。数人は、のっぺらぼうを追って路地に走っていった。
県警のパトカーが4、5台到着し、現場検証のために刑事達が降りてきた。
「ただ今現場に居合わせた巡査が捜索。傷害の現行犯逮捕は出来なかったようです。」
警察や報道関係者達がのっぺらぼうを見つける事は、遂に出来なかった。
翌日には、白いのっぺらぼうでパニックを起こして病院に搬送された人は百人を超え、不調を訴えて病院にかかった人数は千にのぼる事が判明した。到着した救急車は、全く台数が足りなかった。付近の病院では全くキャパシティが足りず、隣接する3つの市の公立・民間病院の病床・外来が埋まり、局地的な医療崩壊が起きた。搬送された人の多くは謎のトラウマを植え付けられており、病院のベッドの上で呻き、何かを振り払うようにして苦しんだ。被害者は学祭の観覧に来ていた一般人や学生の家族が最も多く、学園の学部生・大学院生達がそれに続いた。駆けつけた家族達が何が恐ろしかったのかを訊いても、明瞭な答えを返せる者はほとんどおらず、記憶のフラッシュバックでパニック的な反応を示して暴れた。
「一般的にトラウマは、衝撃的すぎるあまりに『言葉を失う』ような体験なんです。そのため自ずと言葉になりにくい性質を持っています。」
翌日のテレビのワイドショーにリモート出演した精神科医は、汗をぬぐいながらそう語った。病的なトラウマとは日々の生活に必要なコミュニケーション能力さえもえぐり取るものだ、とその医師は語った。
「どういうメカニズムで起きたトラウマなのかは分かりませんが・・・。トラウマの事例で有名なのはちょうど40年前に起きた東日本大震災ですね。ここ数十年間警戒されている南海トラフ地震でも、場合によっては同様の事案が起きる可能性があり・・・。」
不思議な事に、現地にいた一般人から提供された白いのっぺらぼうの映像は、グロテスクさは伝えるものの、映像を見た人がパニックを引き起こす例は見られなかった。それでも被害者のケアを優先し、日中に繰り返し放映する事は控えられた。
警察やテレビ局は、映像の中でのっぺらぼうが運転していたスクーターのナンバープレートを運輸局で照会した。すると、登録されていないものである事が分かった。映像のナンバープレートをよく観察してみると、本物のナンバープレートとはデザインが微妙に異なっていた。要するに、本物そっくりな偽物だったのである。昭和の時代に起きた有名な未解決事件である「三億円窃盗事件」では白バイを本物そっくりに作り込んだ車両が犯行に使われたが、その事を引き合いに出し似ていると言う者もいた。
ワイドショーのスタジオでは、この事件をコメンテーター達が面白がって連日議論した。
「愉快犯なんじゃないでしょうか。しかし、あのような騒ぎを起こすことの出来る衝撃的な物体のデザインが可能なのは一体どんな人物なんでしょうか。国内か、国外の美術家?」
「まさに美術を介した無差別テロが起きたんですよ。身体ではなく、純粋に精神だけに働きかけた破壊行為です。」
「映像だけ観たのではパニックは起きないっていうのは不思議ですね。やはり生で体感してしまう何かがあるという事なんですかね。」
「それも標的は東京でなく、この計画都市で、しかも大学祭の現場で起きた訳ですよね。これに何か意図があるんじゃないでしょうか。」
「左派の美術家が極左化して『暴力』的な手段に出たという可能性もあるのではないでしょうか。」
「えっ、これが無差別テロだとして、その目的は一体何なんでしょうか?」
2日後は学祭の最終日のはずだったが、事件を受けて学祭は中止された。夕方、庄野は構内にある自治寮である『大上寮』の庭で、寮生達とビールやウイスキーを飲んでいた。
「お疲れ!何もしてないけど~笑。」
「大変な事件になったよな。まあ、学祭の浮かれた雰囲気は好きではなかったけど。」
庄野の友人で大学院生の三浦が、ビールの入った紙コップを片手にぼやいた。寮生達はテレビを持たずワイドショーを観ない事もあり、寮内では事件をどう受け止めるかも定まらず、比較的日常通りの生活が送られていた。
庄野達が酒を飲んでいる大上寮の建物と庭は、大正・昭和時代を想起させる古風なデザインになっていた。夏の夜に手持ち花火をするにも風情がありそうな、日本的な雰囲気であった。寮の入り口から通用門に向かって庭石が並べられ、幾つかの樹木が植えられている。寮と大学構内は生垣で仕切られ、庭では微かな草木の香りが常に漂っていた。さらに外の、大学構内と外界を仕切る赤い煉瓦の外壁の向こうでは、報道関係者達が車で走り回っている音がかすかに聞こえてきた。
「次の輪読会は何をやる?良い案がある人ー。」
「やっぱり哲学の何かやってみたいなー。全然やってこなかったの何となく後悔してる。」
院生の赤坂が、ぼんやりと空を見上げて呟いた。赤坂は庄野と同じ修士2年の学生で、生物科学を専攻していた。赤坂が何となく見上げた秋天の空は青々しく、淡い程度のちぎれ雲を浮かべていた。
寮の建物と庭の間は、日本家屋の縁側のような開けた板間になっていた。庄野達は縁側の外にさらにテラス用の洋式テーブルと椅子を広げ、和洋折衷と冗談を言いつつ酒を飲むのが定例であった。赤坂は、縁側に置かれた生ビールサーバーに自分専用のジョッキをセットし、ビールをジューっという音とともに嬉しそうに注いだ。4脚の複数の洋式テーブルの上には、バーボン・清酒・芋焼酎の瓶が雑多に並べられ、各人が思い思いに注いで飲む状態であった。
「もう始めてるの?魚市場から魚を沢山仕入れてきたらしいぞ。」
他の寮外生もやってきた。
「オフコース!今日は魚パーティーやで。」
「調理場は・・・?」
「もちろんあるぜ。」
赤坂は得意げであった。
「この縁側の裏に調理用のスペースがあって、大体3-4人は同時に作業出来るんだよね。よっしゃ一丁仕事しますか。」
寮生の赤坂と三浦は、魚パーティーに意欲満々の様子だった。
「今日は学祭残念会だ。折角泊まりで来てた俺の知人のお客さん達を呼んでみた。」
三浦はぶっきらぼうな性格に反して、よく東京に行って社交の輪を広げるのが趣味だった。
三浦が自分の友人達を寮の庭に呼び込んだ。通用門からは、10人弱の若者達が入ってきた。三浦の知人達は「学内にこんな楽しそうな場所が・・・。」と軽く感激した様子であった。院生の赤坂と三浦は、挨拶もそこそこに魚パーティの準備に走っていった。
15分もすると、大上寮の庭は合計30-40人の寮内外の若者達で溢れかえった。
「もう飲み始めてて良いよ。魚はやりたい奴らで捌いて調理しちゃうから。」
軽いおつまみの大皿と飲み物を出して、赤坂達数名は天ぷらや刺身を作りにいそしんだ。
「詩人?」
庄野が三浦に訊き返した。
「そう。ちゃんとプロでメシ食ってるんだぜ。」
三浦が指差したのは、都会にごく普通にいそうな格好をした20代女子だった。その詩人は紙コップから生ビールを飲みつつ、他のグループの会話から抜け出て大皿からおつまみを取っているところだった。
「須藤さん!これ俺の友達の庄野っていうの。東大卒東大卒!頭良い!」
「ちょっと・・・。」
流石にそこまで雑な紹介は困るので、庄野は三浦を軽く静止する仕草をした。大体、それなりに教養のある相手ならば反応に困る。
「ごめんごめん。」
「庄野さん、ですか?どうも、お邪魔してます。よろしくお願いします。」
須藤と呼ばれた詩人は一礼した。
「よろしくお願いします。え、本当に詩人なんですか。」
興味がある相手には思考回路をそのまま出力してしまうのは、庄野にはよくある事だった。
「そうですね、詩人と名乗らせていただいております。一応お仕事で何とかやらせていただいてます。」
「早稲田在学時代から色んなイベントに引っ張りだこで、詩集も出してるんだぜ。自費出版じゃなくて。」
「へえ・・・。」
庄野には、素直に須藤への感心の念が湧き上がってきた。三浦は、魚の天ぷらを揚げている最中だったのか、思い出したようにダッシュで調理場に戻っていた。
「凄いですね。まさに文化人じゃないですか。」
「いえいえとんでもないんです。」
須藤は慌てて恥ずかしそうな手振りをとった。
「淡々と詩を書き続けているだけですし、将来の保証は何も無いですから・・・。」
「詩に関わる事の喜びって、何ですか?」
庄野は唐突で素朴すぎるかもしれない質問を須藤にぶつけてみた。
「関わる喜び?そうですね・・・。」
須藤は真面目そうに下を向いて考えた。
「詩を書く他の人も含めて、表現をされる色んな人に会えるのも好きかもしれません。人見知りなので、毎回結構な勇気が要るんですけど。」
東京から来たという女性詩人はどこか牧歌的な仕草を見せていた。たまに寮の木造の建物や庭を眺めまわしては、笑顔になっていた。庄野にとって、都会に住んでいてこういう性格の人物には顔立ちや身体の骨格に特徴がある気がしていた。細めのこじんまりとした骨格で、ある程度の運動と健康的な食事をし、身なりや化粧を簡素かつ清潔感のあるものに整え、普段はどうか知らないがこういった社交場ではそこそこ明るく振る舞う事が出来る。そしてどこか牧歌的である。
「大学院では何をされているんですか?」
須藤は自然な笑顔を作ると、庄野に笑いかけた。
「生物学の、科学哲学です。」
「科学の哲学!何だか面白そうですね!」
女性詩人の無邪気そうなその言い方は、嫌な後味を残す事が無さそうな、さらりとしたものだった。
「気になってしょうがないんです。僕は生物学の発展をどう捉えるかという事が。」
庄野は考えて話をしたい時に、人の目を見て話をするのが苦手だった。思わず、詩人から一瞬目を逸らした。目に入ったのは庭の生垣と、さらに大学の外壁の向こうに立つ電柱だった。電柱から伸びている電線の連なりは、惑う視界に幾何学的なパターンを作り出した。
須藤は、ビールを紙コップからぐっと一口あおった。その拍子に、肩上ほどまである小綺麗な髪先が少し、コップの中の飲みかけのビールに入った。
「あらっ。」
須藤は慌てて、その髪先が服に付かないように髪先を指で捕らえた。
「あー、やってしまいました。」
「あらら。ティッシュ、確かその辺にありますよ。」
庄野が自分の後ろのテーブルを見ると、ティッシュ箱があった。取ってすぐさま須藤に渡すと、須藤がささっと何枚か取って髪先に当てた。
「まあ、ビールの味がする髪先っていうのも良いかもしれませんね。あはは。」
須藤がさらっと冗談を言ったので庄野もつられて笑った。
「科学は無力です。正確には、現代の科学者コミュニティはある意味無力なんです。」
庄野
「一部の役立つ技術には貢献しているけれど、もっと根本的で重要な問い、例えば、我々人間とは何なのか・・・、我々はどう生きていくべきか・・・、という事に回答出来る雰囲気が全くないんです。」
「はー。それだけ聞くときちんとは分からないけど、壮大な話ですね。『我々はどう生きていくべきか』は、科学の範疇に留まらないすごく大きなクエスチョンなんでしょうね。私のやっている事にだって関係ある気がします。」
須藤の語気は、かすかに温度を上げていた。
「あ、きちんと自己紹介していませんでしたね。」
急に須藤は気がついて庄野に向き直って一礼した。
「須藤美沙と申します。詩人をやっております。」
須藤は続けて他にも色々とプロフィールを喋った。須藤は庄野と同じ2027年生まれで24歳らしかった。
こうした空気感にまた牧歌的なものを感じずにはいられなかった。庄野が好きな大上寮に吹いている人間的な風と、少しは違うが、似たようなものが感じられた。
庄野はふと、須藤が醸し出す牧歌性がどこから湧いてくるのか不思議に感じた。東京近郊の良家の子女なら多少は牧歌的なのを理解出来なくはない。しかし、須藤は大学進学で札幌から上京したと言った。
人口減少に伴って、昔と違い地方から東京の大学に出てくる人はそもそも珍しかった。東京出身の庄野には地方出身の人と会った体験が少なく、いまいち田舎がどういったものか想像できなかった。大上寮には地方出身の人達も居るが、癖のある人間ばかりが集まってくるので平均的なサンプルとしては扱いづらい。もちろん、庄野はそういった寮の環境が好きで住んでいたのだが。
都内の大学で今時牧歌的な空気が漂う場所はかなり限られているだろう。早稲田出身といったが、今の早稲田にそんな空気感はあっただろうか。単に須藤本人の資質がそうさせているのか。それとも「地方」で何かの体験を経たからなのか。
「詩に何が出来るんでしょうか。」
庄野は礼儀正しい言葉選びも得意ではなかった。気にせず、思いきって問いかけてしまった。須藤は真顔になり、庄野を見とめた。
「えっと、どういう事ですか?」
須藤の小さな球体のイヤリングが、ふるっと早い周期で揺れた。
「何が出来るって・・・それは、うーん、色々だと思いますが・・・。」
須藤は、ほどよくグロスの乗ったツヤのあるくちびるを、むむと顔で抱え込んだ。質問の意味を捉えかねた顔だろうか。
「私の詩が、社会に対して何をするかっていう事?」
「そう、ですね。」
庄野は衝動的にした自分の質問の行く末に一瞬不安になったが、なるべく察せられないように堂々としていた。
「詩を読む、という行為についてなんですが、」
須藤のまなざしは、自然で見る小川のせせらぎみたいに透き通って、しかし冷たくはなかった。
「自分の詩を読んでもらう時って、読む人がどんな生活をして、誰と一緒にいて、どんなお仕事をしていて、どんな場所で読むのか、誰しも境遇が違うはずなんですよね。」
須藤は、ビールの紙コップを持っていない方の右手で手振りを添えた。
「境遇が違えばまた違った読み方になるはずなので、それだけ詩の言葉が豊かになってくれると私は嬉しい。」
須藤は庄野の眼を真っ直ぐに見た。顔を少し上げた時、髪はそよ風に吹かれる心地よい植物のように、ふっと揺れた。
「誰しも日常の中で、誰かを癒したり傷つけたりする事があります。私は、傷ついたときに、そこに月がある事によってほっとした経験があるんですよね。私はお月様のようでありたいっていう気持ちはあるんです。」
須藤は紙コップをテーブルに置いた。新しいコップを取ると、用意されていた水を注ぎ始めた。
「月だって、太陽が出した光を反射して見えている訳ですよね。」
須藤は、コップの中の冷たい水を口にした。
「勿論自分が表現したいものもありますが、人がこれまでに私に与えてくれた言葉や光、音やイメージ・・そういったものを私なりに反射する。それを書く。それが出来るだけ遠くへ届くように。多くの境遇の人に見てもらえるように、書いていきたい。」
「そう、ですか・・・。ありがとうございます。」
庄野は、ほとばしるというか、湧き水のようなエネルギーを感じる人間に会ったのは久しぶりだった。
「いえいえそんな。答えになってるんでしょうか。私は学生以来、色んな詩に触れたり、その書き手の方にお会いする機会に恵まれる事があるのですが、」
須藤は下を見ながら、黒い皮のブーツのかかとを上げて、大上寮の庭の砂利の上に静かに戻した。
「私は、作り手の背景にある人生の厳粛さや、切実さといった強い感情を鮮やかに伝える作品が見たい。そして出来るならその作り手に会いたい。」
何かの意志、そういうものを感じる目つきを須藤が見せた。どこか心地よい硬さが、庄野の眼に映った。
「詩より科学哲学の方が役に立たないんじゃないの!」
院生仲間の赤坂が、後ろからジョッキ片手に割って入ってきた。少し赤ら顔になっていた。
「魚は?」
「今もう揚げ終わる最中。」
「お、見たいな。」
庄野は須藤にすいませんと言って席を外し、調理場へ向かった。
調理場に行ってみると三浦が新鮮な魚の天ぷらを続々と揚げているところだった。芳醇な香りが調理場に漂っている。三浦が、揚げながら上機嫌で話しかけてきた。
「さっきのあの人とまあまあ話してた?4年前に◯◯賞に選出されてるんだよな。見た感じどこにでもいそうな同年代女子だけど、普通にやべーよ。」
「◯◯賞・・。」
庄野は感心しつつも、うまく反応は出来なかった。同じ年の自分も「何者か」ではないかと、根拠の無い対抗意識が湧いてきたからだった。・・・無論、それは空想に過ぎない。
「三浦、飲みながら揚げてるの?ちょっと危なくない?」
赤坂が少し不安そうに顔をしかめた。
「バレたか。変わってくれ。」
三浦は自分のコップを取ると、庄野と宴会に戻った。
須藤は、もう他のグループに混ざっているようだった。
「あー他のグループと話せてるようだね。なら良かった。」
「あれも三浦の知り合い?」
庄野は少し離れた場所で立ち飲みをしている別のグループを指差した。
