「助ケテクダサイ。助ケテクダサイ。心肺蘇生ガ必要デス」
特に切迫感があるわけでもない、しかしハッキリとした力強い音声で、あたしは目を覚ました。重い瞼をこすりながら、ゆっくりと寝袋から這い出す。大きく伸びをして辺りを見渡すと、仰向けに横たわる人型ロボットと空になった寝袋が二つ。ナミはすでに起きているようだった。
「助ケテクダサイ。助ケテクダサイ。心肺蘇生ガ必要デス」
繰り返される音声。この声を目覚まし代わりに起きるのも、これで何回目だろうか。
「はいはい、分かったよ。今助けてやるから」
渋々ロボットの元へ近寄り、そばに置いてあるAEDの箱に手を伸ばす。電源を入れ、パッドを取り出し、所定の位置に貼り付ける。もう何百回とやってきた作業だからか、さすがに手慣れたものだった。解析が終わり電気ショックの準備が整った。
「離れてくださ~い。離れてくださ~い。危険ですよ~」
気の抜けた声を出しながら、あたしは腕を振るジェスチャーをした。周囲に誰もいないことを確認して、放電。まぁ、この星の住人は今のところ二人しか居ないのだが……訓練用とはいえ、本当に電流が流れる仕様なのだから困りものだ。
「心肺ノ蘇生ヲ確認シマシタ。アリガトウゴザイマス」
ロボットは自らパッドを丁寧に片付け、満足げに立ち上がった。AEDを大事に抱えて立ち去るその後ろ姿を、あたしはあくびをしながら見送った。“心肺蘇生なのに心臓マッサージは必要ないのか”だとか“そもそもAEDなんて過去の遺物、出くわす方が稀じゃないのか”だとか、その他諸々の疑問点は考えるだけ無駄だと悟るのには少し時間がかかった記憶がある。今でこそ当たり前のように受け入れられているこの惑星のユメと現実の曖昧な境界は、やはりどこかおかしく、そしてどこか魅力的だ。そんなことを再確認しながらぼうっと突っ立っていると、突然後ろから肩を叩かれた。
「コロちゃん、おはよ」
「うわっ!びっくりさせるなよ」
「うわって何よ、うわって」
不満げな顔を浮かべる声の主はナミだった。猫科獣人型ヒューマノイド、BN-073。あたしと同系統のヒューマノイドである彼女の頭頂部にあるとんがり耳は、両方ともこちらの方をしっかりと向き、あたしの弁明を待っている。薄く金色がかったガラスのような瞳を見つめ返し、あたしは答える。
「考え事してただけだ。悪気はなかった……というか普通あたしの方が怒る場面なんじゃないか?」
「ふふっ、確かにそうかも。ほら、朝ごはん用意出来てるよ。食べよ?」
口笛を吹きながら楽しそうに歩く彼女の後を、二人分の寝袋を持ってついていく。瞳と同じく黄金色の髪が、いつもより大きく揺れているのは気のせいではないだろう。今日は彼女にとって、この惑星にとって、そしてあたしにとって大きな意味のある一日になるかもしれないのだから。
「ちゃんと『離れてください!』って注意喚起した?」
「やったやった。やんねぇとずっと倒れたままなんだよ、アイツ」
「アイツって言わない。人体模型君(AED持参)ね。私なんて、ガバァって起き上がって腕掴まれたことあるんだよ」
「そいつは勘弁して欲しいな……」
人体模型君(AED持参)とは、あの口うるさいロボットを端的に表現した名前で嫌いではないが、いかんせん口に出すには長すぎるのが玉に瑕だ。彼女は自身が調整したユメに、ときにひどく独特なネーミングセンスで名を付けることがある。それは名付けたユメそのものと同じで、“なんとなくおかしい”魅力を持っていて気に入ってはいるのだが、わざわざ口に出す面倒さとは別の話だ。
「コロちゃんが倒れたらいつでも心肺蘇生してあげるね」
「アイツが持ってるAEDで、な。あれあたしらにも使えるのかなぁ」
「それはやってみないと分からないね」
「……試す機会がないことを祈るばかりだよ」
いつも以上に饒舌なナミとくだらない話をしながら小型船に乗り込む。銀色に輝く細長い球体のボディ。左右に広がる小さな直角三角形の翼。古来より引き継がれてきた、いかにもなデザインの、あたし達のホーム。当然ながら重力偏向システムによって駆動するので、どの時代にも一定の周期で流行するジェット機能はもちろん搭載されていないのだが、飛行時にはなぜかジェット機特有のエンジン音が機内に流れるようになっている。しかも最先端の音響システムで……だ。こんな変な機能を取っつけたのはもちろんナミなのだが、出会った頃には理解ができなかったその意味も、今では少し理解できる気がする。曰く、『必要だから』と自信ありげに答えたくせに、たまに『うるさい』と言ってエンジン音を消す彼女の自身のことはまだ分からないことが多いかもしれないが。
「そんじゃ、いただきます」
こじんまりとした機内のこじんまりとしたリビングスペースであたし達は食事を始めた。大きなソファーに並んで腰掛け、小さなテーブルに並べられた簡素な朝ごはんに手に付ける。馬鹿高い音響機器によって限りなくクリアな音で再生されているBGMは、最近μ-Si9星系で流行しているローファイなサイキックレトロ。お気に入りのサウンドがあたしの寝ぼけた頭に血を巡らせるのを感じる。覚醒した半電子脳が味覚で感じ取るのは、驚くほど味の薄い軍用レーションなのが少し残念な気分にもなる。
「あちゃ~このレーションは失敗だったね」
「だから言っただろ?Q-969の住民は舌に媚薬を塗りたくって生活してんだって」
「私もやってみるかなぁ」
「お好きにどうぞ」
銀河中の様々な星の軍用レーションを取り寄せ、朝食に食べるのがあたし達の最近のブームだった。今日のはワースト10に入るかもしれないな、なんてことを考えながら皿の上に鎮座する固形物を口に放り込む。Q-969は隠れたエレキギターの名産星であり、あたしの愛機Hexation-02の生まれ故郷でもある。“個性としての無個性”と称されるその音色は、単にクセがなく素直な音と誤解されがちだが、アンプやエフェクターの味付けがダイレクトに、そして過剰に乗る妖しい魅力を持っている。どんな色でも好きなだけ塗りつぶせる透明なキャンバスのようなサウンド。あたしが魅入られた音のルーツが、目の前の固形物にあるかもしれないと思うと、少し凹んだ。
パサつきに耐えられなくなった舌を救うためにグラスいっぱいの水をぐいと飲み、再び目の前のカロリーの消化に勤しもうとした時、あたしはひどく後悔した。かすかに感じられていた味が、微塵も感じ取れなくなってしまったのである。
「水よりも味のしないレーション、か……」
「あ、コロちゃんもやっちゃった?」
「味覚ってのはすぐ騙されるんだな」
「うわ~コロちゃんがなんか頭よさそうなこと言ってる」
どうやらナミも同じ過ちを犯したらしい。彼女はというと、開き直ってレーションにピーナッツバターを塗りたくっている真っ最中だった。
「お前それルール違反だぞ」
「今日だけ!今日だけ許して!面白いこと考え付いたから!」
“レーションはそのまま食べる”という二人の間の禁則事項をたやすく破る彼女に呆れてしまう。ピーナッツバターを見つめながらあたしは“ルール”と“共犯”を天秤にかけた。
「やっぱコロちゃんは我慢するんだ」
天秤に従って黙々と無味無臭の物体をかみ砕くあたし。信じられない程味のしない物体を口に入れ続けているせいか、電子回路が急激に味覚をブースとするのを感じる。恐らく水ですらMr.P(かの悪名高い強烈な味の炭酸飲料だ。飲んだことのない者は是非一度飲んでみることをお勧めする)以上の刺激をもたらすであろう今のあたしの舌でも、Q-969のレーションはまるで空気を噛んでいるような気分にさせられた。
「ルールは守る者を守る」
「至言だね」
「どっかの誰かさんにも聞かせてやりたいくらいだよ。これは貸しだからな。高くつくぞ」
「はいはい」
最悪な朝食を終えほっと一息をつく。よりによって今日に限ってこんなモノを食べることにならなくてもいいじゃないかと、あたしは少しナミを恨めしく思った。水ですら飲みたくなくなる気分を味わうのは貴重な体験なのかもしれないが、あたしにもタイミングというものはある。今日は大事な日なのに……まぁ二時間程ゆっくりできる時間はある。ソファに深く腰掛け、この貸しでナミに何を押し付けてやろうかとぼんやりと考えていると、遅れて食べ終えた彼女が不意に顔を寄せてきた。
「コロちゃん」
「どうした?あたしが何要求するか聞き……んぐっ」
言い切ることができなかったのはナミの口があたしの口を塞いだからだった。続けてぬらりと温かい感触が口内に入ってくる。彼女の舌があたしの舌に触れたその刹那、稲妻のような刺激が走った。ピーナッツの芳ばしさとバターの甘味が、濁流のように脳を駆け巡る。反射的に引き離そうとするが、過剰な味覚情報にマヒした脳ではろくに身体が動かない。あたしの反応を確かめると、意外にも彼女はすぐに口を離した。
「ばっかやろ、何考えて……」