「ああそう。琉球独立運動の活動家達。文字通り沖縄や奄美を日本から独立させたいらしい。」
「え、独立・・・?」
急に出てきた言葉に少し反応が遅れた。独立?琉球?庄野にとって、沖縄といえば観光地か米軍基地のイメージしかない。
「彼らは、今日わざわざ沖縄とかからここに来たの?」
「前から結構頻繁に来てるよ。奄大、あ、奄美にある奄美市立大学とは学長レベルでの繋がりがあるらしいから。話してみたら割と面白かったんだよね。今は大学祭の実行委員と盛り上がってるみたい。あっちも新しい大学だしね。」
奄美市立大学は、8年前に新設された奄美群島初の大学であった。三浦によれば、若い思想家の活動拠点になっているらしかった。
『日本の中心ではなく、周縁にこそ国家としての本質がある。』
そういって琉球独立運動の活動家の一部は、琉球にこそ日本の本質がある、と唱えているらしかった。
一応パーティとしてはお開きになった。学祭に来ていた三浦の友人達が帰った後、寮生達は、酒屋で買ってきたちょっと良いバーボンウイスキーをテーブルに置き、和気藹々とグラスを傾けながらお喋りを続けた。
「周縁にこそ国家としての本質があるって、どういう哲学?」
庄野が三浦に訊いた。こういう話題に詳しいイメージがあった。
「多分オリジナルじゃないかな。でも多分ナショナリズムに影響を与えたヘーゲルやシュミットとかの話が元になってると思ってる。」
「は、はあ・・・。」
全然知らない名前が登場して少し気が引けた。思想家の名前だろうか。。
「要するに、他者である外国と対決的に向き合う事が国家を国家たらしめていて、それを介して他者に対する意識を内面化する人間が、人間たらしめられるという思想。」
「なので、グローバル化によって国家の存在が相対的に希薄になると、世界政治から他者性が失われた結果、人間が人間でなくなっていくっていう考えがある。」
社会学専攻の三浦が首を左右に独特なリズムで揺らしながら、右手でウイスキーのグラスを傾けた。中に入っている氷がグラスに当たってカラン、と鳴った。要するに、どこか変人と分かる奇妙な仕草だった。
「まあ、人間の存在が国家を前提に規定される事自体が本当に正しいのか、という問題があって、まあそれを肯定すれば結構ナショナリズムっぽい話になってくる。」
「外国との境界線は国家の必要条件だから、そう思ってるんじゃない?結局、国の中心に居るよりも、常に強く外国を意識させられる場所だから。領土や米軍基地の問題に晒されてきたからな。」
「へえ。」
何となく聞いていたが、分かるような、分からないような。いや、分からない寄りではあった。三浦が早口で喋ったのもあって、庄野はすぐには吸収出来なかった。
「そういやこの間思想家の東浩紀がテレビに一瞬出てたよ。そういう系の話に関わりあるんじゃなかったっけ。まだ生きてるんだな。80歳くらい?」
「そのくらいだと思う。うん。」
三浦は一旦ウイスキーのグラスを洋風のテーブルに置いた。酔い過ぎないためにピッチャーの水を別のグラスに注ぎ、何度かぐっと喉に注いだ。
「・・・でも、新しい国家の独立については、哲学的な議論はこれまでにあまり無いんじゃないかな。既存の、少なくとも21世紀初頭までの政治哲学者は、個人が集まって市民社会が出来ると国家の原型は既にあるという、少し曖昧な前提を置いている気がする。」
「・・・なんか難しそう。」
庄野は野暮ったい声を出した。
「頑張りたまえ!それでもインテリの端くれか?いや、東大卒の人間に言うのもおかしい話な気がするが。」
酔って気分が良くなった三浦は、たまに映画で見たような昭和風の話し方を冗談でするのが好きだった。グラスをテーブルに置き、庄野を教師のように指差して胸を張った。
「我々インテリの自覚とかそんなに無いんだけど・・・。」
「大学入試で結構勝ち抜いておいてそんなものなのかね?」
「そうだね。」
「そうだ!三浦をやっちまえ!」
赤坂が適当に横から庄野に賛同した。
「しかし赤坂殿、全国的に見てみろよ。優秀な学生をこんなに濃縮できてる場所は旧帝大を除いて恐らくないぞ。しかもカスみたいな卒論では絶対に卒業させない。出来るだけ学生の持つ切実さが現れる卒論を提出させる。」
三浦は今度は赤坂に標的を向けた。庄野も横から発言した。
「そういう話聞くけど、大学とマッチングしない学生は苦労しそうだね。」
「ほんまそれ。俺は苦労したんだよ。」
赤坂が眼鏡を外し、目を擦った。庄野は思わず少し笑った。
「教員とそりが合わないと厳しいものがある。多分いつの時代でもあるあるなんだよな。くそ・・・。」
庄野は赤坂を気の毒に思いつつも笑った。
「で、何だっけ?独立って、うーん・・・、試論としては面白いのかな。財源はどうするつもりなんだろう。」
「『試論としては面白い』ていう発想もインテリらしくて良いぞ。普通は、反対する向きが多いだろ。」
三浦はまさかカッコつけたかった訳ではあるまいが、立ち上がると、軽く伸びをしてから数歩、庭の草とその間に散っている砂利の上を歩いた。三浦の茶色いズボンは、入寮時から履いているものらしい。三浦はスボンから出た足に季節外れの青のビーチサンダルを履いており、歩くとざっざっ、と砂利の音が立った。三浦の後ろには、庭のもっと向こうに、大学の建物が望まれた。モダンなデザインを、晩秋の銀杏の木々が引き立てるように、風情良く揺れていた。
「そもそも琉球が日本から独立するモチベーションがよく分からないんだけど。切実な理由があるの?」
「日本という国全体のために基地を押し付けられてきたという意識と、歴史的事実からくるアイデンティティじゃないかな。日本人じゃないっていう意識は、その両者が相まって強くなっている。」
「独立したとして、産業はやっぱり観光なのかな。まさか農業でやっていくのは無理だよね。」
「観光だったはず。最近奄美は観光戦略がうまくいってるので有名。」
「でも、東アジアの新興国になった挙句は、中国からの侵略が危惧されるんだが。」
「主流派は、琉球とアメリカで『琉米安保条約』を締結して凌ぐつもりらしい。」
「えぇ・・・。うーん・・・。」
赤坂は驚きの呻き声を出し、しばし黙った。足元では、たまに落ち葉が風に吹かれて地面から浮いていた。赤坂は紙コップに入ったビールの白い泡をすっと啜った。
東アジア情勢は2020年代にアメリカ主導で始まった『インド太平洋戦略構想』を受けて、紆余曲折を経て2040年代から若干変化の兆しを見せてはいた。中国共産党の影響力拡大の流れに対抗するための策だった。逆にいえば、これまで世界情勢は膠着状態にあった。
足元で浮く数枚の落ち葉の動きを眺めたあと、赤坂が再び口を開いた。
「でもアメリカは前から海外への軍事的干渉?コミットメント?は縮小させてるところじゃなかった?『世界の警察官』の役割は徐々に放棄するぞ、みたいな。」
「そうなんだよ!だから、琉球に米軍が今までみたいに駐留し続けるのもかなり不透明な線になってくるんじゃないかなあ。」
「中国共産党からすれば、琉球が独立すれば、尖閣諸島を巡って日本という大国と揉めなくても、琉球という新興の弱小国家に言うこと聞かせるだけで太平洋にアクセス出来るようになるから、それはデカそう。適当な理由つけて後押しするんじゃない?」
「それはあり得ると思う。」
「奄美の観光業の隆盛は凄まじいんだよね。かなり儲かってて景気が良くて、島民の平均収入も普通の離島よりだいぶ高くなってるって話。」
琉球地域の中でも、特に近年の奄美群島の観光業は独自に急速な発展を遂げるとともに、2023年の世界遺産登録と並行して提唱された「奄美学」という思想が席巻して琉球独立運動を後押ししているらしかった。独立運動に関わるとして危険思想視される事もあったが、過去の薩摩藩による奄美での圧政の歴史を持ち出されると、それに真正面からは反論しづらいという。
「今の奄美地域の観光業の要はエコツーリズムっていって、それをVRでがっつりやる事で経済発展を遂げた事で有名なんだよね。」
三浦が話しながら、今度はコンビニのグラタンをスプーンで口に掻っ込んだ。
「VR事業でかなり儲かっているらしい。エコツーリズムをVRするっていう論自体は昔からあったらしいけど、時代が追いついて客を呼べるクオリティになったんだ。使用料と広告料で儲かってる。この間俺も奄美に『行って』来たけど、かなり良かった。」
学園は大上寮に時折投資しており、VR設備を備えた共用部屋があった。
VRは今や社会的にも政治的にも重要なコミュニケーションツールだった。年配の世代はVRの事を単なる新しいゲームや映画の一種だと思っていたが、実態はそれに留まらなかった。昔のインスタグラムのライブのように、個人が端末からVRライブを行えるようになっており、SNSでVRが「拡散」されるのが日常だった。体験を生々しく共有出来るようになった事で紛争地帯の悲惨さや抗議デモへの共感が以前よりも遥かに増した。それを実現させたVR実業家が、今のこの学園の理事長だった。
過去にインターネットやスマートフォンを使えない世代が若者に馬鹿にされたように、今やVRを単なるゲームだと思っている世代も、若者から馬鹿にされていた。
「いやすげーよ。原生林の鬱蒼とした感じ、植物の感じが原始時代以前を想像に訴えかけてくるよ。」
「へえ。でも奄美はそういうので他の地域と差別化出来てるの?」
庄野はTシャツの下で、ごぞごぞと腹を掻いた。
「何か気候が特殊だから珍しいのかな?」
「生物種の多さとか景色の極端な鮮やかさだけなら熱帯とかに勝てないけど、色んな自然史や人類史をリンクさせた統一的な世界観が良かったな。あ、奄美の気候は亜熱帯ね。日本だけど有史以来、複数の文化の交差点だし、そういう歴史的履歴が適度に保存されているという条件が良いみたいだね。日本の他の土地のVRだと単にキレイな光景を見せて終わり、ていうのが多かったから、ちゃんとストーリーがあるという点で差別化されてたね。ダークツーリズムとかだとストーリーがちゃんとある例が多いけど。」
「ストーリーねぇ・・・へえ。」
「しかも南国結構好きだからこういう話調べちゃう。ああ、白い砂浜と美女が画面の向こうから僕を誘惑してくる・・・。」
「はは、そういう低次元な話に帰着するとは思わなかった。」
「海はぁ、島本体じゃないですから。陸地こそが、島ですから。海はぁ、外部と島を区切る境界でしかないんですよ。島ぁ。」
「ん・・・?」
三浦と庄野は、赤坂の揺れた声に振り返った。赤ら顔でニヤついていた。
「・・・赤坂、大丈夫?」
「島ぁ。」
赤坂は生物専攻でかつ島好きだった。ちょうど先週も、小笠原諸島での調査から帰ってきたばかりだった。
「良いじゃん赤坂。もしかしたら島でも、境界にこそ、海の浅瀬?磯にこそ本質があるかもしれないじゃない?」
三浦が自分でそう言って笑った。
「島っ島っ島っ島っ島っ島っ。島っ島っ島っ島っ島っ島っ。」
赤坂は声高に奇声を発すると、唇に付いたビールの泡をベロリと舐めた。そしてまるで港に停泊する小さな漁船のように、身体をゆっくりと椅子の上で揺らし始めた。
「完全に酔っ払ってるな。誰かどっかの部屋で寝かせてきてよ。」
「あぱっ、あぱっあぱっあぱっ。あぱっあぱっあぱっ、あぱっ。」
赤坂は顔立ちがよく人当たりも良かったので、泥酔した状態を知らない女の子にはモテる事もしばしばあった。しかし、泥酔した時には、この始末であった。
赤坂を自室に送り届けようとしたタイミングで、会はお開きになった。
そこから1週間が経った。白塗りの「のっぺらぼう」に関するワイドショーでの進捗は、そのフォルムが20世紀の芸術家・岡本太郎が亡き母に捧げ、神奈川県川崎市に建っている白塗りの彫刻『誇り』のそれに似ている、という指摘であった。その彫刻は、白く細長く空に向かって伸びてゆくフォルムをしていた。『誇り』そのものは清らかな印象を与えるが、事件ののっぺらぼうでは、まるでその輪郭をグロテスクな曲線に描き変えたようだった。岡本太郎記念財団は、それは偶然似ただけで、関連付けは故人に対する冒涜であると抗議した。
地元警察はのっぺらぼう事件を傷害罪で立件可能とみて捜査したが、事件がどんな人物・団体・組織によるものかは未だ全く特定されていなかった。SNS上では、のっぺらぼうが中国共産党による犯行だとする、半ば陰謀論のような言説が流れた。「日本の学問拠点の地理性に対する攻撃だ!」という一部論者のコメントが連日タイムラインを流れた。
以前から一部の人々は、中国の美術政策に対しては不信感を持っていた。GDP世界第一位になった2030-40年代の中国共産党は、以前から批判の対象となっていた表現の自由を一部好意的に演出する事に成功していた。美術活動の産業化と有名美術大学の入試選抜によって、ステレオタイプな「自由らしい」表現を行う職業芸術家達の輩出に成功したのである。結果として、いかにも「現代的」なポップアートやステレオタイプな「反体制」作品が量産された。中国共産党はこれをもってして外交の場で「自由の中国」を謳った。一部の識者はこれを見せかけの自由さだと主張した。しかし大衆には、この話は抽象的過ぎて理解されなかった。
『美術を使った無差別テロ』ーこの言葉には一部の海外メディアも食いついて報じた。しかし、肝心のまともな情報は少なかったため、この事件に対して特に明晰な分析をすぐさま提示出来る人物は現れなかった。複数の有名美術誌が「テロでさえ起こせる美術は、これからどうあるべきなのか」などといった、漠然として答えの無さそうな問いを投げかけるに留まった。民間の美術家団体は、「美術は平和のためにある」などと、事件に対して抗議の意を示したりした。
「うーん、ちょっと寒くなってきたから、中のこたつに行かない?」
翌週の夕方も寮生で小規模に行われた大上寮の庭での飲み会の途中、ふと庄野は秋の涼気が吹いてくるのを肌で強く感じた。庄野は赤坂にそう話しかけると、庭の雑草の上に無造作に置いて座っている洋風の椅子から、立ち上がる仕草を見せた。
「それは良いね。今年初のこたつ、いっちゃいますか!」
赤坂は自分専用のビールジョッキを持って椅子から立ち上がった。赤坂の庭履き用のサンダルが砂利や雑草と擦れる音が、ガサっ、と何度か庭に響いた。
「もうこたつ出てるじゃん。」
赤坂がなんだという風の声を出した。
寮内にある畳の部屋のこたつに居たのは、教養学部2年の女子学生・男子学生と三浦の3人だった。寒がりの三浦は、こたつの中で湯のみに入った白湯とバーボンウイスキーを交互に舐めるというシブい行為に既に興じていた。
「あっ、美味しそうな芋焼酎!頂いて良いんですか?」
庄野が左手に持っていた『茜霧島』のボトルを見るなり、女子学生が喜ばしそうな声を出した。『茜霧島』はまだ半分以上は残っていた。
「お!いいよ。女子って芋焼酎好きだよね~。」
庄野と赤坂がヨイショと腰を下ろすのと同時に、女子学生は嬉しそうにこたつから這い出ると、隣の部屋の冷凍庫からグラスに氷を一つ一つ取った。その手の中にある100均の透明なロックグラスがカランカランと立てる音が、部屋の中に充満する秋の冷えた空気を伝わって、こたつ部屋まで響いた。
「昔の平成の女子はむしろあんまり芋焼酎飲まなかったって、親父から聞いたな。」
三浦はそう言いながらコンビニのチョコレートを開けると、一粒食べてから、湯のみを傾けてバーボンウイスキーを一口、ずずと音を立てて舐めた。
「まあ、もう令和33年だし、完全に過去の話だけど。」
「この場には令和生まれの人間しか居ないよね。」
庄野は『茜霧島』のふたを回して開けると、女子学生が持って来たグラスにばしゃばしゃと目一杯まで注いだ。
「流石に寮で平成生まれは見なくなったよね。」
「ちょっと!大分注ぎましたね~。丁重にいただきます!」
「佐野さんは特殊な肝臓をしてるからな。」
「アルハラじゃないですか~!」
佐野と呼ばれた女子学生は甲高い声を出すと、着ている半纏の袖から腕を伸ばし、こたつの上に載った芋焼酎のロックを引き寄せてずずっ、と啜った。
「タバコは?」
「いただきます。」
「僕も欲しいです!」
こたつに入った男子学生が手を挙げた。
「全然いいよ。」
庄野はタバコの箱とライターを懐から出し、佐野と男子学生に一本ずつ渡した。2050年代には、日本の喫煙者は1割以下になっていた。国産のタバコは一箱850円にまで値上がりし、近年はベトナム製の「第3のタバコ」が安く流通し始めていた。庄野は自分のタバコに火をつけると、拍子よく佐野にライターを投げ渡した。
「日本最新にして最後の自治寮だからな。学生が学内で酒飲んでタバコ吸ってたむろう光景は、もう多分日本中のどこでも中々見られないよ。」
「別に規則違反をすれば出来るんじゃない。まあハードルは各々の組織にあるだろうけどね。」
「理事長とかは『自由の学風』に幻想を見てるんだろうな。そういうものの最盛期はもう50年位前?」
「あーっ・・・。」と男子学生が言って両眉を近づけ、点けたばかりのタバコから煙を一口素早く吸うと、上向きにふーっと吐いた。畳の部屋で、まるで煙が自由を獲得して喜んだように、優雅なスピードで上の方へ舞い、天井あたりで見えなくなった。
「その辺か、もっとかなり前なんじゃないですかね。そもそもの最初期は第一次世界大戦より前だし。」
「詳しい。」
「自由の学風ね・・・。」
庄野が呟いた。体験した事は勿論ない。
「学生運動とかがある事が『自由の学風』なの?」
佐野が愛嬌豊かに首を傾けて、男子学生に尋ねた。
「必ずしもそうは思わないけど、まあ、結局は昔の『京大』をある程度再現したいんでしょうね。昔の京大の寮みたいにしたいから酒飲んだり喫煙したり出来る部屋を作れって理事長からわざわざ指示があったのは笑えますけど。まあ鉄筋だろうと普通、全面禁煙な時代のはずなんですが・・・。」
「いやー、それにしても、社会に出てない学生で固まって喋ってるだけだよね。」
三浦が唐突に言った。
「なんか、ニヒルだね・・・。」
「前時代的ですらないよね。いやもちろん好きだよ。東大の駒場寮が閉鎖されたのは半世紀前っていうから、我々にとっては古代のリバイバルって感じ?」
『自由の学風』といえば昔の京都大学がそうだったと言われる。今でも京大の広報はしばしばその文言を用いるが、実情は2030年代における学内の自治寮閉鎖から波及して様々な伝統が姿を消し、その学風はもはや消滅したというのが定説だった。そして昔と変わらず国内第二位の運営交付金を受け、単なる東大と阪大の中間的な大学の地位を占める大学になっていた。京大のそういった事態には、主に卒業生やアカデミア業界から長らく失望の声が上がっていた。
そんな今、この学園は、民間の資本によって『自由の学風』を復活させるかもしれないと、密かな期待も集めていた。学園の建物や運営の構想は日本の大学の懐古的なイメージを追求していた。大正時代を思わせる建物のデザインに加え、学生の自治寮を設置した点もそうである。どこかしら東大的で、どこかしら京大的な要素を取り入れているように見られていた。
入学に際して筆記と面接で行う入試は、国内でも厳しいと言われていた。設置された医学部・工学部・理学部・教養学部・法学部・人文学部の6つの学部のうち、医学部を除く5つの学部は定員を定めず、規定の実力ラインを通過したものを合格させる事で偏差値を上げる方針をとった。その結果として1つの学部に100人程度ということも珍しくなかった。その代わり授業料は無料だった。
この大学に入学する学生は、地方進学校出身で大分リベラルな家庭か、裕福でない家庭の出の人間が多かった。入試は2月末の国立大前期日程の後に実施し、入学手続き時に旧帝大の合格証明があれば返還不要の奨学金が簡単に支給されるという、あからさまなやり方で学生を集めていた。大学付近の学生向けアパートの家賃はかなり安かったので、三浦などは学部で北海道大学を蹴って学園の奨学金を得る事で、半ば遊びつつ暮らしていた。
話題は、白塗りののっぺらぼうの話になった。
学園は今回の事件でネガティヴなイメージを植え付けられる痛手を負っていた。当初はのっぺらぼうも学祭の出し物か何かだとも思われたが、そのような出し物は企画していないという事を強調した。学園は被害者である、という報道に落ち着く事を望んでいた。
ここ数日、のっぺらぼうが学生寮に逃げ込んだという説まで持ち上がっていた。学園前大通りで路上での取材に応じた自称政治活動家の男性Nは、学生寮の存在を当初から否定的に捉えていた旨の発言をして、テレビで短く放映されていた。
「あんなものは不毛な交流を生むだけだ。いずれ犯罪の温床になる。」
国内にはこの大学と学生自治寮を危険視する人も一定数居た。学生自治寮が再び過激派左翼の活動拠点になるのではないかという懸念や、特定の資本と結び付いた大学に学問の自由が保障されることは構造的にあり得ない、と言い切る識者もいた。政府は、民間の財源による教育研究拠点の設立に当初はかなり好意的だったが、人材をあからさまに集め、『学問の自由』を強く推し進める近年の態度にはあまり好感を示さなかった。学長を含めた理事会の方針は、「アカデミズムを強化したリベラリズム」を掲げており、政治的な意味合いを比較的明確に打ち出していた。
リベラリズムという言葉は元々多義的である。学園は、特に純粋科学、いわゆる基礎科学を推進していた。「資本主義的な価値に囚われず、この世界の有様を探索して人類の精神的な豊かさに資する純粋科学こそが、価値観の多元化を象徴し、担保するものである。」という声明を出していた。
「そういや佐野さんは白塗りの奴を直に見ちゃったんだっけ?」
「見ました・・・。」
佐野は氷で冷えたロックグラスを小さな手で支えたまま、急に顔を引き攣らせた。その表情に支えられた額にかかる黒い前髪は、先を尖らせて垂れ、緊張したように見えた。
「周りでは人が沢山倒れていました。」
「いやそうだよね。医療崩壊が起きるくらい沢山の人が被害を受けて、まだ立ち直れなくて入院してる人もいるくらいだし。」
「もう学祭なんてやりたくありません。」
佐野はロックグラスを持った。その手が少しだけ、ゆらゆらと震えている。
「開催して欲しくもありません。」
少し様子がおかしい・・・。庄野と赤坂と男子学生は、何も言わずに目を一瞬だけちらっと見合わせた。
「いやでも、学祭のせいでそうなった訳じゃないんだからさ、参加しないのはもちろん全然良いんだけど。開催は別に良いんじゃないかと思うけどな。」
三浦が諭すように佐野に語りかけた。
「あはは。まあまあ。」
トラウマの深刻さを警戒すべきだと感じ始めた庄野は、笑って三浦を牽制した。
そこへ、寮生の一人がスマートフォンを持って、動揺した様子でこたつ部屋に裸足でべたべたっと走って飛び込んできた。
「おい、学祭の被害者が一人死んだぞ!マジか!」
「えっ?」
近くにいた学生達が反応し、軽くざわめいた。手元のスマートフォンでSNSを開くと、のっぺらぼう事件の被害者の一人が、飛び降り自殺したという速報が流れていた。被害者が入院していた病院の窓には自殺防止のための防護柵がついていたが、病院での自殺ではないらしかった。被害者が病院から一時的に帰宅した矢先に、突然近くのビルの屋上から飛び降りてしまったらしかった。
「本気でヤバい事件なのか・・・。」
庄野は呟いた。三浦はスマートフォンの画面をしばらく無言で眺めた。その後、こたつの上にゆっくりと置き、黙ったまま湯のみの中のウイスキーを啜った。
『この事例は強いPTSD (心的外傷後ストレス障害) の症状によるものではないかと考えられます・・・。』
翌日寮の食堂にあるテレビをつけると、ワイドショーのスタジオに招かれた精神科医が前日の被害者の自殺についてそう話していた。いつもはゲームでしか使っていない大きなモニターの前に、寮生達が集まってきた。
『PTSDの症状は幾つかに分類されるんですが、この場合は・・・。』
「PTSD!戦争とか、昔の東日本大震災の話が有名だけど。」
「ていうか、庄野も見たんだろ。何とも無いの?」
「うーん・・・。」
庄野は顔をしかめたものの、自覚は特に無かった。
『学園が狙われているとすれば再発があるのか、そうであればそれを防ぐにはどうするのか、議論が続いています。昨夜、◯◯県警はテロ対策への警備強化を行う事を発表しました。』
そして、ワイドショーの司会者はそこでコーナーを締めくくった。
『犯人にどのような動機があったとしても、許せない事件です。全容解明と、被害者の方々の回復を願っています・・・。』
夕方のニュースになると、子供が強いPTSD症状で今も入院している両親のインタビューと、その子供が遠くでパニックで騒ぎ出す音声が全国に流れた。病気だ、と即座に分かる異常な声色の、ウアーーーーという叫びだった。
「こんなこと絶対あってはならない。私達の子供の一生がこのまま台無しかもしれないんですよ・・・。」
母親は涙を流し、父親は頭を力なく掻きむしった。
「私の父は30年前、2021年のコロナで亡くなったんです。また家族を失うかもしれないと思うと辛すぎる。」
両親の目線は低かった。
「被害者のPTSD治療やその後のケアが最優先ですが、事件の原因究明も必ずやってほしい。」
父親の眼が、カメラの向こうにいるこちらまで捉えるかのように、深く、黒々とモニターの中に浮かんだ。胸に刺さるように切実な、しかし一抹の虚しさを投げかける眼だった。
週明けの火曜日、庄野は大上寮の1階の物置に放置されている机でPCを広げ、修士論文を書いていた。程なくして、途中で飽きて読書を始めた。
物置を含めて、大上寮は扉も廊下もきれいな木造だった。見た目に反して電源やWi-Fiはどの部屋でも使えたので、庄野は気分に応じて、1人になれる物置で作業する事も多かった。物置にも畳が敷かれており、庄野は畳の上で座布団に座って、気ままに本をめくった。
読書の途中、さらに気が散って考え事をしていた。
庄野は学部で生物系の学科を選んだ。しかしDNAや細胞などを直接扱ういわゆる生物学実験という営みが取り組んでみて自分に合わなかった事と、思想としての生物学の発達過程に興味が転じて、修士からは科学哲学の専攻を選んだ。
やがて庄野は本を畳の上に投げ出し、身体をずらすと座布団に頭を載せて寝転がった。平日の寮内はしんとしている。物置の扉の向こうは、開けはなつと外の景色と音がしんと明るく入ってくる造りになっていた。秋空の遠くで、鳥の鳴き声が霞んで聞こえる。秋の山々を飛び回って、果実を食べているのだろうか。大上寮の裏手は山になっており、紅葉が色づいていた。
生物学、とりわけその中でもいわゆるバイオ系は、2051年現在、かなり「成熟」しているように見られていた。iPS細胞から臓器を作って患者に移植するという再生医療と呼ばれる試みは幾つも成功し、個人向けの迅速な臓器生産のためのプラットフォームもほぼ整いつつあった。2030年代に、心臓・肝臓・腎臓・脾臓・胃の再生に関する臨床応用が立て続けに成功した。心臓の再生法を確立した中国の研究者は2042年に若くしてノーベル医学・生理学賞を受賞した。庄野達が中学生だった頃の話である。
臨床応用が飛躍的に成功し、逆に純粋科学としては宙ぶらりんな状態に追い込まれていた。細かい技術的課題はあるようだったが、基本的に再生のための「タネ」として特定の構造をとった細胞塊を試験管の中で培養して体内に埋め込めば、あとはひとりでに臓器が再生するという一連の手法が成功していた。
別に子宮の中での臓器の発生過程をわざわざ逐一再現する必要は無かったし、そういう事情であれば純粋科学以外の分野では「本来の」過程について知ったり再現したりする理由はあまりない。それは、自然現象の根本原理を追求する学問である純粋科学としてはある意味退屈だった。業界の科学者達は純粋科学の発展に支えられて臨床医学が進歩するという前提に依存して科学技術研究費の予算をとってきた面もあったのだが、完全に肩透かしを食らっていた。同時にそんな分野は国の予算の採択率も同時に落ち、失速しているという他なかった。
静まり返った大上寮の庭は、秋に色づいていた。遠くの方に、キャンパスの道を彩る銀杏の木々が見える。放射状に作られた都市に、東大をある程度真似て植えられた銀杏の木々があるキャンパスがあるのは、少し可笑しかった。
純粋科学に携わる者は、その価値を議論する必要性に21世紀初頭以上に迫られていた。いずれ「役に立つ」から、税金を投じて純粋科学も推進するべきではなかったのか。少なくともその論理は、純粋科学の中のバイオ系では30年前に比べて成立しなくなっていた。無論、世間一般には気付かれる事すらない問題だった。
その時、庭の隅で何かが動く感覚を覚えた。庄野は寝転がったまま顔をそちらに向けた。そっと、落ち葉を踏む足音がする。
「・・・須藤さん!」
庭の隅にある小さな裏口に、女性詩人の須藤が立っていた。庄野は驚いて畳から身体を起こした。
「あ、庄野さんですよね。どうも。」
須藤が、秋色に染まった庭の落ち葉を踏みながら、こちらに歩いてきた。庄野は畳の上に立ち上がった。
「ここって部外者が勝手に入ってきても別に問題ないんですよね?」
庄野は物置から、縁側の板間に裸足で出てきた。
「オフィシャルには知りませんが、一般的に騒ぎとか盗みを起こすとかじゃなければ大丈夫なはずですよ。あとは国家権力とかじゃなければ。」
「あはは。大丈夫なはずです。」
須藤の服装は東京ではごく普通に見る20代女性のものだったが、地方都市ではあまり見かけないため都会を意識させた。特に、大上寮の敷地では目立った。
「私、最近この街に住んでるんですよ。」
「えっそうなんですか!?」
庄野は両眉を上げた。
「この辺に移ってくる創作系の人割と多いんですよ。自然が豊かだし、先進的な考えが多い土地だし。新しい事をやろうっていう人には評判が良いんです。」
「そうですよね。確かに聞く気がします。へー、それにしても。」
「あ、同年代だったんですよね、タメ口で良いよね。」
「あ、そうですね。」
須藤は、軽く伸びをして深呼吸をした。空気がおいしいというように、気持ち良さそうに笑顔になると、体勢を戻して庭の砂利の上をゆっくり歩いた。
「この地域、自然が良いんだよね。レンタカーで少し廻ってみたけれど、森林、そして清らかな川・・・。まるでバイオリンのG線から旋律が駆けるように美しいし、厳かだなと思うな。」
この都市は山々に囲まれており、少し盆地のような気候だった。
「この寮は雰囲気があってとても良い。つい入って来ちゃった・・・。」
「有名人だし、住所特定されるのには気を付けた方が良いと思う。」
「本当その通りなのよ。一応名が売れてるし・・・。自分で言うのは大分おかしいわね。」
二人はしばらく話をした。
「科学者の中国・インドへの流出が前から問題視されてるけど、どう思ってるの?将来行く事とかがあるとかは。」
「自分は・・・この国のアカデミアの伝統を愛しているんだよね。」
庄野は気恥ずかしそうに頭を左手で掻いた。
「だから、僕には日本で研究と教育を行う事が重要だと思う。職が見つかる可能性は自ずと低くなるけど。」
「へー・・・。」
二人の少し上、寮の屋根の上を、ゆるやかな風が吹いていく音がした。須藤は庄野に反応しながら、ふと空を見上げた。雲がちぎれちぎれになって、快晴に近い秋空の青みを際立たせていた。須藤の後ろ髪のあたりにもゆるい風が通り過ぎた。落ち葉が悦んで飛んでいきそうな勢いの風に、須藤の後ろ髪が軽く掴まれたように舞い上がった。須藤は髪を左手で押さえると数回瞬きをし、再び庄野の方を向いた。
「うーん、詩人にはそういうのは特に無いんだよね。もちろん詩は日本語で書くし、日本は感性の源流として大事な存在ではあるんだけど。詩人が海外で仕事をしても、それが人材流出だとは多分思わない気がする。コミュニティみたいなものの伝統を守らなくちゃいけないという状況には無いかも。」
「それに、学問、特に純粋科学、そして学問の自由は、国の豊かさの象徴だと思っているから。」
「少なくとも資本主義の国の話?」
「そう、だね。」
「ふーん・・・・。なるほどねえ。」
「でも、付け焼き刃の知識で申し訳無いんだけど、そういう科学の発展みたいなのってここ100年ちょっとの話じゃなかったのかしら。」
「うーん・・・まあ、多分そうだけど。」
「庄野くんが言うような豊かさってちゃんとはっきりしたものなの?我ながら全然詩人らしくないコメントなのかもしれないけど。」
須藤は難しそうな表情で少しだけ眉をひそめた後、顔の緊張を解いて少し笑った。
「庄野君が言う豊かさというのは、何なんだろう?・・・希望があるという事かしら。」
「え?」
希望がある?庄野は質問の意図を掴みかねた。一瞬、庭の外に見える遠くの電線が目に映った。そして須藤に視線が戻った。
「・・・まあ、そう、そうなるのかな?」
「希望が無い豊かさは存在しない、という事になるのかな。」
希望、という言葉には庄野は馴染みがなかった。少なくとも科学で扱われてはいない気がした。哲学でも登場したのをお目にかかった事は無い。希望などという概念が出てくるのは、文学か?社会学か?・・・それとも宗教だろうか・・・?