わずか数秒の接吻で度肝を抜かれたあたしを見つめるナミ。その顔に不敵な笑みを浮かべ、彼女は細い指でピーナッツバターを掬い取り、見せびらかすように舐めた。
「コ~ロちゃん」
意地の悪い猫なで声。全身から冷汗が湧き出るのを感じるあたし。彼女は勝利を確信した瞳でこちらを見つめながらあたしの膝の上に跨り、首の後ろに腕を回した。
「ひ、ひぃ!やめ……ん゛っ」
再び重ねられる唇。今度はあたしの恐怖心を煽るかのようにゆっくりと舌が入ってきた。彼女の舌があたしの舌を撫でる度、脳に火花が散る。強張る身体を面白がっているナミが腹立たしいが上手く力が入らない。あたしのもどかしさをおちょくるように、彼女は舌の愛撫に緩急を付けてきた。
「んっ、んん……」
ピークをはるかに越えた電気信号。ナミが不規則に送り込むそれに脳は中々慣れることが出来なかった。完全に彼女のペースに飲まれる。のろのろと口内を逃げ回るあたしの舌を彼女が弄ぶ。追い詰め、泳がせ、優しく、激しく。ギターの弦をつま弾くように。増幅し圧縮された信号が、揺れるようなリズムで走り回る。フルテンのゲインで奏でられるメロディーで脳を殴りつけられるような感覚。0と100を繰り返す甘味と芳味。脈動する信号に、歪んだ波形に、回路が、理性が、攪拌される。どこか心地よさを伴った悲鳴を上げる脳。ナミがわざとらしく用意する空白に耐えられなくなり、あたしの舌は彼女の舌を求めた。
「んっ……んっ……」
追う側から追われる側になった彼女の舌は、それでも余裕を失うことはなかった。さっきまでのはちゃめちゃな演奏とはうってかわって、今度は繊細なニュアンスで彼女は演奏を続ける。あたしを試すように空白を滑らかにつないできた。触れ合う舌の面積を丁寧に操ることで細分化された甘味と芳味が、うねる波のように脳に流れ込んでくる。サスティーンを効かせた艶のある刺激が、妖しく、執拗に、あたしを誘う。理性を振り回す途切れることのない電気信号が粘り強くクレッシェンドされてゆく。あたしの舌が彼女の舌に飼いならされていくのを感じる。鳴り響く刺激で脳が焼き切れるような痛みに恍惚を覚えそうになったその瞬間、彼女の舌があたしの舌にひたと巻き付いた。
「んんんんんんんん!!!」
缶いっぱいのガムシロップを飲み干したような感覚で、あたしは意識が飛びそうになった。吐き気を催すほどの甘味の暴力に耐えきれず、痺れる腕を何とか動かしてナミの太ももを必死に叩く。ギブアップ。
「ぷはぁ!はぁ、はぁ……殺す気か!」
生まれてこの方、死の危険を感じた場面には何回も出くわしてきたが、キスで死ぬような思いをしたことは初めてだった。
「どう?」
悪戯っぽく笑ってそう尋ねるナミは心底楽しそうだった。
「……訂正する。Q-969の住民は媚薬を食って生活してる」
「そうじゃなくて。味はどうだったって聞いてるの」
「あぁ……甘すぎるのも考えもんだな。ピーナッツバターはしばらく無理だな……少なくとも一か月は」
「それはよかった。じゃあ片付けは私がやるね。コロちゃんはゆっくり休んどいて」
珍しくうろたえるあたしを尻目に、満足げに立ち上がりテーブルを片付けるナミ。上機嫌なその後ろ姿ぼんやりと眺めながら、あたしはため息をついた。
彼女が見せるユメと現実は、どちらもやはりどこかずれている。それを飽きることなく体験できる今のあたしは、確かに幸せなのだろう。繊細で、優しくて、奇想天外なこの星の管理者。彼女というあたしにとってのユメを、これからもあたしはちゃんと守っていけるだろうか……疲れ切った頭でそんなことを考えていると、不意に抗いようのない睡魔に襲われた。味のしないレーションから生まれた濃厚な体験は、思ったよりも脳への負担が大きかったらしい。身体の欲求に素直に応えようとソファの上に横になり、落ちた瞼の裏に映るのは、初めて出会った時の彼女だった。
『Realizer』
ユメと現実が混在するこの奇妙な惑星で、あたしが彼女と出会ったのは今から二年前くらいのことだった。今になって思えば、彼女と会ったきっかけは前職の警備部長の独り言だった気がする。
「なんか疲れたな……」
それは……ルーティン化された休憩時間に、何気なく、誰に発したわけでもなく、虚空に吐き出された言葉で……それゆえにハッキリとあたしの鼓膜を揺らした。当時あたしが抱えていた鬱屈とした、しかし耐えきれぬほどではない、もやのかかったような感情。うっすらととぐろを巻き、時折あたしの心に湧き上がる黒煙。その黒に手を伸ばせない理由が分かった気がしたあたしは、ひどく高揚していた。
「警備長。あたし決めました。今月いっぱいで辞めます」
考えるよりも先に口から出た言葉は、存外に明瞭な声で発せられた。
「えっ!?056ちゃんちょっと待っ……」
「大丈夫です。有給はちゃんと消化してるし、契約上問題ないはずなんで。んじゃ頼みますよ」
動揺する警備長とは対照的に、あたしは晴れ晴れとした気持ちでその日の勤務を終えたのを覚えている。勿論、職にあぶれたヒューマノイドを拾ってくれた彼に申し訳ない気持ちがないわけではなかったし、ガードマンという仕事に飽きたわけでもなかった。世間一般的なイメージとは対照的に、惑星S-110の警備業は広範で、複雑で、時に危険な、程よく刺激的な仕事であり、むしろあたしはそれを好んですらいた。
そう、満足していたのだ……少なくともあたしの一面は。ちょっぴり刺激的な仕事の合間に街角で己の感情を奏でる毎日に。代り映えしないと言い切れない程度の緩い周期性を持った生活に。自身を形成する一面と受け入れられる程に。この広大な宇宙の中で、一人のヒューマノイドが体験するには充分な景色だと。
一方で、その程よく満足のいく生活に疑問を唱える一面も、うっすらと自覚していた。あたしが見る景色はあたしだけのものなはずなのに。あたしの抱く感情も、描く心象も、手前勝手なものさしで測れるものではないのに。誰かが思い描いたような生活に、誰かが思い描いたような理由をつけて、飼いならされていいのか……と。その、何者でもない何かであろうとする自分勝手なあたしの一面は、時にあたしの心に漆黒の渦を巻き上げていた。
そしてその漆黒に身を委ねられない理由が“理性”ではなく“疲労”にあるならば、一度全てを手放してしまおうとあたしは決めたのだった。どうせならS-110からうんと離れた別の星で、なんなら変化についていけないほどの環境で、新しい暮らしを始めよう、と。誰しもが通るかもしれない、あるいは誰しもが避けたがるかもしれない、所謂“自分探し”をやりたくなったのだ。“自分探し”なんて言うと陳腐に聞こえるが、自身の衝動に正直になったあたしの目には、全てが輝きを取り戻したように見えた。まぁなんとかやっていけるだろう、黒は元々好きだったし……なんて楽観的な新たな仕事探しが始まったのである。
「KB-056様。そろそろ決めテ欲しいのデスけれど」
「ん~、他にはなんかないのか?もっと面白そうなやつ」
「ないない、ないデスよ。ワタシだって銀河キャリアカウンセラーの端クレ、この一週間みっちり探シテご希望に添えそうナ仕事ハ全て紹介した上デノ『決めてほしい』なんデスから」
「そうは言ってもなぁ……」
そう……そうは言っても世の中は甘くはないのである。当然、自己都合でなんとなく仕事を辞めた(当人にその気はなくても……だ)ヒューマノイドが好き勝手に仕事を選べるわけもなく……全宇宙規模で職探しを手助けする就職斡旋所『銀河キャリアセンター』、その受付であたしはため息をついていた。
「それはワタシの台詞デスよ。さらなる選択肢となるト、KB-056様に提示シテ頂イタ“これだけは譲れない条件”のいずれかニ抵触スルことになりマス。それでも宜しけれバ、ワタシも喜んで提案致しますガ……」
「う~ん……」
担当の受付ロボットHW-665に難色を示すあたし。事実、この妙に労働者の心理に理解のあるロボットは、相談を持ちかけてから一週間、あたしの条件にマッチした数多くの仕事を探し出してくれていた。そのどれもが確かに“やってもいいかな”と思えるものではあるのだが、今一つ決め手に欠ける感じがして中々決めきれないあたしは、贅沢が過ぎるのかもしれない。
「なぁ。もう少し刺激的でちょっと変わったもんとか……」
「それならいっそのコト原星Eで娼婦でもヤリますか?Earthデハ今獣人ブームが再燃してイテ、比較的ライトなものカラ変態御用達レベルのマニアックなものマデ、その手の仕事ハ選び放題デスよ。KB-056様は猫科獣人モデルの中デモかなり人間の方ニ寄せているモデルですカラ、原星民にも受けがイイと思われマス。特にType-Oの顧客ニハ」
「猫なで声で原星民を慰めてあげろってか?」
「ソノ認識は間違っていないト思われマス。ニャオーン」
「うるさい」
猫の鳴き声を再生しふざけるHW-665の頭部を叩く。原星E……通称“地球”は人類発祥の地としてよく主張される惑星だ。原星民は人類のルーツ(真偽は定かではない)としての誇りを持っており、長い長い宇宙史の中でしばしばその排他的な傲慢さを遺憾なく発揮してきた過去がある。しかしながらそんな歴史を持つ原星もここ数千年で開放的な対外姿勢を見せており、その原因はType-O(オタク的消費志向者)と呼ばれる少々特殊な消費傾向を持つ消費者層にあると言われている。Type-Oは強い好奇心と偏った嗜好傾向、貪欲で傲慢な消費スタイルを併せ持つことで有名であり、原星以外の消費者にもしばしばこの単語は使われることがある。もちろん、良い意味でも悪い意味でも、だ。
「イイじゃないですカ。だいぶ刺激的デかなり変わった仕事デスよ。Type-Oは金払いもイイと聞きマスし。その分行キ過ギタ要求モ多いとも聞きますケド」
「強く叩き過ぎたかな……」
原星民に玩具にされ変なものを突っ込まれるくらいなら、鉛玉をぶち込まれる方がマシだ。まぁ本来のヒューマノイドの用途としてはふさわしいのかもしれないと思うと、少し悲しくもなるが。せっかく機人としてその権利を認められつつあるヒューマノイドが、長い歴史の中で積み上げてきた垣根を破壊しやっと新たな時代を迎えようとしている原星に、わざわざ奴隷のように扱われに向かうなんて皮肉が過ぎる。そもそも他人の身勝手な理想として消費されるなんて、仕事でもまっぴらごめんだ。
「原星ではキャバクラなるものもアルと聞きマス。こちらハ比較的……」
「あぁ~分かった分かった。もういい」
「冗談デス。しかし……それくらいシカないというのガ、正直な所でもアリマス」
「だよなぁ……」
「ドウでしょう?先日ピックアップして頂イタ、U-531でのバー勤務、T-28での掘削アシスタント業務、ならびにA-42での戦争代理業務の中から選ブというノハ」
「それが現実的なライン……か」
「肯定しマス」
深く頷くHW-665。
「勿論、新タナ選択肢を待ツ、というノモ考えられマス。しかしながら、ワタシが提示シタ職務は、KB-056様のガードマンとして培ってキタ身体能力、コミュニケーション能力、パーソナリティ、容姿、及ビご自身の望ム条件、それら全テを鑑ミ、考慮シタ上で、全宇宙カラ探し出シタ仕事デス。待ったカラといって大きく変ワル可能性ハあまり見込めナイ、というノガ率直な意見デス」
大きくうなだれるあたし。HW-665の言葉に嘘はないだろう。論理的で合理的なビジネスとしての斡旋は、それゆえに信用に足る冷徹さを伴うものだ。むしろ、労働資本としての評価以外にも、あたしの希望条件を物差しに加味してくれた分、HW-665には感謝するべきなのかもしれない……なんてことを考えながらも、煮え切らない表情で手元の書類をねめつける。
「じゃあ、この……」
「アッ!少々オ待ちクダサイ」
仕事を選べる立場にある分、いくらかマシ。そう自分に言い聞かせ、やっとの思いで吐き出したあたしの言葉は、不意にHW-665に遮られた。不満げなあたしを尻目に、HW-665は慌てた様子で手元の端末を操作する。わずか一週間の付き合いではあるが、このロボットが取り乱すのは初めてだった。その理由を考えようとして、上司の汚職の発覚以外を思いつかなかったあたしは、己の妄想の貧困さに少し感傷的な気分になった。
「KB-056様。一つ、提案がありマス」
「朗報、ではなく?」
「ハイ。提案、デス。ひとまず一読シテもらえレバ、分かるかト」
そう言って渡された一枚の書類に目を通す。給料はかなり良い方だ。就業場所は惑星φ-00。聞いたこともない惑星だが、名も知らぬ星などごまんとあるわけでさほど問題ではない。就業員はあたし含めて二人。惑星の人口もあたしを含めて二人。開発予定の惑星か、あるいは企業の実験にでも使われている惑星なのだろうか。住み込みという条件もあたしにとっては別に問題ない。定期的に輸送船が来るらしく、特別不便な思いもしなさそうだった。不定休ながら、ゆっくり休むことも出来そうだ。命の危険あり、となっているのも許容範囲。今時この項目を気にしていては一生働けない。その他の条件も特に悪いところはなく、理想的な仕事のように思えた……ただ一点を除いては。
「この……業務内容なんだけど……」
「ハイ。そこなんデスよね」
「“ユメ見る星の管理”ってなんだ?」
「そうなんデス。ワタシも理解が出来ズ……発行元に問イ合わせてみましたガ、ただ文字通りノ業務とだけシカ伺うコトが出来ませんでシタ」
「なるほどねぇ……それで朗報ではなく提案、と」
そう。一体何に従事するのか全くと言っていいほど分からないのだ。この手の“読めない”求人は幾度となく目にしたことはあるが、“意図まで読めない”求人は初めてだった。騙すにしてもその手段としては余りにも粗雑。一周回って本気で書いてるんじゃないかと思えてきそうになるくらいに、読む人を困惑させる奇天烈な文字列だ。
「それトもう一つ、KB-056様の耳に入れてオキたい情報がありまシテ」
眉を寄せ考え込むあたしに、HW-665は続けた。
「この求人、我ガ社デモ……いや、斡旋業界隈デモ有名でシテ……その、都市伝説みたいな意味デ。過去にも突然出てきテハ消えてるんデス。しかも今回みたいニ、仕事ヲ決めあぐねている人がイル時ニ。狙いすましたようニ」
「ふ~ん……」
きな臭い話だった。HW-665がわざわざそこまで喋るとは、彼も相当疑っているのだろう。
「ちなみに聞くが、この仕事……引き受けたヤツはいるのか?」
「それはコンプライアンス上、お答えスルことは出来まセン」
「はいはい」
「デスがまぁ……悪イ噂ヲ耳にしたコトはナイ、とダケはお伝え出来マス。ただただ不気味な事デ有名なのデス」
逡巡するあたし。それを見つめるHW-665。あたしの心の中に黒煙が巻きあがるのを感じる。
「分かった。決めた。これにする」
「正気デスか?」
「お前なぁ……お前がそれを言うか?」
いともたやすくあたしに全てを手放させた漆黒は、新しい食い扶持に1から10まで分からない仕事を選んだ。見る人が本気に出来なくなるほど食えない求人を。食えないというただ一点の理由で。本能でも理性でもなく、ただただあたしにとっての愉快さを大事にする黒煙に身を委ねるのは心地よく、未来への活路が開かれた錯覚さえ覚える。
「分かりまシタ。すぐニ手続きを済ませマス」
「頼んだ。それと志望理由には、“食えない食い扶持”とだけ書いてくれ」
「ハァ?もしかしてホントに正気ヲ失ってマス?」
「ははは……かもしんねぇな」
呆れた様子で手続きを進めるHW-665。
「承認ヨシ。手続きを完了しまシタ」
「はやっ!」
「デハ早速KB-056様ニハ当ビルの屋上に向かって貰いマス。十分後、契約先ノ宇宙船が到着するノデ搭乗してクダサイ。荷物等ノ相談ハそこデお願いしマス」
「はぁ?」
誇らしげに胸をはるHW-665に今度はあたしが呆れる番だった。
「我々、銀河キャリアセンターは迅速、確実、丁寧な就業をモットーにシテおりますノデ」
「……分かったよ。世話になったな」
三つ目に関しては少し疑問が残るが、この殊勝なロボットは会社のモットーをきちんと遵守出来ているらしい。
「今後モ職務上ノ相談ハ公宙域回線での通話ニテいつデモ受け付けておりマス。五分を超過シタ分に関してハ別途料金がかかるのでゴ注意ヲ」
「五分じゃ一人しかいない同僚の文句も充分に語れねぇよ」
「ハハハ。その必要がナイことヲ祈りマス。それデハ、ご武運ヲ」
「おう。お前もな」
そうして、不器用に手を振るHW-665に見送られながら、あたしは屋上行きのエレベータに乗り込んだのだった。
惑星φ-00。それは宇宙の外縁、事象の地平面から近い所に存在する小さな星だった。あれよあれよという間に搭乗した宇宙船から見たその星は、別段変わった様子もなく、強いて言えばかの悪名高き原星と同じく海があることに少し興味が湧いたくらいだった。
「つまんなそ」
わざと隣に座るセキュリティに聞こえるような声量で、オブラートをどぶに捨てたような独り言を呟いたのには理由がある。ここまでの道中、適性検査として訳も分からない心理テストやら身体テストやら言語テストやらなんやかんやを、休む間もなく狭っ苦しい船内でやらされたストレスだ。擬似越光潜航システムによってここまでにかかった時間はたかだか三時間程度ではあるものの、その間水も飲めずにぶっ通しでテストを受けさせられれば文句の一つくらい言いたくなるもの。ちらと隣を見ると、セキュリティの被るフルフェイスヘルメットに自分の不機嫌そうな顔が映り、あたしはため息をついた。
「もうすぐ到着だ」
「もう少しさぁ……何とかならないわけ?はなから期待はしてないけどさ。嘘でもいいから頑張れ~とかさぁ」
「目標到達は五分後を予定している」
「へいへい」