「あ、ごめん。」
庄野の反応が鈍くなったのに気付いたのか、須藤は立つ体勢を少し変えながら他の言葉を考えている様子だった。
「今豊かさが『ちゃんとした』と言ったのは、理論化されたものかどうかという意味?」
「そんな感じかなあ。理論化というか、本当に確かに存在するものなのかという事。」
須藤がゆったりと身体を少し傾け、それに伴って、緑色のスカートの端が円状に波打ってわずかに浮き上がった。大上寮の庭に確かに存在する秋の大気が、視覚的にかき分けられたように感じた。
「科学者や哲学者にとっての個人的成功は、理論の普遍性・一般性などを介して思想的な牽引が出来ているかという事にあると思う。技術者とは違う気がする・・・。」
庄野は癖のように両足を交互に動かし、縁側の板間を前後に動いた。腕を組み、下を向いて呟いた。
「そうなんだね。あ、座って良い?この場所。」
須藤が縁側の板間を指差した。
「あ、全然良いよ。どうぞどうぞ、立ち話でごめん。椅子があるよ。」
庄野は、すぐ近くの倉庫から飲み会に使う洋風の椅子を出した。
「ごめんごめん。そんな、良いのに。出た、この椅子。和洋折衷は笑っちゃうんだよな~。」
須藤はニコっと聞こえそうなくらいの笑顔を作った。
「何の話だっけ。あ、そう、純粋科学によって世界を探索して理解していくべきだとするのは、本来は政治とは遠い関係にあるものだと思う。」
「そうなの。でもノーベル賞とかは、国の威信をかけたりするんじゃない。それは政治的なんじゃないの。それに技術にも役に立ってるイメージはあるんだけど。」
須藤はまた困り顔を作った。
「ノーベル賞は確かにそうかも・・・。相変わらず政策としてもやたらと革新的なイノベーションを推進するし。」
須藤の追求は、随所でやたら鋭利だった。頭の切れ味なのか、教養が豊かなのか。
ここ20年は日本人のノーベル賞が殆ど出ていなかった。海外に帰化した日本人の受賞を躍起になって報道するしかなくなっていた。
そこからはぶつ切りの、複数の話をした。
「目先の利益に役に立つかどうかで研究への資金援助を選別するのって、人間に対する優生思想を、研究という概念的な世界に持ち込んだとも言えると考えてる。」
庄野はそう口にした。
「優生思想って・・・昔のナチスみたいな考えってこと?」
「正にそう。ナチスが障害者やユダヤ人を「安楽死」させたりした時の。役に立たない研究と研究者人生を、安楽死させてるんだよね。」
「『学問の自由』って他人のお金で守るものなの?それとも自分のお金?」
「税金で得られた学問的価値は還元されているからね。まあでも、自分のお金と人材戦略があれば守れる、ていうのは、今のところこの学園限定のやり方ではあると思う。資本主義の恩恵をバッチリ受けてるね。」
「学問や芸術を実践する人のポケットマネーで自分に投資してやっていくのは普通は全く現実的じゃないし、その成果は一人だけで独占してもあんまり意味はない。学問や芸術って本来は国の財産だったんだと思う。それを介して人類の財産だった。それが、この学園では国から民間に移行してるだけなのかも。」
「豊かさって、多様性をどのくらい保持しておけるかという余裕の事だと思う。何がいつどんな形で役に立つかなんて誰にも分からない。分かると思い込んでる人達は国のどこかにはいるみたいだけど、自分を含めた科学者はそうじゃないと思ってる。」
「学問の豊かさって事ね。」
「いやもっと、人類の、精神的な豊かさだと思う。我々が個人レベルでどう生きるべきかとか、多様性の肯定とかにつながると思う。」
「この間の庄野くんの質問の事、しばらく考えてたんだよね。」
須藤が庄野の眼を見た。
「質問?」
「詩に何が出来るのかっていう質問。」
「ああ!そうだった。」
庄野は思い出した。
「あの後思い出した事があって、本を見返してたりしたんだよね。そしたら、良い言葉があったの。詩人の渡邊十絲子さん曰く、『詩とは、日常の秩序にゆさぶりをかけ、わたしたちの意識に未体験の局面をもたらす、ただそのような作用をすればじゅうぶんなものだ。人間社会の秩序から見れば意味や価値の無いことを考えたり、ひととはちがうことをしたりすることは、実はみんなが思っているよりもずっとずっと大事なことだ。』、と。」
須藤は遠くの空を眺めた。秋空に少しだけ雲がかかって、鴉が数羽、森に向かって飛んでいく情景。
「本当はそのくらい力強く、勇気を持って言い切る言葉が良かったなと思って。目先の利益に役に立たない事を責めるような事、この社会には溢れてるけど、あたふた言い訳を考えるのは本末転倒だなって。あ、もちろん、流石に庄野くんが私を責めようとしてないのは分かるよ。」
須藤が屈託無く笑った。その仕草とともに、肩まである髪が合わせて揺れた。
我々は、人間が人間らしく生きるならば、本当の共感が欲しいのだ。他人の注意を惹きつけるための単なるテクニックではなく、溶け合うような心の共鳴が。それが得られた時、全身をお風呂で温めるような、心地よい感覚に包まれるのだ。
「お腹が空いてきた。」
庄野がふと呟いた。須藤は手首を上げて腕時計をちらりと見た。
いつの間にか橙色の夕日が大上寮の庭に差し、煌々と2人の全身を照らしていた。時計は17時半を指していた。秋分の日を過ぎて、日が暮れていく時間だった。衝撃的な事件で騒然とした日々とは対照的に、常に変わらぬ、心のどこかで保存されている澄み切った暖かい景色。
庄野には、暗くなり始めた空の奥深くに伸びてゆく、夕日の刺すような輝きが、永遠のものに感じられた。
「すき焼きとかどうですか?」
唐突に切り出した庄野に、須藤はなぜか吹き出した。
「良いと思う!」
・・・。
大上寮の通用門を出た大上通りの商店街の中に、学生達がよく行くすき焼き屋兼居酒屋があった。高級な専門店ではなく、居酒屋で学生でも気軽に食べられる値段で提供されるすき焼きが名物だった。高級店のように個室ではなく、庶民的な広い畳の座敷があり、机ごとに分かれて食べる方式になっていた。庄野と須藤は、店員に通された机で、向かい合って座布団に腰を下ろした。使う古されたガラスのコップに入った水が出てきてから、何となくテレビの音に振り返ると、天井から吊り下げられたテレビでワイドショーが点いていた。
ちょうどそのワイドショーでは、白塗りののっぺらぼうの出現と消滅に焦点が移ったところだった。曰く、誰もその2つの瞬間を見ていないらしかった。そもそも大通りを走っている途中の様子すら、目撃者によってかなり記憶が違った。さらに輪をかけるように、出現や消滅に関しては、見てもいないのに想像で補って話そうとする者が沢山居るようだった。
「最近私は、希望に興味があるの。」
ワイドショーの話題が他に移ってから、須藤は口を開いた。
「私達は長らく、ユートピアが無い時代に生きているんだと思う。100年くらい前だったら、貧乏でも一生懸命働けば中流階級にあれて、家庭を持って家を買えて、子供を学校に通わせられるっていう夢があった。欧州の一部では、資本主義を倒して社会主義を実現すれば、良い社会が訪れるという夢が存在してた。でも20世紀の終わり頃になると、もう60年くらい前だけど、オルタナティヴなものを信じて、その実現に夢をかけるという思考が色んな経緯で打撃を受けてきたことで、思考そのものが社会から消えて無くなってしまったみたい。」
須藤は冷えたビールジョッキから、生ビールを少し飲んだ。
「幸福は、希望とは違うものだと思う。幸福は維持したいものだけど、希望は変化を求めるもの。それに、まだ存在しないものの存在を信じるっていう側面があると思ってて。」
「うーん、まあ言われてみたらそうかもしれない。なるほど。」
庄野は相槌を打った。
「ユートピアのない時代は、人々から想像力、イマジネーションを奪ってしまったんじゃないかと思っているの。問題に立ち向かって、認識して、解決に向かう力は、実は人々が希望によって未来をイメージする事を必要とするんじゃなかったかと思うの。」
須藤はおつまみのキムチを箸でつまみ、口へ運んだ。
「その想像力を回復させるために、私は詩を書くの。詩が私の力の源だし、それが自分にとって出来る事だから。」
「良かった。最初はまさか宗教じゃ無いよなと一瞬不安になったから。」
「!」
須藤はキムチを飲み込むと、びっくりした反応を示した。
「違うよ!いや、どうかな?違うよ!」
須藤はケラケラと擬音が付くような大笑いをした。
「良かった誤解が解けて!解けたのかしら。私すごく痛い人だと思われそうだったって事ね。はあ~、本当に良かったわ。」
須藤は笑い終えながら、コップの水を一口二口飲んだ。
「イマジネーションに溢れている人物って、魅力的に感じるな。エネルギーをもらえるからね。何だか美しい存在に思えるの。」
須藤の透明感をもった眼は、庶民的な居酒屋の中でも、夕暮れの湖の表面のように、ずっと静かな光を放っていた。
「美しさとは、自分の感性を愛する事じゃないかと。自己愛では無くてね。美しさというギフトは誰からも貰えないし、何処に行っても買う事は出来ない・・・。」
須藤の目線の運び方は、スローな瞬きとともに、どこか無駄がなかった。机に肘をついて、考え込むような仕草をした。
座敷の隣の机に居た、堀りの深い顔立ちにスカジャンを着た男性が、お手洗いから戻って来た。
男性は机に戻ろうとして、こちらをちらっと見ると、勢いをつけた様子で声をかけてきた。
「あ。ねえ、もしかして大上寮生?」
「はい、僕はそうです。」
庄野は顔を上げると、男性の濃い顔を見つめて返答した。
「お、雰囲気で分かるね~。」
男性は一人でアハハ、と笑った。
「どうも。奄美市立大学から来ました、井口亮平といいます!」
「あ、どうも。庄野です・・・。」
井口と名乗った男性は、ビールとすき焼きで気分が良くなって話しかけてきた様子だった。年齢は30代前半だろうか。
「美味いねえ、すき焼き!奄美ではさ、あんまり習慣として食わないんだよね。」
「美味しいですよね。大学でも評判なんです。」
この居酒屋のすき焼きは値段が張らないだけあって、そこまで高級な肉を使っている訳では無かったが、だしの味が良く、特に酒飲みの舌を悦ばせるには十二分な質だった。アルバイトの学生にも教えてくれないその企業秘密のレシピを、冗談半分で「極楽浄土汁」と呼ぶ者までいた。
庄野は、三浦が琉球独立運動の活動家とこの大学は交流があるといっていた事を思い出した。
「うちの大学とはよく交流があるんですか?」
「そう!よく知ってるね。庄野くん?だっけ?ごめん。」
井口は顔の距離をかなり近づけてくるタイプの人間だった。
「合ってます合ってます。」
酔っ払いに絡まれてるのかな、と一瞬不安になった。が、井口と名乗った目の前の人物は大して悪い人間ではなさそうだった。
「こちらのお姉さんは・・・。」
「須藤といいます。どうかよろしくお願い致します。」
「ひゃー、都会っ子のようなカッコいい格好。どうしたのさ?旅行?」
井口は座布団の上にいる須藤のファッションをしげしげと眺めた。
「あ、いえ。最近この辺に引っ越してはきました。」
「あ、お引越し?へえ、都会から遥々?」
「まあ、そうですねぇ。」
井口は、庄野の方をちらっと見た。
「これ、デート?」
「いえ、デートではないです。」
「そっか。じゃあ一緒に食わん?酒はあるよ。ビールも日本酒も。」
2人が隣の座敷に目をやると、井口の同席者達がすき焼きを囲み、何やら熱心に語り合っていた。たまに息が合ったりすると、笑い声というより奇声を発して飛び上がったりしていた。見るからに井口と同年代か、少し上に見えた。庄野達の方を向いていた井口が振り返って、その集団に向かって大きめの声を出した。
「おい、言っただろ。『奇声は発しない!』」
井口と同席者達がやり取りを交わした時、須藤の眼が、一瞬庄野の方を向いた。首をこちらに僅かに回した時、須藤の前髪は居酒屋の厨房に漂う熱い蒸気のように、ゆらっ、と揺れた。
その直後、「楽しそう!」と須藤は座布団から立ち上がり、屈託のない笑顔が子供のようにパッと光を放った。
「おお、良いねえ。最高に飲もうぜ!」
井口の同席者達が須藤の立ち上がりに呼応し、酔っているのか、ワアアーー!と、奇声を発した。
スカジャンを着た井口雅俊は、奄美市立大学大学院の人間自然文化研究科の研究員だと言った。
「須藤さん、北海道出身なの。俺と日本の真反対じゃん!」
「そうですねえ!」
「大学は?」
「早稲田です。もう卒業してますけど。」
「エリートじゃ~ん!」
「やだ~もう~!」
その晩は庄野達しか客が居なかった上、店長も見知っているので、酒を飲んで存分に騒ぐ事にした。庄野・須藤・井口を合わせて6人のグループですき焼きと酒を囲む事になった。
井口は奄美出身で、地元の普通科である大島高校を卒業後に熊本大学に進学し、博士課程を単位取得退学して奄大で研究員をしているらしかった。
井口はすき焼き鍋から牛肉としらたきを箸でつかみ取った。手元の鉢に入った溶いてある生玉子に漬けると、ずずっと啜り、もぐもぐと大きく咀嚼した。
「美味い!」
「井口さん、野菜も食ってくださいよ。」
隣にいた男性がビールジョッキ片手に、おつまみのキムチを箸で手際よくつまんだ。井口はお椀に盛った食べかけの白飯に箸を突っ込むと、勢いよく口の中へと掻き込み、真顔でまた満足そうに大きく咀嚼した。
「那覇にはすき焼き屋があるんよや?」
「そりゃあるっちゃね。熊本ですき焼き屋行かんかったわけ?」
「たまに行ったけどや、高かったでぃ、もうシマにも戻って5、6年よ。」
「須藤さん、飲もう、飲もう!飲もう!」
「『奇声を発しない!』」
「庄野君の専門は何?」
目の前にいた谷口という男性が庄野に話題を振った。
「生物学の哲学です。」
「生物!?理系じゃん!」
「いえいえ、院から文転して哲学をやってるんですよ。」
「冗談冗談。流石に文系である事は分かる。科学哲学か。」
谷口は標準語に戻して話し始めた。
「僕らは『奄美学』という奄美オリジナルの学問を専門にしてるんだよね。」
「奄美学、ですか・・・。」
彼らが『琉球独立運動』の活動家だろうという事は庄野は何となく察していた。須藤はそれを知る由がないのと、持ち前の社交性もあるだろう、興味を惹かれた様子を見せた。
「へえ~。奄美学は、どういうところが魅力ですか?どんな感じなんですか?」
「まあまあ落ち着きなされ、お嬢さん。」
酔った井口がわざとらしく姿勢を正して大袈裟な口調になった。身内はアハハと笑う。
「奄美の歴史認識に関するもので、結構学際的なのでござります。文化人類学もだし、社会学も、政治哲学も混ざってくる。」
井口は姿勢を正して座布団の上に座った。
「奄大以前は大学が無かったので、学問は島の外でやるしかなかったんだよ。だから奄美のアイデンティティに根ざした学問はまともに存在しなかったんだよね。」
「そうなんですか。奄美のアイデンティティに関する学問・・・。」