必要なこと以外は一切口に出さないセキュリティは、最後までその仕事熱心な姿勢を崩さない決意を固めているようだ。無機質で無感情な対応。仕事においてそれは確かに光る場面も多い。言語は通じても意思の疎通は出来ない相手に、自身もよくそんな対応をしていたことを思い出し、あたしはさらに嫌気がさした。
「大気圏ニ突入シマス。繰リ返シマス。大気圏ニ突入シマス。搭乗員ハ着座及ビ固定ヲ願イマス」
いけ好かないセキュリティとあたししか乗っていない静かな、それはもう静かな船内に、自動操縦システムからのアナウンスが鳴り響く。続けて宙に身を放り投げたような浮遊感が一瞬だけ身体を襲った。船内の仮想重力と惑星の重力のバランスを調整する時に生まれるこの、刹那の違和感にはまだ慣れていない。尻尾の毛が逆立つのを落ち着かせようとあたしは窓の外を見やった。海、砂漠、森……点々と人工的な建造物も見受けられる。宇宙から見た時とは違い、意外にもこの星の環境はバラエティに富んでいるらしい。
「再確認だが、職務については現地に居る我が社の職員に全て一任している。お前の教育も、だ」
「サーイエッサー」
「最後に何か質問はあるか?」
「あるわけ……いや、ちょっと待って」
このセキュリティに何か一言でも会話をさせたい……そんな子供っぽい意地が生まれ、あたしは思考を巡らせた。仕事に関係があり、かつ、あたしにとってどうでもよくはないこと。先刻自身が口にした同僚の文句という言葉を思い出し、あたしはセキュリティに尋ねた。
「なぁなぁ、その職員ってどんなやつなんだ?あたしの上司になるんだろ?」
「ん?そうだな……彼女は……お前に似ている」
無口な同乗者に一矢報いた気分になりあたしは少し嬉しくなった。
「似てる?」
「そうだ、似ている……不機嫌が顔と態度に出るところ以外は、な」
「てめーこんにゃろ!」
「はははっ!冗談。冗談だ」
不意にカウンターを食らい怒るあたしを、セキュリティがなだめすかす間に船は地表に辿り着いた。開いたハッチから流れ込んだ風が、あたしの髪を小さく揺らした。恐らく人工的に作られたものである日の光が、照度の低い船内に慣れた目には少し眩しい。
「じゃあ、オレの仕事はここまでだ。うまくやれよ」
「はぁ~もう最悪」
ハッチから惑星に降り立ち、まずはぴょんぴょんと跳ね重力の塩梅を確認する。続けて大きく息を吸い込み大気の確認。いずれも長らく住んでいたS-110と大きく違いは無いようだった。気温の方も問題なし。ひとまず環境の方は許容範囲内だと分かり、少し安心した。宇宙船の駆動音が聞こえ振り向くと、食えないセキュリティが閉じるハッチ越しにこちらにサムズアップをしているのが見えた。ハッチが完全に閉じるまであたしはしっかりと中指を立て返し、改めて辺りを見渡した。
正面には十階建てほどの灰色の建造物。振り返ると点々と緑が存在する荒地。その先には大小さまざまな山々が。頂上に雪が積もっているものも見受けられ、環境の豊かさが感じられる。青々とした空には、大小さまざまな白い雲と、ご丁寧に映像化された太陽が浮かんでいる。宇宙から見た海も鑑みると、観光星として自然を売りにしているどこそこの惑星よりもよっぽど住みがいがありそうだった。建造物の方へと視線を戻すと、こちらへ歩みを進める一人の人影が見える。その姿にあたしは意表をつかれてしまった。
黄金色の緩くカーブしたショートボブ、同じく黄金色のガラスのような瞳。白のタンクトップに、大きめの黄色のスポーツパーカーを肩が出るくらいにラフに羽織っている。ボトムはショート丈のデニム。ビビットカラーの靴ひものスニーカーが良いアクセントになっており、トータルで見るとかなり洗練された印象を受ける。ただ、あたしが驚いたのはそんな彼女のファッションセンスに対してではない。髪型、色、服こそ違えど、猫耳、爪、背丈、獣化度合……全体的なプロポーションがあたしと酷似しているのだ。同系統の猫科獣人型ヒューマノイドとは今まで幾度となく出会ったことはあるが、ここまで似たモデルに出会うのは初めてだった。まるであたしのマイナーチェンジのような彼女は、少し気の抜けた調子で話しかけてきた。
「やっほ~。君が新しく入った子だよね……って大丈夫?私何か悪いことでもした?」
「あ、いや……おほん」
驚きが顔にも出てしまっていたのだろう。少しばつが悪い気分で咳払いをするあたし。
「まぁいいや……私は君と同じヒューマノイド、BN-073。ナミって呼んで。君は?」
ヒューマノイドが機体番号とは別に、人間のように名前を使うことは珍しくはない。記号は、時に便利でもあるが、時に味気なくもあるものだ。
「KB-056」
「ふんふん、なるほどねぇ……じゃあ、コロちゃん」
「は?」
「君のことはコロちゃんって呼ぶ事にする」
満足そうに笑みを浮かべる目の前のヒューマノイドに、あたしは遠慮もなく怪訝な表情を浮かべてしまった。
「あのなぁ……生まれてこの方、コロなんて名前でよばれたことはないし、大体どっから来たんだその名前」
「原星の古~い島国の言葉だよ。数字にもじりで言葉を当てる文化があるんだ。ナミもそっから取ったの。いいでしょ?」
自信満々でふんと鼻を鳴らすナミ。呆れて物も言えないあたしに、彼女は手を伸べる。
「それじゃ、よろしくね。コロちゃん」
「はぁ……まぁ、よろしくな。ナミ」
気が合うかどうかはさておき、ナミから特別嫌な雰囲気は感じ取れない。あたしがしっかりと彼女の手を握り返したその時、ほんの数秒だが視界がぐらついた。困惑するあたしの反応を楽しむように眺めるナミに訊ねる。
「お前……なんかしたか?」
「魔法をかけたの。この星で仕事をする為の大事な魔法」
「変なもんだったらタダじゃおかないからな」
「大丈夫だよ。そうだ、説明がてらこれをあげる」
そう言ってナミが渡してきたのは彼女が被っているものと同じキャップ帽だった。ただ一点、彼女のものと異なる点があり、猫耳を出すための頭頂部の穴が無い。当然、あたしの耳をぺしゃんこにしない限りは、この帽子を被ることは出来ない。
「被ってみて」
「はぁ?」
「いいからいいから」
言われるがまま帽子をゆっくりと被る。するとどういう訳か、あたしの両耳はいつの間にか帽子に生まれたふたつの穴によって、きちんと帽子の外に出たのだ。わけがわからず混乱するあたしに、ナミが続ける。
「びっくりした?」
「し過ぎて何も言えないくらいには」
「じゃあ、歩きながらゆっくり説明するね」
そう言って建造物の方へと歩く彼女に付いて行きながら、理解の範疇を遥かに越えたこの星とこれからの仕事について、あたしは教えて貰ったのだった。
「それで、ユメの管理……ね」
ナミが『塔』と呼ぶ建造物の中にあった、小さな応接室で、あたし達はゆったりとティータイムを楽しんでいた。
「まぁ管理って言い方は好きじゃないけどね。私達は夢をユメにするだけ。誰かが見る夢を、誰かに見せるユメに変えるの」
「夢をユメに、か」
彼女曰く、この星は遠い過去に人類が生み出した、とある装置の成れの果てらしい。『夢を現実にする』という馬鹿げた目標を掲げ、全宇宙の叡智を結集し推進された『D』と呼ばれるプロジェクト。その最終的な成果として生まれた『Realizer』という名の、科学すら超越する装置。それがこの星の実態だった。夢を現実へ置換する……人類は神へと到達するかもしれない可能性を見たのである。
しかしながら念願の装置を作りあげることに成功したにもかかわらず、プロジェクトは中断されてしまう。夢を現実にする夢のような機械。それが現実に及ぼす影響は当然予想がつかないものとなり、膨大な時間をかけた試験運転の結果、Realizerは停止を命じられたのだ。ただ、製造からあまりにも長い年月が経っていたせいか、半ばブラックボックスと化していた動作機構を完全に止める手段は失われており、機能を大幅に制限した状態での稼働に留めざるを負えなかった。その結果が今の惑星φ-00、という訳だ。
本来と比べて1割にも満たない能力しか発揮出来ないRealizerはそれでも、全宇宙からあらゆる夢を無作為に現実へ置換する。そもそも置換の頻度自体が稀になってはいるものの、ふとしたはずみで宇宙を破壊しかねないシロモノが発現されてはたまらない。流石に手放しに稼働させる訳にも行かず、星を管理する者がどうしても必要だった。
そこで、Realizerが自ら自身の安全装置として生み出したヒューマノイドBN-073、現実へと置換された夢に調整を加えることの出来るナミが、管理者として選ばれた。とはいえ、星の管理を星の者がする、というだけでは心もとない。Realizerの管理を任されたD社は、ナミに加えてもう一人一般人にもこの星の管理をさせる事を決め、何回にも渡る交代を経てその枠にあたしが入り込んだ、という訳らしい。
「じゃあ、あたしは何人目の管理者なんだ?」
「う~ん何人目だろ……きちんと覚えてない」
惑星55Tから取り寄せたという高級茶を啜り、ナミは続けた。
「過去にはコロちゃんみたいにヒューマノイドもいたし、純粋な人間もいた。コロちゃんは……」
そこで口をつぐむナミ。伺うような、試すような目であたしを見つめる彼女。待っても中々出てこない続きの言葉が気になったあたしは、辛抱出来ず口を開く。
「なんだよ。気になるだろ」
「ごめんごめん。コロちゃんは何年で辞めるかなぁ~なんて」
「お前……会った初日にそういうこと言う?」
「ははは、冗談だって」
両耳をひくひくと動かしながら笑う彼女。どうやらこれから一緒に働くことになる同僚は一筋縄ではいかないらしい……あたしの闘争心に火が付くのを感じる。困難は挑戦に置き換えて楽しむべきもの。そして難易度が高ければ高いほど面白い。
「他のやつらは何年で辞めてんだよ」
「ん~大体ニ、三年かな~。ブレ幅あるけど」
「じゃあ最低十年はこの星に居座ってやる」
「あはは。まぁのんびり頑張ってこ」
紅茶をぐいとあおるあたし。それを笑いながら見つめるナミ。その瞳に幾ばくかの寂しさを読み取れたような気がしたが、思い違いだろうか。
「じゃ、試しに私が調整したユメを体験してもらおうかな」
そう言って部屋の壁際のテーブルに並べられた小ぶりな機械群の元へと向かうナミについていく。一番左側に並べられた金属の箱を指差し、彼女は説明を始めた。
「これは名付けて“感情イコライザー”」
「感情イコライザー?」
箱をよく観察すると側面に一つのスイッチと二つのノブがあることを発見した。各々のノブの下に、“warm”“dry”と書いてある。このイコライザーはどうやらパラメトリックかつ2バンドのかなりざっくりとしたものらしい。
「あたしはせめて4バンドは欲しいんだけど」
「ん?何か言った?」
「何でもない。それで?」
「これはね、スイッチを入れた人の……試してもらう方が早いね。えいっ」
そう言ってあたしの手を掴み、あたしの指でスイッチを入れさせるナミ。
「ちょっ!」
続けてナミが、0~10まで付けられた目盛りの内、warmのノブを3、dryのノブを7辺りまで捻る。しばらくすると装置の小さな駆動音とともにあたしは落ち込みそうで落ち切らない奇妙な気分になっていくのを感じた。目の前にタスクがあって、やる気があるのにいざ行動までは移せない、そんな時の気分。
「どう?洗い物やらなきゃ~って思ってても中々やれない時の気分になってきたでしょ」
「ピンポイントに変なセッティングにするなよ……」
あたしは自分の気分を確かめつつ、二つのノブをゆっくりと上げ下げした。なるほど、感情イコライザーとはよく言ったもので、この装置はどうやら感情の特定の性質をかさ増しあるいは減退させる事ができるらしい。ひとしきり試し、満足したところであたしはスイッチをオフにした。
「大体分かった。これ、どっちもフルテンにしたらDV男とメンヘラ女が同居したような気分になりそうだな」
「うわ~コロちゃん大正解。この仕事向いてるかも」
何とも言えない賛辞を微妙な表情で受け取るあたしに、ナミはつづけた。
「これはね、元は人の感情を操る装置っていう夢だったの。それに過度な色付けが出来ないような制限と、電源を入れた本人の感情にしか影響しない制限を私が加えたユメ。発現した時に付いてたアホみたいな数のノブも、ついでに統合して二つにして」
「まぁ、選択肢は多ければいいってもんでもないからな」
「結構大変だったんだからね?適当に色んなノブ捻ってたら怒りを助長されて壊しそうになったりとか」
あたしは色んな感情に振り回されながらこの装置と格闘するナミを思い浮かべて、苦笑いをした。
「でも、なかったことにするにはもったいない夢だから……ちょちょっと調整を加えてユメとして生きてもらおうってわけ。それが私たちの役目」
「なるほどな」
感情イコライザーに目を向けると、その金属製のボディーが誇らしげに輝いたように見えた。
「お次はこちら“入れ替わりシミュレーター”」
そう言ってナミはイコライザーの隣にある、これまた小ぶりな装置をぽんぽんと叩いた。操作系統は正面にスイッチが一つある以外は何も見当たらない。人のマークが二つあり、それを結ぶように双方向の矢印が描かれているのに気づき嫌な予感を覚えているあたしに、ナミは笑いながら続けた。
「コロちゃんは慎重だね。ま、これも体験してもらう方が早いから……えいっ」
「お前っ!」
ナミが躊躇いもなくスイッチを入れた。身構えるあたしの予想に反し、何か特別な事が起こった気配はない。ほっと一息をつく。
「これはね、作動させるのに儀式が要るの」
「儀式?」
「アァ~コノママダト学校ニ遅刻シチャウ~」
棒読み口調でナミはそう言って、突然あたしの額と彼女の額をぶつけた。鈍い音とともに刹那の違和感が、とっさに目を瞑ったあたしの全身を走る。
「いきなりなにすんだ……って」
目を開き彼女に抗議しようとしたところであたしは絶句した。目の前に立っているヒューマノイドは……深紅のロングヘアに深紅の瞳、黒のニットセーター、ダメージ加工されたデニムに、軍用ブーツを履いているヒューマノイドは……他でもないあたしだったのだ。
「なんだこりゃ」
気の抜けた台詞は、目の前のあたしの口から発せられる。
「びっくりした?この装置は対象を入れ替える機械なの。対象の視界だけを、ね」
ナミの声がまるで自分から発せられたように感じて、混乱しそうになる。攪拌された頭を整理するように、あたしは自分の考えを口にした。
「つまり、今のナミとあたしは……身体の制御権はそのままで、視覚情報だけが入れ替わってる状態……?」
「そういうこと!いやぁ~コロちゃんは筋がいいね」
「いや、これでも充分困惑してるんだが……」
理屈は分かっても、目の前にある己の身体がぎこちなく喋る様を見るのは中々に違和感を拭えない。まるで制御権のないカメラ越しに、自分身体を操る様な感覚……あたしの思考を読んでか、わざとらしくきょろきょろと周りを見渡すように視界を動かすナミが憎い。
「……早く戻してくれ」
「効果は一分だからそろそろ戻るはずだよ……ほら」
一瞬だけ目の前がぐにゃりと歪んだ後、あたしの視界はあたしの身体へと帰ってきた。確かめるように己の体をさするあたしに、ナミが説明を加える。
「元々は身体を丸ごと入れ替える夢だったんだけどね。ちょっと危険な匂いがしたから多少制限を加えたの」
「変な儀式とやらはお前の趣味か?」
「違う違う、あれは元からの仕様。突発的に、意図しない額の接触が起こると作動するって点は、この夢の核心だと思ったから手を加えてない。私が用意したセーフティーは効果時間と視覚に限るってとこだけ」
「核心……核心ねぇ」
「夢にはシチュエーションも大事なの」
奇妙な体験を生み出した装置を見つめる。彼女の語る夢の美学は、あたしにはまだまだ理解出来ない所が多いようだ。スイッチを切ると満足そうな音を立てて入れ替わりシミュレーターが停止する。考え込むあたしの背中を叩き、ナミは言った。
「ま、じきにコロちゃんも慣れるよ。それじゃお次は……」
それからもナミによるユメの実演は続き、奇想天外なそれらにあたしは存分に振り回された。理屈では説明出来ない、時に難解なユメ。それらはただただあたしに己の持ち味を見せるばかり。しかし、あたしは不思議とそれらを憎むことが出来ない自分に気が付いていた。理解の範疇を超えたユメは、それゆえに理解すら必要とせず、あたしにありのままを享受させてくれる。細かいことは気にせず身を委ねるしかないユメの数々は、ある種の心地よさを伴ってあたしを揺さぶり、まるでその反応を楽しんでいるようだった。
応接間にある最後のユメの説明を終え、一息入れようとしたところで突然部屋に一体のロボットが入ってきた。手にはAEDと書かれた箱を持っている。疑わしげなあたしの視線を全く気にすることなく、そのロボットはあたし達の目の前に仰向けに寝そべり、叫んだ。
「助ケテクダサイ。助ケテクダサイ。心肺蘇生ガ必要デス」
「ナミ、あたしの頬つねってもらってもいいか?」
「あ~……後でしっかり説明するね」
余りにも理解できない状況に、呆然と立ち尽くすあたしの前で、ナミはてきぱきと応急手当を始めた。AEDなんて宇宙博物館(文句なしに宇宙一の規模の博物館だ。全宇宙のありとあらゆる歴史が詰まっている)で見たことはあっても、実際に使われているのを見たのは初めてだった。確か電流を流すことで、停止した心臓を動かすものだったはず。原星E発祥の、生身の人間にしか使えない救護装置……可能な限り自分が理解できる事だけを考えることに努めていると、一連の作業は終わったみたいだった。少しほっとする。
「心肺ノ蘇生ヲ確認シマシタ。アリガトウゴザイマス」
「うんうん。じゃあね」
AEDの箱を大事そうに抱えて、ずかずかと部屋を出ていくロボット。その満足げな背中が少し腹立たしくなる。
「それで!あれは!何だ!」
「あれは私が初めて調整したユメ。人体模型君(AED持参)」
「人体……なんだって?」