井口によると、20年ほど前から『奄美学』という思想を推進し始めたのが今の奄美市長だという事だった。奄美が沖縄よりも更にアイデンティティが不明確である事を改善するために、イデオロギーを考案するための思想だという。
琉球国の一部であった奄美群島は、江戸時代に薩摩藩に占領され、その後鹿児島県の一部となった。第二次世界大戦後は8年間米軍に占領されたが、日本への『本土復帰運動』により復帰を果たすと、沖縄とは異なり米軍の占領が解けた。しかし、その遅れていた経済成長を促す過程で、地元の方言や文化を劣ったものだと見做す教育が行われたらしかった。学校で方言を使った生徒には首から『方言札』という罰のしるしが掛けられるという習慣が実施され、これに恨みを持った当時の人間は多かったという。もう当時の世代は生きていないが、本土、すなわち日本の政府に対する不信感は、今の世代にもあるらしかった。
奄美の比較対象である沖縄は、米軍基地という分かりやすいネガティブな要素への対抗意識と、元々琉球国の首都があったという歴史的経緯からも、アイデンティティがある程度明確であるらしかった。一方奄美群島は、琉球国の時代からでさえずっと被支配地域であり、真に独立していた時期はずっと昔で不明確であるし、その時代の文化がどのようなものだったのかも明らかでない。本来の奄美人とはどんなものか、これからどうあるべきかというイデオロギーは宙ぶらりんの状態に近い、という事を井口は熱心に語った。
「我々は宇宙人では無いんだよ。確かにこの地球に存在してきた民族なんだ。しかしこの状況はまるで宇宙人みたいじゃないか。イデオロギーもなく、ただ一定の島嶼地域に住んでいるだけ・・・。」
庄野は日本での独立運動と聞いて、正直安易なポピュリズム政治のようなものだと勝手な偏見を抱いていたが、案外そう雑に片付けられるものでも無いと感じた。
「奄美市立大学という公立大学が政治的になるのは良いんですか?」
庄野は遠慮の全く無い質問をしてしまった。井口は「ああ。」と反応した。
「独立運動の事?まあ政治哲学が絡むというのは実際に政治的な問題でもあるからだね。まあ、今やこの状況は非常に奄美の公的な理に適う~ものだと思うんだよ。庄野クン。」
井口は自分の酔っ払った顔を手の平でぴしゃり、と叩いた。
「やはり我々に日本は早過ぎたのだ!」
同席者がわははと笑った。
「いやあ、奄美振興予算というのがあったんだけどね。これはまあ日本国民の血税から出ていた。しか~し、植民地に多少金を出したからといって、占領が正当化される訳じゃないと思うんだよな。」
「割と何言ってるか意味不明だぞ、井口。」
谷口がツッコんだ。
「でも、独立した後はどうするんでしょう?沖縄だって現時点で中国に狙われていると考える人までいるくらいですよ。尖閣諸島を始めとして。太平洋へのアクセスを確保するという産業的・軍事的理由がありますから。」
「でも、過去の長い歴史の中で、中国が琉球を攻めて来た事はないんだよ。」
「うーん・・・。でも、中国共産党が出来てからはまた話が違う可能性はありませんか?琉球が独立してない時代に入ってから中国共産党が出来ているので、必ずしも参考にならないのではないでしょうか。」
須藤は「すいませーん。」と店員を呼ぶと、瓶のラガービールを1本注文した。
「しかしね、いつまで経ってもタイやベトナムは攻め込まれていないんだよな。台湾とは統一しようという意識が強いけど。」
「うーん・・・。」
庄野は眉を少ししかめた。いや、中国はそういった国の海域には、進出しようとしているのだが。
中国と台湾は、2037年に東シナ海上で遂に戦火を交えた。それから外交上の努力は勿論続けられていたが、両者間の緊張状態は21世紀初頭より格段に悪化していた。それまではアメリカが沖縄に基地を置くメリットが低下しているという世論もあったが、台中関係の激しい悪化によりそういった言説は日本国内では沈静化していた。
さらに、香港の民主化運動とそれに対する弾圧も泥沼化していた。中国が世界第一位の大国になった今、中国共産党はもはや香港を必要としていないようだった。デモ隊の主導者に堂々と国家反逆罪を適用して禁固刑や死刑に処すか暗殺し、民主化を求めて反乱を起こす「香港人」を強制収容施設に入れて「再教育」の対象とし、ゲリラ戦の拠点である事を理由に香港の市街地を砲弾で破壊した。国際社会の激しい批判を浴びたが、今や中国共産党にとって「国際社会」 ー 主に欧米の事であるが ー も大きな敵ではないようだった。中国の政治的・経済的支配はそれまでに強力になっていた。国際連合の複数の機関のトップに中国人を送り込む事を21世紀初頭から初めて、今や上層部を完全に牛耳る事に成功していた。アメリカが主導すると宣言した経済制裁は、後から国連関連の様々な理由が付いて遂に実行されなかった。
欧米社会は、中国共産党が少数民族だけでなく漢民族を大規模に弾圧する事を真面目に予想した行動を取れていなかった。最大の理由は、あくまで資本主義国のナショナリズムを無意識に想定する世代の国民が多かった事だと見られていた。
今や中国全土でテロが起きていた。テロを起こすのは香港人・カザフ人・インド人・モンゴル人と複数の人種にわたった。実行犯の多くは現場で射殺され、逮捕された者も大半は裁判を経て即時死刑に処された。中国共産党はそれらのテロが何らかの国際的テロ組織による犯行であるという一点張りであった。21世紀初頭から新疆ウイグル自治区におけるイスラム系住民達の抵抗運動をタリバンなどのイスラム原理主義と結びつけて強い弾圧を加えたのと、同じように対処した。
谷口が日本酒を注文し、首を傾けてコキっと鳴らした。店のおばちゃんが「はいはい。」と言って食べ終わった食器を下げながら、カウンターの奥へ行った。井口が「酒のちゃんぽんだなぁ、もう明日はいっか。」と言って軽くおどけた。
話題は奄美の住民に移った。
「まだ奄美は大卒の若者の定着・帰郷率が底を打って間もないんですよ。」
「そうそう。」
井口はもぐもぐとしらたきを咀嚼した。
「初の大学である奄大が出来てまだ10年にもならない上に、地元の進学率はそこまで高くなってない。また、(地元の) 大島高校の延長として入学する層も多い。独立運動に対する切実さや必要な知的体力があるとはあまり思えませんね。ポピュリズム的政治家が現れたら短期的な目先の成果は挙げられるかもしれませんが。」
「奄大を拠点に独立運動の機運を高めて行きたい。」
「どんな事をやっているんですか?」
「まず、奄美の歴史教育を奄大全学部の基礎教養科目にいれている。」
「一応そういうのは沖縄国際大学が先例なのかな。30年前、2021年の入試から選択科目に『琉球・沖縄史』を入れたのが。」
「奄美って人口はどれくらいなんですか?」
「今は3万人です。戦後の最盛期は15万人だったみたいですが。一応底は打ってる。」
会計を済ませた。井口達が全部奢ってくれた。井口達は大上寮に泊まっているという事だったので、一緒に大上寮の玄関まで来た。
「人の数が減っている。味方も少ないという事は自衛しなきゃダメなんだ。政治に興味がない人は幸運だという政治家もいる。しかし、無抵抗に民族が消滅していくだけの運命は駄目だと思いたい。自らの実存を懸けて戦わなくてはならないんだ。」
井口は力強く言った。しかし、完全に酔っ払っている。力強い酔っ払いほど、不安なものはない。
「『いっそ奄美のナショナリズムでも良いんじゃないか』と発言した山下欣一という奄美の学者が居たんだよね。カンフル剤としては良いのかもしれないと思っている。」
「それこそ、ポピュリストみたいになってしまうんじゃないですかね。実現不可能な政策を掲げて煽動してしまうような。左派ではなく右派の。」
「何だか、喧嘩腰だねえ。」
谷口は庄野に目を細めた。かすかに機嫌が悪くなったように見えた。
「独立後はやはり琉球人が優遇される風潮になるんじゃないですか?」
「それで良いよ。我々の土地なんだから。」
庄野は少し谷口の発言に驚いた。特定の集団をくくり、その利益を追求するのは、少なくともリベラルとは真逆の思想である。
「ちなみに、うちの学園とはどういう繋がりなんでしたっけ。」
「そちらの理事長と現奄美市長は、東大の同期だった時代から親交があるみたいで。明後日、講堂で座談会もやるよ。」
井口達は、寮の宿泊部屋で雑魚寝するために、帰っていった。
日本で起きたのっぺらぼう事件を、東アジアで起きているテロの先鋭化ではないか、と疑う欧米の一部の見方もあった。東アジアを一緒くたに見ている雑な見方ではあったが、一定層には信じられていた。
中国共産党と欧米の一部評論家は、『東シナ国』という武装組織の存在を仮定した。これは言うまでも無く過激派のイスラム原理主義組織『イスラム国』のアナロジーとして設定された。『イスラム国』と違い、東アジアにおいてその理念の根拠となる統一国家のようなものがかつて存在した歴史は無かったが、この組織が中国各地のテロを起こし、それを日本でも行ったという主張であった。新しい原理主義に基づいて東アジアを統一支配する組織が存在すると考えるなら、周辺各国に弾圧の協力要請が可能となるらしかった。
実際にのっぺらぼう事件は何らかのテロ組織によるものである可能性もあった。国内か国外のものかは分からない。昔の日本におけるテロといえば無差別テロを行った宗教カルト集団として知られたオウム真理教か、または極左暴力集団である中核派が知られていた。どちらも高齢化が進んだ事で、後継団体は約20年前に解散していた。
『東シナ国』が東京の真ん中ではなく、注目されている新しい学園のもとでテロを起こした理由は、リベラリズムとアカデミズムが結びついた勢力の一極だからだと思われた。正直言って、庄野には専門家が難しい用語を並べている議論にしか見えない部分もあった。
アカデミズムには民主主義と相反する側面がある、と言う新しい言説があった。民主主義とは、歪みのない十分なコミュニケーション、要するに話し合いで正しい合意、言うなれば社会的な「真理」に到達出来るという理想である。一方でアカデミズム、特に科学では、「真理」とは人間社会の外側にあって、解明した者によって「一方的に」与えられるものである。一方的な「真理」には話し合いによる合意など関係ないし、否定すれば単に間違っている人間だとされるだけである。
のっぺらぼうの被害者には、様々な人が含まれていた。
隣の市から学園祭に来て大通りでのっぺらぼうを目撃したという主婦が、自宅で全国ネットのテレビ局の取材に応じた。
「私は正門の前に居ました・・・。あの白いものが走ってきた時、恐ろしい気分がしました・・・。もう私に未来はない。人生はない。一切の望みが絶たれた。そんな感情が急に襲ってくるような気持ちが一気に湧いてきて・・・。」
主婦は身震いした。
「ここが狙われてることが分かってたなら、あそこの学園はなんで学祭を実行したの、って思います。常識的に考えて、おかしいんじゃないですか。」
「ああ、狙われていたという人もいますよね。まだ良く分からない部分も多いみたいで・・・。」
インタビュアーにとって、ある程度予想はしていた回答だったが、流石に陰謀論に近い発言はニュースには使いづらい。取材の取れ高を稼ぐために少し話を逸らし、具体的な恐ろしい体験について質問した。
「あの仕草は本当に恐ろしかった。」
「仕草ですか?」
「そう、いや、映像でほら、蠢くというか手招きするような仕草を・・・オエッ・・・。」
「◯◯さん!?」
主婦は目の前の台所の流し台に駆け寄って首を突っ込んだ。まもなくして、激しい嘔吐音が家中に響いた。インタビュアーはとっさに駆け寄ろうとした中腰の姿勢で固まった。
やがて、主婦は咳き込みながら弱々しい表情で戻ってきた。
「本当に恐ろしかった・・・。」
しかし、実はインタビュアーが事前に何度か観た断片的な映像の記憶では、スクーターを真っ直ぐな道のりで運転しているだけだった。とはいえ、仕草について具体的に問いただす事も憚られた。
「そうでしたか・・・、いや、本当に大変でしたね。でも無事で戻って来られて何よりです。」
「いえっ・・・・・全く、そんな事はありません!!」
椅子に座ろうとしていた50代の主婦の身体は、小刻みに震え始め、その眼は黒々とインタビュアーの顔を凝視した。焦点が定まらない目つきは、釣りで用いる浮きのように揺れていた。
「全く無事ではありません。もう到底、以前の私ではなくなってしまったんです・・・。本当に・・・。」
数日後、のっぺらぼうによる被害者達のPTSDを、VRで治療する計画が報道された。過去にアメリカの退役軍人や、半世紀前のニューヨーク同時多発テロの被害者達はそうやって治療された事があった。事件現場をVRで再現する事で、正しく向き合う事を促すという治療であった。
現在、事件が起きた学園前大通りのVR世界を構築する作業が、学園に資本を提供している大手VR企業によって進められているとの事だった。
学園理事長の飯塚隆弘と、奄美市長の前田晋作の公開会談が大学の講堂で行われる当日になった。
当日は雨だった。
「あ、あれが前田市長だ。」
三浦が遠くから一人の男性を指差して、庄野に言った。
前田市長は、40代後半の男性だった。傘をさして、構内で捕まえたのだろう、金髪が伸びてプリンのような頭になった学生に講堂へ案内してもらっているところだった。プリン頭の学生は軽音楽サークルに所属しているものと思われた。黒いケースに入った、エレキギターのようなものを背負っている。
講堂は扇状の形をしており、扇の中心から段々と高くなっている場所に机と椅子がある。普段は学生が座って見下ろす形で講義を受けている。庄野達は普段学生として座るのと同じように、半ばほどに着席した。
「では、座談会を始めさせていただきたいと思います。」
聞き手の男性がマイクを手にとって開会の言葉を述べた。
「まずは向かって左手におられるのが当学園の理事長であり株式会社○○VRsの代表である飯塚隆弘さん。そして右手におられるのが、鹿児島県奄美市で市長を務められております前田晋作さんです。」
紹介された二人がそれぞれ座ったまま会場に一礼した。両者とも40代後半の男性だった。東大の同期というからそれはそうだった。中程度の音量の拍手の中、遅れて来た赤坂が、会場の最後尾に姿を現した。庄野が座ったまま振り返り、そっと赤坂に合図を送った。赤坂が気付いてこちらにやってきて、庄野の隣の席にそっと腰を下ろした。会場の拍手はやがて止んだ。
「今日の座談会は、奄美VR事業10周年を記念いたしまして実施致します。」
「いきなり訃報の話から始めるんですけど。」
奄美市長の前田が、飯塚理事長の方へ向いて口を開いた。
「思想家の東浩紀が、昨日亡くなったんです。」
「えっ。なんと。」
開始早々に飯塚が驚き、感じの良いスーツに身を包んだ左手で、自分の頬に触れた。
「81歳だったかな。2017年の著作『観光客の哲学』は僕に多大な影響を及ぼしたからね。読んだのは10代の終わり、2021、22年あたりだったかな。奄美大島にとって観光とはどういうものか、彼の『観光客』という概念を逆輸入する形で考えてみたのが、今の成功に繋がっている。」
飯塚理事長は客席の方を向いた。
「それで、そう、議題にある通り、僕がどうして事業を始めたかという話をしておきたいんですが・・・、よく日本では、「中央と地方」という言い方をしますよね。ざっくりいえば東京や大阪と、それ以外というような対比があります。中央には色んな人やものが集まっていて、学歴社会で、文化は豊かで混沌としている。地方は過疎化が進んでいて、ものや文化は基本的に最低限のものしかなく、さびれている。そんな感覚を日本社会は持っていますよね。」
飯塚が左手の人差し指で頬を軽く掻いた。
「僕は中央と地方という観念に対する、レジスタンスを打ち出したいんです。そのために僕はVR事業に力を注いできたんです。地方が持つ地理的制約からどうやって逃れるかという、世界的に大きな問題を解決したくて。これはVR撮影の技術をスマートフォンに組み込む事でかなり進んで来たと思ってます。」
「そこから波及して、人道に反する行為が行われている国や地域の状況を伝えるツールともなった訳だよね。現時点でも人類にかなり貢献していると思う。」
前田市長は頷きながら発言した。
「前にもこういう場で言ったことはあるけど・・・香港の民主化活動家、黄之鋒 (Joshua Wong) に追悼の意を。1996年生まれ、2034年に毒殺された・・・。」
「そうだね。偉大な人物だった。僕らより7、8歳上だったね。」
前田市長が頷いた。
「挙げられる具体的な思想家がいるというのはある意味では羨ましいんですよね。『自由の学風』や学問の自由ではクリアな思想を示した人物がいないからね。また、立ち向かって殉死した人物もいない。」
飯塚理事長が話しながら前田市長の方を見た。
「殉死をドラマティックと表現するのは不適切なんだけど、ドラマ性は分かりやすさと関係はある。」
「まあ、奄美が香港ほどの強いモチベーションで民主化を目指している訳ではないけどね。一応グローバルスタンダード的には、基地問題がある沖縄はさておき、奄美は日本によって民主化はされてる範疇にあるから。」
前田市長は笑いながら、彫りの深い顔の顎を、右手の人差し指で数回掻いた。飯塚理事長は今回ののっぺらぼう事件について触れた。
「不謹慎なつもりはないんだが、学園をVR化するコスパに見合う出来事が予期せずやってきたんですよね。大学がVRになる上に、注目度が高い。PTSD治療が最優先だけど、それが終わった後にうまく公開すれば、知の拠点としての大学ツーリズムの時代がやってくるのではないかな。今はまだ事件のネガティヴな印象が強いが、いずれ強力な武器になるだろう。学問の障壁となる地理性を解消するツールになるんだ。東大や京大にも賛同者がいて、弊社から研究助成を始めたよ。我々が『自由の学風』を実現すれば、それに世界中からアクセスが出来る。」
「既にVRは奄美のエコツーリズムで多大な成果を挙げたからね。本当に助かってる。」
前田市長が頷いた。
「いやいや、あそこまで使いこなした偶然というか、ストーリー性が凄い。世界遺産と国立公園の指定を受けている湯湾岳や金作原原生林、嘉徳海岸などの自然と動植物の精緻なVR化は圧巻だが、それに統一的な世界観の説明づけをしたのが偉いと思うよ。結果的に奄美人にとって独自性の自己認識にもゆるやかに繋がって、独立運動のイデオロギーを駆動している。これは世界の他の地域では見られない例だから。それによって世界中で複数の異なる興味を持った層が注目しているのは大きいですよ。客に簡単に見捨てられたりしない。大学も頑張らねばな。」
飯塚理事長は話しながら笑顔を作り、椅子の上で腰を動かして姿勢を正した。
「琉球独立運動という概念は何より分かりやすい。話題にもしやすい。」
一方、前田市長は真剣な面持ちだった。
「観光っていうのは単なる享楽の提供じゃないんだよね。与える側にとって、自己をどう表出するかという問題と直結しているんだ。当然奄美だけじゃない。東京だって観光の対象であるならばそのはずだし、どこだってそう。」
「琉球、特に奄美は格好の思想拠点だな。自然科学でも、文化人類学でも非常にローカルかつグローバルだ。『グローカル』なんていう造語もあるが。自然科学でも文化人類学でも、ローカルな問題意識が実はグローバルな問題意識に直結するという例は沢山あるんだ。それをわっと示す事が出来る土地だから面白い。」
特に生物学においては、島嶼の隔絶性などが起こした特殊な生物進化が、生物史のダイナミズムを駆動してきた事は定説だという話を軽く紹介した。
「琉球独立運動も、単に琉球の問題じゃなくて、日本にとって独立国家とは何かを考え直させるんだからね。ローカルな琉球民族だけの話に止まらないんだ。もっと広い範囲の問題として扱う事が出来るんだ。」
「机上の理論だけで語られがちな政治理論を、現実の地域・国家として形にして見せる事が出来る。それも・・・、」
飯塚は気分が上がったようだった。
「VRと現実の両方で。」
話題は移った。「純粋科学」を学園が推し進める理由は何か?というものだった。
「話す前に、軽く資料映像を観て欲しいかな。」
飯塚理事長と前田市長の後ろの壁に、大きなスクリーンが出てきた。
「まあこれは純粋科学への反対派の意見だね。最近だと右派の過激派の活動の一つに結構なっちゃってる。」
スクリーンに映像が映し出された。過激派の右翼活動家が東大本郷キャンパスの正門前で拡声器で叫ぶ映像だった。過激派はメガホンで狂ったように怒鳴っていた。
『役に立たない研究を『面白い』などと言い、国にあの手この手で予算要求を突きつけて税金を搾取する純粋科学の研究者共は、国家の敵だっ!危機に瀕した国家の前で何が『面白い』だっ。元を辿れば欧州の貴族階級の遊びではないか。役に立たないノーベル賞など国家の存亡の前では無意味だっ!その系譜は我が国では根絶やしにしなければならない。『純粋科学』『面白い研究』などを掲げる者は皆国賊だーっ!』
映像の前半は終わった。
「まあ、これの是非は置いておくが、我々はこれを税金じゃなくて民間資本でやろうと言ってるんだ。金の無い国家の都合にも非常に適っているでしょう。」
飯塚理事長は真顔を作った。
「結局、資本主義が、カネが全てを解決するって事か。参ったな。」
今度は前田市長が冗談めかして笑った。
「まあ冗談でない側面もあるからな。資本主義を全面否定しても始まらないし、利用出来るところは利用させてもらおうという。」
「琉球独立運動、もとい『奄美学』は純粋科学の学際的知見がベースになる。これはやがて日本中、世界中に拡大できるはずだ。純粋科学の新しい役立ち方なんだ。」
映像の続きが流れた。過激派の別の人間が拡声器をとった。
『学者にはどうやら発達障害の傾向が見られる人間が多い。ASD (自閉スペクトラム症) とかADHD (注意欠陥・多動性障害) とかな。普通のコミュニケーションや事務仕事さえ出来ない奴も多いと聞く。なのに奇特な『面白い研究』で多額の税金を食い散らかしているっ!調べたんだ。そもそもこういう人間を入試で高偏差値の大学に入れてしまう事も問題である。有害な先天的形質は隔離・断種されるべきであるっ!皆さぁん!この大学は発達障害の巣窟ですよっ!』
「これなんてもうナチスの優生学そのもので、ひどくて笑っちゃいそうになるけど、声高に言われると笑えない主張なんだよね。」
飯塚理事長が言った。
「ASDやADHDの人達は、学業や芸術的な表現能力が突出してる人は高学歴になったり研究者やアーティストになれる事があるけど、そうでない人は周縁的な立場、すなわち社会の下層の部分に追いやられる傾向にある。反社会勢力には発達障害の人が一定数見られるという調査もあるしね。これも本来理想的なリベラリズムでは回収出来るはずなんだ。遺伝的な不平等を、資本の再分配によって是正するというね。」
「え、奄美に?」
庄野は思わず井口に訊き返した。
「俺らが帰るついでに行こうぜ!うちの実家に泊めてやるよ。」
「良いですね…南の島か…。」
井口は毎年本州の友人を奄美に連れて行き、実家の使ってない家に泊まらせるのが好きだという事だった。大上寮を後にする井口に、奄美に遊びに来ないかと誘われた。
「私も行ってみたいです。手付かずの亜熱帯の自然や海を見てみたい。」
須藤が楽しげな、しかし凛とした声で行きたさを主張した。
ついでに仲の良い院生2人も良いですかと訊くと井口は快諾してくれた。井口は10人以上泊めた事もあるから余裕だと言っていた。
奄美大島へは、格安航空便が飛んでいた。庄野・須藤・三浦・赤坂の4人は、井口と一緒に奄美へ飛び立った。
到着し、奄美空港から出ると、すぐさま暖かい空気が庄野達の身体を包んだ。11月とはいえ気温は20℃以上あった。本州より緯度が低いゆえの日射量の多さが、眼と肌身に直に感じられた。
空港の白い建物を出た目の前の道路に、大型の移動車が迎えに来ていた。6人はその車に乗り込んで、奄美の中心部へと向かった。
40分ほどすると、町中に入った。奄美市の中心部、名瀬。イメージする沖縄の風景とは異なった。シーサーなどは見当たらないし、アメリカ的なステーキ店や巨大な土産品市場なども見当たらない。少し灰色で、どこか暖かい町だった。
夕食には定食屋で鶏飯を食べた。丼に盛った白米の上に、錦糸卵・かしわ・しいたけ・ネギ・海苔・漬物を載せ、鶏ガラのスープをお茶漬けのように掛けて食べる。家庭で作るのと同じように鶏ガラを何時間も煮込んで作ったという、芳醇な鶏がらスープの蒸気と香り。その温度だけではない暖かさが、丼と口の間で箸を動かす庄野達の心の中まで満たしてくれるように感じられた。
前田市長が、奄美市立大学の講堂のデザインを見せたいというので、見せてもらう事になった。
町中の定食屋の外に出た時にはもう日が暮れて、月が出ていた。ちょうど満月だった。月の白い肌と明かりが、奄美の11月の涼しい風の感覚と合わさって、気持ちの良い夜であった。
奄美市立大学の本部と講堂は、ちょうど奄美市役所の隣のブロックに建てられていた。庄野達は、井口と前田市長とともに講堂に向かった。
「お、楽しみですね。」
先導した井口が、講堂の裏口のドアを開けた。
ふっ・・・・・・・・・と、目の前が暗くなった。
「えっ?」
何も見えなくなった。今通ってきた廊下も全て、明かりが消えていた。庄野は不意に顎を持ち上げるようにして、天井を見上げた。暗闇の中でかすかに天井に張り付いて見える、電灯の影があった。
「停電・・・!?」
真っ暗な中で、大体視界に慣れてくると月明かりのせいか、ぼんやり青く見え始めた。
各々が、スマートフォンのライトを点けた。当然ながら、真っ暗な講堂がぼんやり浮かび上がった。
「市長!」
職員が懐中電灯を持って走ってきた。
「どうしたんだこの停電は。」
「えっ・・・。」
井口が声を上げた。目の前に、壁に筆のようなもので英語が殴り書きしてあった。
Welcome to where time stands still
No one leaves and no one will
Moon is full, never seems to change
Just labelled mentally deranged
「なっ・・・。」
前田市長が驚いた。
「これ、講堂のデザインなんですか?」
「違う違う、何なんだ・・・。留学生か誰かのいたずらか?」
前田市長と庄野達は戸惑った。
「普通こんな場所に落書きがされるようなことはないけど・・・。」
廊下から入ってくる月明かりの下で、井口の汗が顔の側面を伝った。
すぐ横の壁にも書かれていた。
Sanitarium, just leave me alone
Build my fear of what’s out there
Cannot breathe the open air
Whisper things into my brain
Assuring that I’m insane
They think our head are in their hands
But violent use brings violent plans
Keep him tied, it makes him well
He’s getting better, can’t you tell?
No more can they keep us in
Listen damn it ! We will win
They see it right, they see it will
But they think this saves from our hell
「これは、何かに抵抗する内容の、詩ですよね・・・?」
須藤が言った。壁に眼を凝らし、身体を動かさなかった。
「これは恐らく、勢いで書いたものじゃないな。あらかじめ準備してきたものか。何だ?」
前田市長が呟いた。詩が書かれた壁に視線を止めたままだった。
「"Sanitarium" は精神病院か。頭がおかしいと宣告して閉じ込め、こんな事は有り得ない、と怒りを滲ませる・・・。」
「これは、いたずらじゃないっ、テロじゃないですか。」
職員の男性が叫んだ。
「あのな。落ち着けっ。」
前田市長が半ば怒鳴った。
「みっともない・・・。まあ、何か面倒なトラブルではあるやろうが。」
文章から、庄野はどこかただならぬものを感じていた。
「恐らくこの精神病院は比喩だな。もしかして・・・、中国共産党によるウイグル強制収容所の暗喩、とか・・・?反感を持った外国人集団による騒動とか・・・。次の段落は、蜂起の決意?」
「何か特定の事件に関する詩なのか。」
壁のスペースが足りなくなったのか、隣の小部屋の壁にも書かれていた。
Fear of living on
Natives getting restless now
Munity in the air
Got some death to do
Mirror stares back hard
Kill, it’s such a friendly word
Seems the only way
For reaching out again
「ここはニューヨークのスラム街にでもなったのか?」
見えない、ホールの反対側の向こうの通路から、英語の大声がこちらに向かってくる。
「少なくとも暴動ですよ。」
「日本で暴動が起きるかっ!」
須藤は目を見開いて立ったまま、身震いしている。
庄野達がホールに入った扉とは反対側の、正面の大扉が、乱暴で甲高い金属音とともに勢いよく開かれた。途端に猛烈な量の光がホールを充し、庄野達の視界を奪った。
「うわっ。」
ドドオオオオオオオオオオオオオーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!