「人体模型君(AED持参)。いつでもどこでも好きな時に、応急処置の訓練が出来る夢のようなロボットだよ」
応急処置とは定期的に訓練しなければ意味はない。ガードマンとしてそれこそ週に1回のペースで訓練をやらされていたあたしはそれをよく知っている。訓練の面倒くささも、だ。わざわざ床にシートを広げ、腰から上しかない模型を用意する手間が省けるロボット……それは確かに、ガードマンやレスキューにとって夢のような機械だろう。要救護者の方からこちらへ歩いて来てくれるなんて願ったり叶ったりだ。おまけに救護用の装置まで持参してくれるとあらば、文句のつけようがない。しかし……。
「いつでもどこでも好きな時に訓練を要求されるなんて、まるで悪夢だな」
そう、悲しいかな……時間を選べない訓練ほど、腹が立つものはないのである。それはもう、訓練というより本当の要救護者と変わらないわけで。時として夢は簡単に悪夢と成りえるのかもしれない。
「いやぁ~なんかね、可哀そうでさ。そのままずっと倉庫に眠ってもらってもよかったんだけど、不憫だから自発的に動けるように調整しちゃったの。まぁ本人は満足そうだし、私としてはよくやったと思うんだけど」
「そういうもんか?」
「そういうものだよ」
深く考えることを諦めるあたし。
「一人につき一日一回しか要求できないようにしてあるから安心して」
「さっきのがあたしの分にカウントされたりは……」
「しません。私の分です。後でAEDの使い方教えてあげるね」
「……へいへい」
「じゃあ、今日は最後にもう一つユメを見てもらって終わろうかな」
そう言って部屋を出るナミに案内されたのはだだっ広い倉庫だった。その中央に鎮座するものに、思わずあたしは声を上げた。
「洗濯機!?」
そうそれは……高さが10メーターほどの巨大なドラム式洗濯機だったのだ。古来よりその利便性が評価され続け、未だにそのフォルムを大幅に変えることのない、ドラム式洗濯機。その透明な蓋の向こうで、優雅に泳ぐ存在と目が合う。下半身は魚、上半身は人間のそれ。まごうことなきマーメイドの少女だった。
「彼女の名前はミーア。ほら、挨拶して」
洗濯機に近寄るナミに慌ててついていく。巨大なドラム式洗濯機の中で泳ぐ神話の産物。人懐っこそうな笑顔をこちらへと向けるミーアにあたしは手を振った。
「あたしはKB-056。よろしくな、ミーア」
くるくると円を描くように舞い、こちらへウィンクを飛ばすミーア。
「ふふっ、コロちゃんのこと気に入ったみたい」
「驚いたな……魚人を見たことはあっても、人魚は見たことなかった」
「なぁに?オヤジギャグ?」
「おほん」
「じゃあミーア。今日の運動、済ませちゃおっか」
そう言ってナミは手元の端末から洗濯機を操作し始めた。ドラムが回転をはじめ、浴槽に水流が生まれる。時に水流に乗り、時に逆らい、浴槽の中を優雅に舞うミーア。人魚にとっての体操みたいなものなのだろう。
「それで?お前はどんな調整をしたんだ?」
「洗濯機を大きくしただけ」
「はぁ?」
「ほんとそれだけなの。初めてこの夢と出会った時、普通のサイズの洗濯機の中にミーアがいてね?あまりにも窮屈そうだから海に出してあげようと思ったの」
頷くあたし。
「そしたら彼女、首を振って頑なに拒んでね……それじゃあ、ということで洗濯機をとびきりでっかくしてあげた。彼女、とっても喜んでくれて……このドラム式洗濯機には満足してるみたい」
揺れる洗濯機のなかで楽しそうに泳ぐミーア。その笑顔には確かに嘘は見当たらなかった。
「コロちゃん、これ見たとき私のこと幼女を洗濯機の中に監禁するサイコパスだって思ったでしょ」
「ン~全然ソンナコト微塵モ思ッテナイアルヨ~」
「このぉ~」
あたしの頬を引っ張るナミ。じゃれ合うあたし達を見つめ、微笑むミーア。
「いいんでないの?本人が満足してるなら。あたしがどうこう言うことじゃなし」
「それならいいんだけど。じゃ、ミーア。今日の運動はおしまい」
そう言ってナミは洗濯機を止めた。少し疲れた様子のミーアに手を振りあたし達は部屋をあとにした。
「大体分かってもらえた?この星のこと。この仕事のこと」
「まぁ、なんとなくは」
「それじゃ、改めて……これからよろしくね。コロちゃん」
「おう、よろしくな。ナミ」
新しい仕事も中々悪くないな……なんて思いながら、あたしは差し出された手を強く握り返したのだった。胸に湧き上がる漆黒が、嬉しそうに揺れるのを感じながら。
大海原。地平線まで続く広大な青。その真ん中に四本足でぽつんと立つ巨大なロボット。“優しき巨人”と名付けられたそのユメの、円盤の形をした胴体兼頭部の上で、二人のヒューマノイドが呆然と立ち尽くしていた。雲一つない真っ暗な空……そこに浮かぶ星々はさながら白昼夢のようだった。なぜなら時刻は十四時。ティータイムにも少し早い時間だったからである。
「で、お前はアホなの?」
あたしはナミの頬を手で鷲掴みにし、尋ねた。
「んぐっ!私はヒューマノイドBN-073。反電子化された脳の知能指数は一般的な人間のそれと比べ高く……」
「お前が“アホではない理由”じゃなくて、お前が“アホなのかどうか”あたしは訊いている」
「はい、アホです……すみませんでした」
「よろしい……ふぅ」
しょげるナミの瞳に反省の色をしっかりと確認できたあたしは、その手を離しあぐらをかいた。そんなあたしを見て、ナミが隣に仰向けに寝そべる。
事のあらましはこうだ。ホーム代わりの小型船の中で昼寝をしていたあたしは(勿論、会社で規定された休憩時間に、である)、『コロちゃん!ちょっと出かけよ!面白い夢が来たんだよ!』と興奮気味のナミに叩き起こされ、いつも通り新しく発現した夢の調整に付き合わされることになった。その夢は天候を自在に操る携行型デバイスで、どうせなら優しき巨人に乗って海のど真ん中でテストしようというナミの提案を快く受け入れたあたしは、この星に来て一年近く経っていたにも関わらず彼女のいい加減さをついつい失念してしまっていた。ナミの操作によって、目まぐるしく変わる天候。晴天、曇天、スコールに嵐。果ては吹雪まで。優しき巨人の上ではしゃぐあたし達はこの装置が昼夜も自在に操れることにも気がついた。ものは試しとあたし達の頭上を覆う満天の星空を広げたその時、ナミの顔が急に強張った。曰く『やばっ……戻せなくなっちゃった……』と。
「いや、な?使い方もよう分からんのになんであんな軽いノリで夢を扱えるんだ、お前は」
「何よぉ、コロちゃんだってはしゃいでたくせに」
「……それは認める」
確かにあたしは興奮していた。ありえない速度で変化する天候に。千差万別の表情を見せる景色に。だがそれは、彼女がある程度リスク管理ができているという前提があってこそのものだった。まさか直感で操作していただなんて……いや、普段のあたしなら彼女のいい加減さ度合いなど当然考慮に入れられていたはずだ。認めよう、あたしも夢中になっていたのだ。
自分の非を認めたからには行動に移さねばならぬ。あたしはポケットから通信用端末を取り出した。会社から支給された最先端のそれで、本社へと音声通信をダイヤルする。惑星φ-00とD社の本部のある惑星Dー33を繋ぐ擬似越光通信は、はたしてすぐに繋がった。一回目のコールで出てきた殊勝なオペレーターに、この星の気象システム管理課へと繋ぐよう伝える。
「はい、はい……それでそちらは異常なし、ですか……ありがとうございます。いや、ちょっと気になっただけなので。失礼します」
通話を切り、ため息をつくあたし。熱心に通話するあたしの様子を終始不安げに黙って見つめていたナミが、口を開いた。
「うわっまさか、コロちゃん私を本社に売ったの?」
「んなわけないだろうがバカ。気象課に異常がないか聞いただけだ」
こちらへ身を乗り出すナミにチョップをお見舞いする。この惑星の天候は全て、気象システムによって綿密に制御されている。それならば制御権のある本社の気象課に解決の糸口があるかもしれないというあたしの読みは、あっさり外れたようだ。『うぅ……アホからバカに格上げされた……』なんて呟くナミ。バカとアホに優劣があるのかどうかはさて置いて、あたしはナミに続けた。
「システム上は滞りなくいつも通りの天候だってよ。流石は夢の装置ってわけだ」
「やっぱりこれで何とかするしかないね」
ナミが手のひらサイズのタッチ式タブレット型端末をひらひらと振る。天候を自在に操るその夢のような端末が、今は憎い。
「ま、そうなるな」
「せめてもう少し画面が大きかったらなぁ~、いじくりやすいのに……ん~~~休憩」
端末をあたしの方へほっぽって、大きく伸びをするナミ。再び仰向けに寝転がろうとする彼女は、今度は胡坐をかくあたしの足を枕代わりにしてきた。
「失礼しま~す」
「はぁ、お前なぁ……」
ため息を付きながら、ナミとともに空を見上げる。
「星が近いな」
「ね。手を伸ばせば届きそうなくらい」