可聴域全体が反応する轟音が鳴り響き、そのホールで起きた出来事は感覚ごと全て埋め尽くされた。走ってくる黒い人影達。複数人に殴られ、腕を押さえられた。叫んでも何も聞こえない。
捕まえられ、無理矢理歩かされる。時間の流れが急に重苦しくなり、息が出来なくなった。
両腕、そして背中に、知らない人間達の手がかかっている、抵抗出来ない。歩くしかない状態・・・。
痛い。信じられないくらい強い握力で両腕を握られて、血が止まっているのではないかと感じた。
庄野達は講堂がある建物の20畳ほどの一室に無理やり連れてこられ、4人と井口、前田市長が入ると、扉の外側から南京錠でカチャリと鍵をかけられた。
何が起きたのか・・・・・。
全く・・・理解出来なかった。
どうしてこんな目に遭ったのか。
・・・。
今この身に起きた事は、まさに暴力だった。
身体を複数人に押さえつけられ、暴力で、無理やり連れてこられた・・・。そして鍵。
「・・・。」
壁際に須藤がいた。須藤は抵抗した際に手荒に扱われたのか、洋服は乱れ、部屋の壁に寄りかかって、乱れた黒いざんばら髪を下げ、荒い呼吸を上げていた。
「・・・。・・・須藤さん。」
庄野が近くに寄った。
「・・・。」
須藤はしばらく無言だった。引き攣った表情に汗をぐっしょりとかいた額を、手首でゆっくりぬぐった。乱れた髪を、五本の細い指でかき上げた。
「何・・・?これ・・・。この状況・・・。」
須藤が壁に手をつきながら、庄野を見上げた。襲いかかった衝撃は二人の汗腺を破壊したかのように、猛烈に汗を噴出させていた。庄野の両手首は、既に何度もぬぐった汗でびしょびしょに濡れていた。
「分からない・・・。」
「あいつら覆面をして、銃のようなものを持ってたぞ。」
赤坂が二人のところへ歩いてきた。赤坂も発汗しており、長袖をまくって汗を拭っていた。緊張した面持ちだった。
「これは、・・・何かの占拠ですよね?明らかに暴力で、占拠してますよね!?我々がされているのは、監禁ですよね・・・??」
「・・・。」
鍵のかけられたドアの前で、三浦が井口と前田市長に叫ぶようにして声をかけた。二人とも、引き攣った顔を抱えて、ドアの方を向いて立ち尽くしていた。前田市長のネクタイは半分取れて、ワイシャツの2番目のボタンが弾け飛んでいた。
「・・・・・。いや、状況が本当に理解出来ない。何者なんだっ、あいつらは。」
前田市長がようやく、気力を振り絞るかのように声を出した。
その時、南京錠が外され、扉をノックして開く音がした。武装員が英語で、前田市長に来るように言った。一瞬の沈黙のあと、前田市長は大人しくそれに従って、部屋の外へと出て行った。
・・・。
前田市長が帰ってきた。前田市長は、震える口で、言葉を発した。
「『今すぐ奄美独立宣言を出して臨時政府を作れ』、という要求だ・・・。」
「ええっ・・・??」
沈黙・・・。時の空白が流れた。
「えっ、ど、独立?」
「悪ふざけなんですか!?」
「いや、いや、ちょっと聞いてくれ。」
前田市長は井口や三浦を遮った。
「少なくとも大量のライフル銃を持っている。島民の安全を第一に考えたら、ひとまず独立宣言するしかない・・・。」
全員が鎮まりかえった。前田市長は若干の恐怖を顔に滲ませながら、一つ一つの言葉を発した。
「あれは島内に駐在する自衛隊に支給されている型のライフルだ。どうやったかは分からないが、恐らく奪っている。」
「嘘だろ・・・。」
井口の濃い顔が、漫画みたいにくしゃくしゃになった。
「ええっ・・・。」
庄野達は声を出す以外の動きが取れなかった。身体が動かない。
「彼らは何者なんですかっ?」
「分からない。全員が覆面をしている。何となくアジア人ぽいが、とりあえず英語を話しているという事しか分からないね。」
「何なんだ、何なんだ、銃って!?銃を持って占拠してるって?」
井口は頭を抱え込んだ。歪んだ表情は、極限状態で見ると、もはや多少愉快に感じられてしまわなくもなかった。
「自衛隊を無力化して武器を奪ったとしたら、こ、この奄美大島全体が占拠されているに全く等しいっ!」
「この島そのものが!?」
須藤は思わず素っ頓狂な声を出した。須藤は指で、困惑だろうか、ようやく汗が引き始めた髪を何度も梳きながら、前田市長の一挙手一投足を大きな丸い眼で目撃せんとした。しんとした室内に、前田市長の声が響き渡った。
「日本の有人島が侵入者に上陸される日が来るとは・・・。恐らく100年前の沖縄地上戦以来だ。」
前田市長はもはや達観したのか、口調は冷静だった。
「間違いなく世界ニュースになるぞ。」
「『東シナ国』じゃないか・・・?」
井口が口を開いた。
「中国共産党が言ってるやつですか?あれ本当にいるんですか?」
三浦が思わず言葉を発した。
「奄美に乗り込んでくるような武装集団だぞ。そんな集団、他にあるのか?」
「・・・。」
前田市長はしばし沈黙した。
「私はここの首長なんだ。とりあえず私が色々判断するから。」
ちょうどそこで、南京錠が開けられた。市長は呼び出され、別室に連れて行かれた。
三浦が口を開いた。
「彼らにしてみたら、要人である奄美市長が帰ってくるのを待っていたのか。」
「まあなるほど、そういう事か・・・。」
井口は小さく生えた顎髭を、震えた手で撫でた。
全員が疲労の頂点に達していた。段々と落ち着きはじめ、そこからの会話は少し冷静に、しかし断続的に続いた。
「沖縄じゃなくて何故奄美なのかを考えていたんだけど、やっぱり『奄美学』と近年の観光業と、奄大の存在を注視したんじゃないかな。」
「いや、そもそも沖縄を占領するのは奄美に比べてかなりハードルが高いだろ。平地が少ない奄美と違って街がかなり広い上に、米軍がいるんだぞ。」
「さて、沖縄から米軍が来るか、本州から自衛隊の応援が来るか。」
三浦がぼそりと言った。
「これはもう米軍だろうな。アメリカが黙ってる理由がない。」
「でも実際に島民の意志で独立宣言を発したとなったら違うんじゃないですか?」
三浦が言った。
「介入したい理由さえあれば無理やり理由をつけてでも、軍を送ってくる気がするな。」
「・・・。」
「思ったんだ。世界に対する煽動としてこの騒動を企画したんじゃないか。」
「彼らが本物の東シナ国だとして、危険を冒して奄美まで上陸しに来たのに?その目的が騒ぐ事だけか?」
「・・・。」
翌日になった。市役所にある放送室では、前田市長による奄美独立宣言の音声録音が行われたらしかった。庄野達は、午前中に前田市長や井口と引き離された。そして、武装集団のトラックに乗せられ、奄美大島の南部にある瀬戸内という町に輸送された。
武装集団はこれから南部の瀬戸内町に「首都」を建設するつもりらしかった。奄美群島を国家とするにあたって、なるべく交通の便が良い場所に首都を置きたいようだった。奄美大島本島は群島の中で北に位置するため、首都は現在の奄美市役所を含む中心街がある中部よりは、南部に設置した方が都合が良い。実際に、群島全体の利便性のために奄美市役所が瀬戸内町に移転するべきだという議論が、昔からあったらしかった。
太平洋戦争時の瀬戸内町は、軍事的にも重要な拠点だったという。リアス式海岸である上に小さな島々に囲まれているせいで、敵に見つかりにくいメリットがあったという。
「やっぱりスマホを取られたのは痛いな。状況が分からない。」
薄暗くて揺れるトラックの荷台の中で三浦が呟いた。4人とも一睡もしておらず、疲れがみえていた。4人は荷物を取られ、軟禁状態で荷台に乱暴に詰め込まれていた。トラックは特に信号待ちをする事もなく、走りながら不連続に揺れた。トラックが時々海沿いを走っている事は、太平洋の潮の香りが漂っている事からも分かった。
「そもそも携帯会社の基地局は生きてるんだろうか。止められた可能性もあるんじゃない?」
庄野が三浦に話しかけた。
「うーん、島民の生活や安全を考えたら止めるべきではない気がするけど。」
「国が奄美を奪回する時に緊急事態宣言を出せば、携帯会社が奄美の回線を止める可能性はあるんじゃない。」
「まあ、そうかもね・・・。」
沈黙が流れた。トラックの荷台が揺れる音だけが、時折ガタガタと鳴った。
「もう、どうなるか全然分からないよ・・・。」
赤坂が口を開いた。須藤は緊張した面持ちで、静かにため息をついた。ふと、三浦が気づいたように発言した。
「あー、我々を拘束しておくところを見るに、まだ島民は殆ど状況を知らされてないのかもな。武装集団が占拠している実態を。情報を制御するという理由があるからこそ、事情をある程度知っている我々を隔離している気がする。」
「市役所を占拠すればとりあえず島を掌握した事になってるのかな。」
「さあね。」
「しかし、独立運動がこんな形で本当に実現するなんて。『琉球独立運動』は単なる宗教だった気もするのに。」
「宗教っぽく、分かりやすい幻想論として運用していた部分はあったでしょ。本当に独立する準備はしていなかった訳だし。」
須藤は薄暗い荷台で、真顔で口を開いた。
4人は、海から砂浜に上がってすぐのところにある、トタンで出来た古い倉庫に閉じ込められた。
「けっ、見張りさえしないのか。」
「まあないと思うけど、今大地震が起きて津波が来たら俺らは一網打尽だな。」
「まあそうね。」
須藤は若干嫌そうに、首を傾ける仕草をした。
赤坂は地面に転がった。
「もう疲れたよ~。全然寝てないしね。」
「脱出したいな。」
三浦がうろうろした。倉庫の中はかなり埃臭かった。だいぶ古い倉庫で、放置されていたものだろう。
「そういや、ここで看過した事が後で日本国内で知られたら、どういう扱いを受けるだろう。邪魔出来ないのかな。」
赤坂と三浦が腕組みをした。誕生したばかりの国にクーデターを起こす。もっとも、国際的に認められていないのなら、流石にまだ国とは呼ばないのかもしれない。
「ええっ。武装した集団に民間人が何かしろっていう論調には、流石にならないんじゃない?」
庄野、須藤が反論した。
「具体的に何をするっていうの?」
「まずは脱出だよ。」
「どうやって脱出するつもりなわけ?」
須藤がようやくイラついてきたように、赤坂と三浦に言った。
庄野、須藤、三浦、赤坂。分裂している場合ではなかった。この狭い空間の中に押し込められて今にも爆発しそうな多様性を、共存させるべきだった。
赤坂は無言で倉庫の端までいくと、置いてある段ボール箱の中身を物色し始めた。
「ダンジョンじゃないんだから、秘密の脱出アイテムがある訳ないでしょう。」
すると、赤坂の物色する手が止まった。
赤坂は高笑いし始めた。あはははははっ!あはははっ!
「えっ・・・。」
残りの3人は何事かと眉をひそめた。
「どうした?何か見つかったのか。」
「やっぱり雑だよ!これ見てよ!!あはははははっ!」
倉庫の端には、ダンボールに入った業務用の火薬があった。
「一箱目!一箱目でアタリを引いたよ!!あはははっ!」
「やっぱりなんか仕事が雑だな。この倉庫も、僕らを隠すために急遽使うことにしたんだろう。」
「これで入り口を吹き飛ばせば、脱出できるじゃん。」
「はぁ・・・・・・。」
須藤が驚きの混じった、ため息をついた。
「地面に伏せて耳を思い切り塞ごう。鼓膜が破れるから。」
火薬を盛った塊が、倉庫の入り口にセットされた。赤坂が導火線に着火した。
「耳塞いで伏せろ!」
バアーーーーーーーン!!!!!、と、塞いだ耳をつんざくような爆発が起きた。トタンの倉庫の扉と壁の一部が吹き飛ばされ、太陽光が一気に差し込んで、薄暗い空間が消滅して明るくなった。
吹き飛ばされた倉庫のトタンの壁が、猛スピードで回転しながら秋空へ舞った。
「・・・。」
庄野達は目を開けた。ひどく眩しい。薄暗い場所から急に外に出て来た眼には、11月の奄美の太陽が喜び狂って庄野達を燦々と照らしてくるように感じられた。海を見ると、太平洋に浮かぶ水平線から、太陽光線は淡い青色の大空を上に描いていた。
爆発で飛び立ったトタンは上空で強い海風に煽られて、まるで奇祭を行う部族の踊り手のようなリズムで舞い、鈍い音を立てて砂浜へ落ちた。
「・・・。」
耳を塞いで地面に伏せた4人の服と髪は、砂埃まみれになっていた。三浦と赤坂がゆっくりと立ち上がった。
「うわー・・・。器物損壊だけど正当防衛に入る事を祈ろう。」
「器物損壊に正当防衛があるのか?よく知らないけど。・・・・まあ、殺人はしてないよな?正当防衛にしても目覚めが悪くなる。」
残りの2人も立ち上がった。火薬の燃えた独特の強い匂い。一瞬の沈黙。
三浦が叫んだ。
「逃げろおおお!!!!」
4人は一斉に海沿いの防波堤に繋がるコンクリートの地面を蹴って、山の方へと走り出した。逃げるしかない。庄野達は砂が散乱した地面を必死で蹴った。
ソテツやアダンの木が密集した砂浜を通り過ぎて、そのまま山に続いていそうな車道に出た。その時、見えない後ろの方で、爆発に気付いた人間が騒いで集まってくる声がした。武装集団の人間達だろうか。倉庫が吹き飛んだらパニックになるのは当たり前だ。
立ち止まっている余裕はない。間髪入れず、車道を渡って目の前にある緩やかで細い山道を全力で駆け上がった。100mほど走ると、国立公園である事を注意する看板があり、その前には立ち入り禁止のロープがかかっていた。4人はそれを乗り越え、森の中へと走った。車のタイヤの跡がついて雑草に塗れた道が、山中へと続いていた。庄野の耳の周りでは、タイヤの跡に生い茂る草をせわしなく踏む足音が4人分、鬱蒼とした森の中へ雑多に響いた。
「だいぶ、走った、よな?」
奄美大島の11月の昼の気温は20℃程度あった。庄野は走っているうちに自分が段々と汗だくになってくるのを、首や脇で不快に感じ始めていた。数分走ったところで、三浦が息を切らしながら走る速度を緩めた。
「ここまで一本道ではないけど、脱走は知られただろうから車で追いかけられたらまずいよな。」
気がつくと、雑草だらけのタイヤの跡と古びて茶色の汚れがこびりついたガードレール以外は、深々とした自然の森が目の前に広がっていた。奄美の森は庄野達にとっては異質な光景だった。赤坂によれば、島嶼という大陸から離れた土地では、独自の生物相が発達したり、絶滅を逃れた太古の生物種がいる事がしばしばあるらしい。庄野達の目の前には、本州では見た事のない巨大なシダ類が、まるで巨大な動物が頭をもたげるようにして鎮座していた。恐竜の時代のイメージ図に出てくる、巨大な動植物が跋扈するイメージそのものだった。太古の生物史が残っている事を肌に感じさせた。森は暗い緑で様々な濃さと形状に彩られており、風に吹かれて呼吸するように揺れ動いた。
「しかし我々は4人か。4っていうのは、不吉な数字だな。」
「え、ちょっとやめてよ。」
須藤が少し嫌そうに口にした。須藤も汗だくになっており、音を立てて息を切らしながら汗を手の甲でぬぐい、袖を肘の上までまくり上げた。すると赤坂が歩きながら声を出した。
「あ、もうここまで来ると毒蛇のハブがいる可能性がある。長袖をやめるのはまずいよ。袖をまくらない方が良い。この状況で咬まれたら病院に行けなくて死ぬ可能性が高い。毒を吸い出すキットもないし。奄美のハブは沖縄のハブより毒性が強いらしい。」
須藤の眼が横にいる赤坂を捉えると、袖をまくる動きが静止した。須藤は無言で頷き、白い腕の上に袖を戻して森を見回した。庄野も袖をまくろうとしたところだった。
「当然長袖のままでも咬まれるリスクはあるから、このまま森の中で長時間行動するのは出来れば避けたいな・・・。夜になると視界がなくなるのとハブが活動開始するのとで、特にまずいと思う。昼は水場の近くにいる傾向があるから小川とかは避けないと。あと、獲物を狙って木に登っている事もあるらしい。」
須藤と三浦は嫌そうな顔をして、思わず木を見上げた。
「しかし僕らが逃げるには?」
「分からない・・・。奄美には来た事がないから。」
「森じゃないと見つかるんじゃ。」
「うーん・・・。」
赤坂は真顔ながらも、少し困惑していた。逃走を前提に奄美大島の地理に関する知識を得た事がある人間など、いるはずもない。
4人はそこから10数分、森を歩いた。時折ピーヒュルルルル・・・・・・と鳥のような鳴き声がして、山々がまるで大ホールのようにわあんと共鳴した。
「リュウキュウアカショウビンの鳴き声かな。天然記念物だよ。赤い鳥なんだ。」
「ここは原生林というものなの?」
庄野が赤坂に尋ねた。
「うーん、多分、違うんじゃないかな。原生林って奄美大島の森の中でも一部のはず。」
赤坂は、頭の上にある大きなシダ植物を指差した。
「デカいシダがあるだろ。あ、このデカいやつね。ヒカゲヘゴっていうんだ。日本最大のシダ類で、奄美から台湾に見られるんだ。台湾あたりだと少なくなってるみたいだけど。まさに太古の生物史の名残みたいな植物なんだ。」
その時、前方から砂利を踏みつけて走ってくるエンジン音がした。