遮るものの全くない空に燦然と広がる星々。さざ波の音色に合わせるように力強く瞬くそれらは美しく、ついつい見入ってしまう。ギターと携帯アンプを小型船に置いてきたことを少し後悔した。
「お、コロちゃん見て見て。“本鳥”だよ。この高さも飛ぶんだね」
ナミの指さす方を見ると、一冊の本がこちらへと羽ばたいているのが見えた。そう、本鳥とはこの星のユメの一つだ。鳥のように大空を舞い、どこまでも知を運ぶ本。その数え方で過去にナミと口論になったことを思い出した。“匹”を主張するナミと(“羽”ではなく、だ)、“冊”を主張するあたし。結局“数さえ分かればどうでもよい”という結論に至るまでに一時間もかかったのには、我ながらくだらないなと反省した憶えがある。ぼんやりと物思いにふけっていると、突然目の前が真っ暗になった。
「痛っ!」
あたしの顔面に本鳥が直撃したのだ。くるりと宙を舞いそれは寝転がるナミのへそ辺りにふわりと着地した。早速中身を拝見するナミ。
「ねぇ見て!これはナイスタイミングだよ!……ふふっ」
「笑いをこらえろバカ。どれどれ……」
あたしにも読めるようにナミが掲げた本のページを読む。内容は星座の説明だった。
「中々気の利いた鳥だな」
「ね!ちょっと張り切りすぎたけど……ふふふっ」
恐らくあたしの間抜けな悲鳴を思い出しているのであろうナミから本を奪い取る。
「へぇ、あれがかの有名なキンザ座か。そんでこっちが……」
「私にも教えてよ」
「分かった分かった。あの四つの赤い……」
あたし達は輝く無数の光点を頼りに、真っ黒な空に見えない線を引く遊びを始めた。時にどこかの誰かが思い描いたとおりに、時にあたし達が思い描く通りに。時に引いたはずの線を見失い、時に引いたと思っていた線を取り違えながら。ある種のもどかしさを伴うその遊びは、そのもどかしさゆえに楽しかった。夜空に無作為に浮かぶ光を結び名前を付けた者の気持ちが、少し分かったような気がした。
「まだ私には宿題は解けなさそうだなぁ」
雲ひとつない満天の星空をひとしきり楽しんだ後、ナミが独り言のように呟いた。
「塔か?」
「うん」
彼女の言う宿題とは、塔の屋上に鎮座するある装置のことである。複数のディスプレイに大きなアンテナのようなものが付いたその装置は、ナミがこの惑星の管理を任された時からずっと存在する夢で、自分への宿題みたいなものだと彼女は言っていた。稼働はしているものの、それが現実にどんな影響を及ぼしているのかさえ分からない夢。その調整が、この星が自分に課した宿題だと。
「コロちゃんの方はどうなの?メガホンについて何か分かった?」
「いいや。あたしの方もさっぱりだ」
相変わらずあたしの胡坐を枕代わりにしているナミに首を振る。この星は彼女だけでなく、あたしにも宿題を課していた。真っ黒な円錐形の、056と書かれた拡声器。あたしがこの星に降り立ってしばらく経ったある日発現したそのメガホンは、恐らくあたしの夢で間違いない。しかし、塔の装置同様その効力はおろか扱い方さえもあたしは分からず、突発的に発現する夢の調整とユメの管理をこなす日々の合間に、ナミと同じように己の宿題と格闘していた。
「そっか……ねぇ、コロちゃんは飽きたりしてない?」
どこか寂しげな声色で尋ねるナミ。
「どうしたんだよ、藪から棒に」
「いや、ね……この星に来た人は皆、自分の夢を宿題として与えられてきたんだけど」
「ああ」
「それを夢からユメに変えて、この星を去っていったなって……ある人は誇らしげに、ある人は晴れ晴れとした顔で、そしてある人は疲れたような顔で……」
そう言って彼女は星空へと手を伸ばし、ゆっくりと握り、開いた。
「あたしが宿題を解いてどっか行くかもしれないって?」
「そう……そうかもしれない……。いや、やめやめ。コロちゃんのこの星に来る前の話、訊きたい」
あたしは空を見上げ、答えてあげることにした。
「ん~そうだな……牙を剥く相手と尻尾を振る相手を選んでたな」
「何それ、犬みたい」
「よく言われる。野良犬みたいに噛みついて、尻尾振って、たまに吠えて……そんなことしてたな、あたしは」
「コロちゃんっぽい」
ふふふと笑うナミ。その心地よい笑い声を聞きながら、あたしはぼんやりとS-110での生活を思い出していた。自身に害なす者には徹底的に応戦し、仲間には手を差し伸べ、たまに己の情動のままに叫ぶ日々。夜勤明けに見るクソみたいなB級映画も最高だったし、休暇で行く惑星旅行も好奇心を刺激するには充分だったし、バーでかき鳴らすギターは確かにあたし自身を震わせていた。
この星に来てからの約一年も思い返す。全く予想もつかない、いつかの、どこかの夢の残滓。Realizerによって発現するそれらの本質を見抜き、可能な限り損なわれないようにユメとして調整し管理する日々。誰のものかも分からない夢を余すことなく体験し、感じ取り、ユメへと変える。見る夢を見せるユメに。時に理性を容易く揺さぶられながら、直感を信じて。不思議なもので、この星に現れる夢はどんなに奇々怪々なものであれ、何となく優しく、あたし達に寄り添っているように感じた。その温もりを大事に、時に危険を楽しみながら、ナミと共に夢をユメに調整する日々は、確かに刺激的で魅力的で……あたしの心の黒煙を震わせていた。
じゃあ、あたしは前の生活に飽きていたのだろうか……?それは恐らく違う。ただ満足してしまっただけだ。あたしに潜む漆黒は、その満足する自分に不満があっただけだ。幾ら心を揺らそうと、満足してしまっては歩みを止めることになる。強欲で傲慢なあたしの漆黒が求めるのは、けして満足ではなく、果てなき刺激と飽くなき探求だ。全く予想がつかない刺激をくれるこの星……そしてナミは……そういう意味ではあたしにとってこの上ないほどの存在になっていた。充足と飽和……そのどちらをも嫌うあたしの漆黒にとって。
「なぁ、ナミ」
「ん?なに?」
「少なくともお前が飽きるまでは、この星に居てやるよ」
「ふぅん……私は中々飽きないよ?」
彼女の試すような黄金色の瞳を、あたしの深紅の瞳が見つめ返す。
「望むところ」
あたしの首の後ろに手が回り、ナミが顔を寄せる。彼女がぐいとあたしを引き寄せようとしたその時、あたしは手元にあった天候操作端末で彼女の顔を遮り、ディスプレイで額を軽く小突いた。
「あ痛っ!」
あたしの不意打ちに間抜けな声を上げるナミ。その様子に満足しつつ、端末をひらひらと振ってあたしは続けた。
「まずは目の前の宿題を何とかしないとな」
「う~わ、コロちゃん雰囲気ってものが……あっ!」
そう言ってナミが飛び起きた。見上げると夜空が徐々に白んでいき、元の天候へと戻っていく。
「何とも締まらないオチ……」
「いいじゃんいいじゃん、細かいことは」
「これからこの装置で困ったら、ディスプレイでお前の顔を叩けばいいんだな」
「最っ低」
不満げなナミをよそに、大きく伸びをして立ち上がるあたし。細かい操作方法はあとでのんびり調べるとして、とりあえずティータイムにしたいなぁなんて考えていると、ナミの通信端末が鳴った。さっと端末をポケットから取り出し、応答するナミ。
「はい……そうですか、はい……え?」
徐々に顔色が悪くなっていくナミ。その声は少し震えている。
「はい……056にも伝えておきます。では」
通話を切り、ため息を付く彼女。不安になったあたしが尋ねるよりも早く、彼女は口を開いた。
「コロちゃん……この星……無くなっちゃうかもしれない」
塔。この星を見守る柱。その応接室で、あたしとナミはこの星が生み出す最後の夢をユメにしていた。
「ふぅ、こんなもんかな」
そう言って額を拭うナミ。あの日……“気分次第天気君”の調整を楽しんだ日から六ヶ月が経つ。あの時ナミの端末へ本部からかかってきた通信は、Realizerの停止方法がついに分かったことを告げるものだった。それからあれよあれよという間に話は進み、今日の夜をもってこの星は活動を停止することになってしまったのだ。
「最後のユメは意外とあっさりだったな」
あたしはたった今調整の終わったキャンバスの形をしたユメを見ながら言った。今夜、あたしとナミはこの星を離れる。この星が生み出したものとはいえ、ナミがこの星とは独立したユニットであることは彼女にとって、あたしにとって救いだったかもしれない。ただ、ずっと寄り添ってきた星を離れ、活動を停止する瞬間を見届ける彼女の姿を想像すると、少し胸が痛んだ。
「まぁ手は抜いてないけどね……せっかくだし二人で遊んでみる?」
「なに言って……おいっ!」
あたしの返事を待たず、ナミがあたしの手を引いてキャンバスに触れさせた。“ココロキャンバス”と彼女が名付けたキャンバスが、じわりじわりとあたしの心象風景を描いていく。
「さ~てコロちゃんの心は……うわっ……」
「うわってなんだうわって。別にいいだろうが」