「車だっ、隠れろ・・・!」
4人は草陰に隠れた。向こうからやってくる中型車の運転手の顔が見えた。
「一般人か。」
赤坂が呟いた。
「いや、もうこのままうろうろしてても捕まる。一か八かっ」
三浦と庄野は道に姿を現した。
「すいませーん!」
車が停止した。運転手が窓をあけた。
「こ、こんにちは。」
「は、はい。こんにちは。」
「急に止めてしまってごめんなさい。実は・・・」
4人は顔を見合わせた。
「ぼ、僕たち監禁されてたんです、本当なんです、助けてくださいっ!!」
「ええっ!?」
男性は驚いた。
4人は、奄美に来てからのここまでの顛末を男性に話した。
「いやあ、確かになにか不審な車や人達とかがここ数日急に増えてるっていうのは聞いてたけど、まさかそんな事になってるなんて・・・。」
男性は半信半疑で車の後部座席を指差した。
「じゃ、この車に乗って良いよ。でもそういう事なら身をかがめて見えないように乗った方が良いのかもね。」
庄野、須藤、赤坂の3人は身を伏せて後部座席に乗った。三浦はトランクに入った。
車は走り出した。
男性の家についた。
「良かった。携帯会社のネット回線は生きてるんですね!」
「ああ、普通に使えとるよ。」
車を降りながら三浦は嬉しそうだった。自分のスマホは取られていても、誰かのものを借りればなんとかなるかもしれない。
車の中で瀬下と名乗ったその男性は、都会から田舎に移住した、いわゆる「Iターン」の人間だった。独自のレシピでスパイスを調合した豆カレー屋を営んでいるらしい。瀬戸内町では5年ほど暮らしているとのことだった。豆カレー屋の裏が住居になっていて、庄野達はそこのリビングに通された。
「きれいなお部屋ですね!」
赤坂が感心していた。質素だけど心地良いデザインの家具で統一されているリビング。ここで、食材にこだわって作った料理を友人達に提供したり、奄美の美しい海が見える窓辺に座って、こだわって取り寄せたコーヒー豆を挽いて淹れたコーヒーを飲んだりしているらしい。
「これがまさに!あれか、『丁寧な暮らし』てやつ?」
三浦があははと笑った。
「『丁寧な暮らし』って、別に単に気取ってて、ふわふわした甘いものじゃないのよ。」
須藤が、もはや半分悪態のようだったが、ぼそりと呟いた。
「生きるために、自分を絞り出すようにしてこだわり抜く事で自分の存在を保つの。他にも沢山の事に気を使われているの。ふわふわと訳のわからないブランドのものを買って、自分に酔ってるんじゃないのよ。」
遠くで聞いていた瀬下は苦笑した。
瀬下が夕飯で出してくれた豆カレーはすごく美味しかった。
しかし、スプーンを持った庄野の手が動かない。
「あれ、食欲ないの?」
須藤が庄野の顔を覗き込んだ。その拍子に、須藤の髪がカレーのルウの皿に一瞬入りそうになった。しかし、それすら頭によく入ってこない。ぼーっとしている。確かに食欲がない。というより、二口目以降が全く喉を通らない。
「・・・。あーっ・・・。」
豆カレーを美味しそうに咀嚼していた赤坂が、スプーンを持っていない左手の人差し指で、ゆっくりと頭を掻きはじめた。
「この間調べたら、PTSDの症状に摂食障害ってあったはずだよ。もしかして・・・。」
須藤と庄野がはっと顔を赤坂に向けた。
「40年前の東日本大震災や、50年前のニューヨーク同時多発テロ事件のPTSDに関する本が図書館にあったから、興味本位で読んでみたんだよね。」
食欲がないのはPTSDによるものか。知らないうちに自分にも症状が出ていたのか。・・・・・。
須藤がそこではっとした。
「助けを呼ばなきゃっ!奄美から出してほしい!」
「ああっそうか。そうだった。」
「一体誰に?警察?自衛隊?国?」
「うーん・・・。」
「真っ先に救出してもらえるとは限らないと思う。武装集団からしたら、僕らを探すプライオリティーはそこそこあるというのに・・・。」
「じゃあ・・・・・・。」
そこで三浦から、飯塚理事長に電話してみた。
「はっ!?・・・武装集団??・・・・独立!?」
飯塚理事長は面食らった声を出した。三浦は飯塚に状況をあらかた説明した。
「分かった・・・信じがたいが・・・。それで、どうすれば良い?どうやって助けたら良い?」
「脱出させて欲しいんです。まだ国には言わないで。大規模な作戦でこちら現地に混乱が起きれば何をされるか分かりません。たぶんまだ表立って僕らを探してない今がチャンスなのかなと。」
「そうか・・・。」
飯塚は電話口でしばし沈黙した。やがて、
「うちにVRデータ収集用の小型ヘリがある。敵にバレないという事なら向かわせられるかもしれない。航続距離は1000キロあるから、奄美とここを往復出来る。以前もVRデータ収集時にそうした事がある。」
庄野と須藤は俯いていた顔を上げた。希望がある。一転して少し明るい表情になった。
「どこに着陸すれば良い?」
「場所ですか!?あ、どこ・・・。」
三浦が電話しながら、瀬下を厨房から呼び戻したがった。全く奄美の地理は分からない。
「じゃあ、どこか場所が分かったら連絡してくれ。とりあえず今から急いで出発の手配はしておくから。」
「あ、分かりましたっ!」
飯塚との電話は一旦それで切れた。瀬下の仕込み作業が終わってから、奄美脱出会議を開く事にした。
「小型ヘリが着陸可能な場所・・・・。そもそも奄美は平地が殆どないんだよな。ヘリポートか、学校の校庭か、空港くらいしかないんじゃないか。」
数年間奄美に住んでいる瀬下が、彼なりの分析を述べた。
「ヘリポートや空港は、流石に武装組織がマークしてる気がしますね。」
「そうだね、島から出るには飛行機か船しかないからね・・・。」
「学校の校庭は目立ちすぎるんじゃないかなあ・・・通報されたりしそう。」
赤坂がうーむと唸った。
「ヘリでの脱出は無理か?。日本側からの救出を待つしかないのか・・・?それまでに見つかったら殺されるのかな。」
「我々が奄美に行った事を国がわざわざ取り上げて救出してくれるって事?あるかなそんな事・・・。住民のほとんどには今のところ危機が迫っていないしね。この独立状態そのものが打破されるのを、隠れたまま待つしかないか。」
万事休すか。武装集団は、逃げた自分達を探しているはずだ。仮に瀬戸内町を離れても、どのくらいの期間奄美大島に潜伏していられる?4人は向かい合ったまま、ショックで黙りこくってしまった。庄野を除く3人は、しばらく黙々と豆カレーを口に運んだ。
「一つだけ手段を思い付いた。」
瀬下が、帽子を取って庄野達の方に向き直った。
「空港近くに、昔の空港があるんだよ。滑走路はそのまま放置されてる。」
「昔の空港・・・。」
「ジェット機が着陸するには整備しないと無理だろうけど、垂直に離着陸出来る小型ヘリだったら滑走路として使用する必要はないから、いけるんじゃないかと思う。周りにほぼ人はいない。まさか70年前に捨てられた滑走路はマークもされてないと思う。」
4人ともその話に食いついた。
「空港に近いって大丈夫なんですか?距離はどのくらいですか?」
「数キロだったと思う。」
「空港の周辺だと、管制塔レベルで監視しているんじゃないですか。」
「空港の真上とか航路上じゃなければ、観光客向けのスカイダイビングの民間業者の機体がよく周りを飛んでるんだよ。それに紛れるんじゃないかな。」
「じゃあ、民間業者の機体が飛ぶ時間帯も調べておこう。」
瀬下は、スマートフォンで庄野達に地図アプリを示した。空港がある奄美大島の北部、笠利という町に立地する田中一村美術館は、「旧」奄美空港の敷地に建てられていた。旧空港は1988年まで使用されていたが、用地拡張の失敗により廃止され、地図で見ると当時の滑走路が放置されている事が分かった。現空港からの距離は約2キロだった。
唯一の策ではあった。しかしいけるかもしれない。わずかながらの期待が湧いて来た。
「なるべく早く脱出した方が良いな。明日が無理でも明後日くらいにはいけるだろうか。」
「場所も決まったし飯塚さんに電話してみるか。」
三浦は飯塚理事長に電話した。
明後日の午後に奄美に着陸するのは問題なしとのことだった。4人は歓喜した。
「じゃあ明日は大人しく隠れてて、明後日はドライブ!顔はマスクで隠すべきかな。いいねえ秘密作戦って。」
瀬下はノリノリだった。
「明日は篭りっきりかあ。」
赤坂が呟いた。
「マスクして、人がいない場所に外出する?海くらい見ていきなよ。」
「本当ですか!やったあ。」
翌日は、昼食を済ませると、隣の住用村にある嘉徳海岸に行った。車に乗っている間は、4人は身を伏せて隠れていた。
嘉徳海岸は嘉徳という過疎集落の裏にあった。奄美市がVR化を受注した、自然のままの海岸が残されている場所であった。広大な、女性の肌色をした砂浜。小さな河川が非常に静かに流れ込んでおり、削られ、運ばれた砂の美しい堆積があった。
時間が止まったかのようだった。静けさを伴って寄せては返す小波達。その不規則ながら母なる海が作り出す不思議なリズムに、まるでその透明な景色のように、心が静まり返り、澄んだ涼しい感覚を作り出した。太平洋と同化出来そうな感覚さえした。
「この村出身の歌姫で、元ちとせという人がいるんだ。もう70歳くらいだと思うけど。」
瀬下が言った。
「昔はメジャーで全国的に知られていた人で、奄美の島唄独自の歌唱法をするんだよね。今はそこの集落に戻ってきて住んでる。」
「へえ。」
数々の島唄コンテストで優勝して、世界に羽ばたく前の高校生だった頃の歌姫は、この海岸に向かって歌っていたらしい。奄美の美しい歌は、この静まり返って透き通った海岸から、太平洋に向かって永遠に飛んでいったのだ。
脱出当日になった。午前10時前に瀬戸内町を出発して北へ向かった。道中では瀬下の車でヒップホップを流しながら、身を潜めて中心部名瀬まで待った。
午前11時頃に、名瀬に入った。マスクで顔を隠しつつ、途中の商業施設で日用品や須藤の化粧品を購入した。須藤はトイレで化粧を済ませた。
庄野達の乗った車は、正午過ぎに時速40-50kmほどで笠利町に入った。天候は快晴だった。笠利町に入ると道路は海沿いを走るようになった。右手には、太陽光を透過してエメラルド色を発する太平洋の浅瀬と珊瑚礁の群れを臨んだ。道沿いにはソテツの木が等間隔で植えられ、時折現れる砂浜では観光客と見られる親子連れが、寄せては返す波の中でカラフルな浮き輪を抱えて戯れていた。陸側の左手にはサトウキビ畑が断続的に現れた。
窓を開けて走る車には、畑の乾いた幻想的な景色と、海の青くて淡い景色が同時に流れ込んだ。秋の南国の空気が、車の中にいる庄野達の髪や腕を気持ちよく、素早く撫でていった。
そこから10分ほど走ると、旧奄美空港跡に建てられた田中一村美術館に到着した。
美術館は、通常通り営業していた。庄野達は怪しまれないように、普通の客として正規のチケットを購入し、展示を見る体裁をとると決めていた。各々が入り口にある簡素な券売機に520円を入れ、緊張しながら係員に「もぎり」を受けて美術館に足を踏み入れた。
美術館の内装は木肌を出した床と白い壁、ガラスの大窓を使ったシンプルなデザインをとっていた。中央には浅くて広大な長方形の池が据えられ、澄んだ水が静かに循環していた。それらの簡素な組み合わせは、豊かな水を湛えた大自然の、静まり返った情景を描いていた。
余裕を持って出発したため、小型ヘリが到着する予定時刻まで2時間あった。庄野達は時間潰しも兼ねて、田中一村美術館を見学する事にした。
須藤は田中一村の絵画に素直に感激した様子だった。
田中一村は幼少期は早熟の天才と言われ東京藝大にも入学したが、退学し、画壇との折り合いがつかず名声はおちぶれ、死後まで才能が評価されなかった不遇な人物だと解説されていた。50代で奄美に渡り、数々の習作を経たのちに、その才能が爆発的に開花した。働いてお金を貯めては辞め、制作に没頭し、作品が出来てお金が尽きたらまた働くという、贅沢とは無縁の生活を繰り返し、やがて生涯を終えた。
順路の最後に、晩年の作品が展示してあった。奄美の自然をモチーフにした作品の数々は、自然の生きている感じ、生命のダイナミズムを鷲掴みにして、見る者の眼球に叩きつけたようだった。奄美の原生林、アダンの木、鳥の数々。自然の中で全身で生きるそのエネルギーを燃やしているさま。
その美術館では田中一村のキャリアの順を追って作品を展示していたが、須藤は観ている途中から涙を流し始めた。残りの3人も、奄美で表現の極限といえる領域に達した作品は確かに心に残った。
死後、残されていた作品がようやく展示会で一部の人達の目に留まり、それから「日本のゴーギャン」と言われるほどになったという。
時刻は30分前になり、4人は美術館を出た。
裏手にある滑走路へ向かおうとした時、前田市長による独立宣言が町内放送で発信されるのが聞こえた。
『奄美群島は、日本国から独立する決断を致しました。我々が建立するのは、『北琉球共和国』であります・・・。『北琉球共和国』に含まれるのは、奄美大島、加計呂麻島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島であります・・・。』
それを聴いていた三浦がははっ、と疲れたような笑いを発した。
「なんか、なんとなく、終戦の玉音放送を想起させるなあ。」
三浦は笑った。
「旧日本軍の終戦反対派の一部将校には、放送前に録音盤を強奪して終戦を阻止する動きがあったらしいよね。我々もそれは叶わぬ事であった・・・。」
三浦の冗談めかす癖は、深刻な時に限ってよく出たものだった。
4人は美術館の裏手に出た。目の前にある木々をくぐり抜けた向こうに旧滑走路があると教えられていた。
「今回は無理な話だけど、島の人間と関わりたかったな。」
三浦が木の枝を軽くかき分けながら呟いた。
「学問的なモチベーションもあるけど、それ以前に知らない土地に来たら、やっぱり生まれた時から土地と結びついた生活をしている人間ってどんな感じかなと気になってさ。こんな状況になってしまって・・・、それが出来るのはいつになるんだろうな。」
「そうだね・・・。また来たいね。良い場所だったと思う。」
庄野が呟いた。4人でこうして苦しくも楽しい数日間を過ごせた事にも満足していた。やがて旧滑走路とおぼしきコンクリートのだだっ広い場所が見えて来た。
「さて、着きましたかね?そろそろ小型ヘリが・・・」
「うわああああああああああああ!!!!!!!!」
庄野が絶叫した。
白塗りののっぺらぼうがそこに居た。雑草にまみれた滑走路の中央に、陣取っていた。
「あああああっ・・・・・!!!」
それを見た三浦が文字通り、腰を抜かした。コンクリートの隙間から雑草が猛烈に生えた滑走路に、体勢が崩れるようにして前乗りに倒れ込んだ。
「ちょっと!えっ、ちょっと!!ちょっと!!」
須藤が三浦を起こそうとして、駆け寄って肩を掴んでゆすった。そうしながら、視線を三浦とのっぺらぼうの間を必死に往復させた。白塗りののっぺらぼうは動かない。
「これはっ・・・・!!!!!」
「庄野っ!」
赤坂が庄野に叫んだ。動けない。何かの感覚がぷつりと停止してしまったかのようだ。
突然、隠れていたのか、美術館の建物の陰から急に人間の大集団が走って集まってきた。武器を構えた武装集団だった。
「うわああっ!!!!」
赤坂が武装集団の出現に叫んだ。
「見つかっていたのかっ。」
武装集団は庄野達から距離を取りつつ、包囲するように集まって来た。
「あ、あいっ、あいつらはっ。」
三浦が地面に這いながら、叫びをあげた。
「武装集団は傭兵か何かだったんだっ・・・!分かったぞっ。」
武装集団の一部は銃を持っていた。
「きっと市長と武装組織はグルだっ。市長は最初から独立宣言を出す目的で、襲われたふりをしたんだっ。」
大集団はさらに走って近づいてくる。のっぺらぼうの醜悪なフォルムが、庄野の全身にミラーボールのように放射状に悪意を発射して、動けなくしていた。
「じゃあ理事長はっ・・・?ヘリはまだっ・・・。」
「分からないっ、でもっ、この場所がバレているということはっ、も、もしかしてっ。そしてのっぺらぼう事件の犯人はっ・・・。」
前田市長は井口さんに何も教えてなかったせいで、作戦実行時によそ者の僕らを奄美に入れるというミスを犯したのかっ・・・庄野に聞こえた三浦の声はそこまでだった。意識は遠のき、世界がぐらりと揺れ、庄野の世界は、遠くに見える太平洋の水平線と平行になった。太陽の熱線を浴びて旧滑走路の地面から猛烈に生えている雑草の束が、目の前に急激にやってきて、頭蓋への衝撃とともに視界を暴力的にふさいだ。
よく見えなかったが、庄野達を包囲した大集団の中に、庄野には一つだけ、見覚えのある風貌があった気がした。あとの事は何も、分からなかった。あれだけ眩しかった世界は、暗くなってしまった・・・。
トップに戻る