キャンバスの隅から隅まで広がる黒。よく見ると脈動しているように見える。全てを吸い込みそうな漆黒がどうやらあたしの心らしい。
「う~ん、確かにコロちゃんらしい……あらゆるものを塗りつぶす黒、ね」
「何にも勝る感情、とも言える」
どんな色でも食いつぶし、上塗りを許さない漆黒。確かにそれはあたしの心に巻きあがる黒煙そのものだった。あたしを突き動かす情動。誰も色付け出来ない、絶え間なく揺れることを望む黒。
「かっこつけちゃって~」
「そう言うお前はどうなんだよ」
「ちょっ!」
あたしは茶化すナミの手を引き、キャンバスに触れさせた。はたして、現れたのは白だった。キャンバスいっぱいに広がる白を見て、笑いながらあたしは言った。
「お前も似たようなもんじゃねぇか」
「違います~白はどんな色でも塗れるんです~」
「はいはい」
どんな色でも塗れる、無限の可能性を秘めた白。多彩な夢に触れ、染められ、色々な感情を見せるナミ。そして生まれた色を大事にしたままで調整を加えるナミ。白……それは確かに、あたしが見てきた彼女らしい色だった。
「宿題……解けなかったね」
「……ああ」
俯くナミ。この星があたし達に与えた宿題は、ついぞ解くことは叶わなかった。あたし達の反応を楽しむ他の夢たちとは違い、あたしのメガホンと塔の装置だけは、何をやってもうんともすんとも言わないのだ。あたし達の試行錯誤も虚しく、タイムリミットが来てしまった。
「この星とお別れするのは確かに寂しいんだけど……けど……」
悔しそうな顔でナミは続ける。
「見せられない夢が残ってしまったのが一番残念」
「……そうか」
励ますように彼女の背中を優しく叩く。見せられない夢……数多の夢をユメへと変えてきた彼女からすれば、それはとても悔しいものだろう。この星のユメたちはどこか人懐っこく、自身を……ユメを見せたがるきらいがある。それは、誰かに見て欲しいという夢自身に内在する願望から来るものかもしれない。あるいは、その夢を見た本人の。彼女はそんな夢たちの願望を叶えてきたのかもしれない。ユメという形に調整することで。
「ナミ」
「なに?コロちゃん」
「お前、前に言ったよな“誰かが見る夢を、誰かに見せるユメにする”って」
「あ~、多分言ったね」
キョトンとするナミを尻目に、あたしは考えを巡らせた。
「コロちゃんどうしたの?大丈夫?」
「大丈夫だ。なんか……なんか掴めそうなんだよ」
ユメは見てもらいたくて、でもこの星にやってくるのはほんの一握りなわけで。ならば、そんなユメたちを生み出してきたこの星の夢は……そしてあたしの夢は……。あたしの心に巣食う漆黒が飢えるように揺れるのを感じる。
「まだ足んねぇな」
「はぁ?」
「ナミ、観客は多い方がいいよな?」
「そりゃあ少ないよりは多い方がいいんじゃ……ってちょっと!」
あたしはテーブルの上に置いてあったメガホンを乱暴に掴み、ナミの手を引いて応接室を出た。
塔。この星を見守る柱。その側面に設置された階段を駆け上がる。右手に真っ黒なメガホン、左手にナミの右手を握り締めて。一歩踏みしめる毎に鳴り響く足音。金属製の階段が奏でる軽快な響きがあたしの鼓動と重なり、血が騒ぐ。休むことなく走り続け、あたし達は屋上に辿り着いた。
「はぁ……はぁ……流石にこの高さは……息が切れるな……」
肩で息をするあたし。ナミの方はというと汗だくで今にも倒れそうな様子だった。
「少し休むか?」
「いい……大丈夫……だから……ふぅ」
「分かった」
ナミの手を引いて屋上の中央に鎮座する装置の前へと向かう。無数の、大小もタイプも様々なモニターに、天高く伸びるアンテナ、そして操作系統だと思われるスイッチ盤。ナミの宿題にはまだ触れず、あたしは右手に持ったメガホンを口元に持ってくる。
「コロちゃん……もしかして……宿題解けたの?」
「まぁ見てな」
あたしは深く深呼吸して、メガホンの取っ手にあるトリガーに手をかけた。大丈夫だ……これがあたしの夢なら、あたしの思い描いたものなら、他でもないこの星の魅力に取り憑かれてしまったあたしのユメなら……このユメの中身はあたしが予想している答えと大きく違わないはずだ。意を決してトリガーを引く。今まで頑なに1mmも動くことのなかったそのトリガーは、果たして綿のような軽さで奥までスライドした。
『聞け!』
拡声器によって増幅されたあたしの声が大気を、大地を、この星を揺らす。それに応えるように、本鳥があたし達の周りを舞い、優しき巨人が海から顔を出した。これまで出会ってきたユメの数々が塔に意識を向けているのが分かる。動くことのできないユメ達も、その存在をアピールするようにあたし達に鼓動を聴かせているのを感じる。短く力強いあたしの言葉は、予想通り、この星の全てのユメに、そしてこの星自身に響いたようだった。
『あたしは……お前らを、この星を、愛してる!』
唸るような叫び、駆動音、揺れる地面。ユメが、星が、返事をするのが分かる。全身を流れるどす黒い血が騒ぐ。あたしはトリガーを引く力が徐々に強くなっていくのを感じながら続けた。
『誰かの見る夢でしかなかったお前らが!誰かに見せるユメへとなったお前らが!それはあたしが見る夢のような日々をくれた』
夢は見るもので。ユメは見せるもので。決して誰とも共有することのできない夢。それでも、時に自分以外にも見てほしいと渇望したくなる夢。そんな傲慢なわがままを、この星は、そしてその管理者は、叶えてきたのだろう。夢をユメへと変えることで。見る者も、見せる者も、そして他でもない夢そのものも、大切にして。誰かに見てもらうことを夢見て。それならば……とびきり傲慢なあたしが望むのは……この星が望むのは……。
『だが!あたしはまだまだ満足しちゃいない!もっともっと刺激が欲しい!色とりどりのユメが!お前らの見せる景色が!あたしと作る景色が!あたしのユメとして!だから……』
あたしはそこで言葉を切り、メガホンを口元から離した。隣で俯いていたナミがこちらを見つめる。
「ナミ」
わなわなと震える彼女の肩を抱き寄せる。
「……うん」
黄金色の瞳を然りと見据え、問う。
「あたしを信じるか?」
「……信じるよ……だけど」
ナミはにやりと笑って、確かな声で続けた。
「満足はしてない」
「上等」
彼女の手を引いて、この星が彼女に課した宿題の元へと向かう。この星が生み出した、この星自身のユメ。見る者を揺さぶり、また、見る者を求めているであろうこの星の。その夢を発現した装置なら、あたしの予想は間違ってないはずだ。あたしはメガホンを再び口元に運び、吠えた。
『魅せろ!』
固く結ばれたあたしとナミの手が装置の中央にある赤い丸いボタンを叩いたその刹那、地鳴りのような駆動音が鳴り響き、目の前の一枚のモニターに全宇宙の縮尺図が表示された。続けて画面に大きく表示されるカウントダウン。5……4……3……2……1……。この世で最も長い五秒間を辛抱強く待ち続けると、画面右上に“ON AIR”という赤い文字が浮かび上がると同時に周囲の無数のモニターが一斉に灯った。
白黒で映し出されたその映像はこの星の記憶だった。画面に現れては消えを繰り返すこの星の生み出した数多のユメ。そしてその管理者たち。いつかの誰かの夢見た景色。いつかの誰かがユメにした景色。見る者の心を揺らすユメ。見る者の心に色を塗りつけるのではなく、ただただ震わせるユメ。あたしの漆黒が唯一望む振動をくれるユメ。それが全宇宙に発信されているのが分かる。映像という媒体を通して語られるこの星の記憶は、まるでその場いたような感覚であたしの中に入り込んできた。
モノクロで映し出される、圧倒的な情報量の映像は、恐るべき速さでこの星のこれまでを語っていき……画面は塔のてっぺんに立つ二人のヒューマノイドに切り替わった。ナミと顔を合わせる。彼女はラストシーンにふさわしい笑顔で画面の向こうへ手を振り、続けて試すような瞳であたしを見た。メガホンを握りしめ、震える漆黒に身を任せ、幾多の視聴者に向けて放ったあたしの言葉は、自分でも驚くほどチープなものだった。
『ユメの続きはφ-00で確かめろ!』
「……ちゃん……コロちゃん。そろそろ起きないとマズいよ」
耳元で鳴るナミの声であたしは目を覚ました。ちょっと横になるだけのつもりだったが大分深く眠り込んでいたらしい。ナミの膝枕から頭を上げ、ソファに深く腰掛けるあたし。
「ふぁぁぁあぁぁぁ~」
伸びと一緒に出た声は存外に情けないものだった。時計を見る。寝ていたのは一時間半程度だろうか。まだ時間に余裕があることに安堵の表情を浮かべるあたしを見て、クスクスと笑うナミ。
「ぐっすりだったね」
「あぁ……疲れてんのかな~あたし」
「ないない。コロちゃんに限ってそれはない」
首を大げさに振る彼女が少し恨めしい。
「はいはいそうですか……変な夢だったな……」
「へぇ?どんな夢?」
「お前に会うまでと、会ってからを振り返るような夢」
「うわ~コロちゃんって意外とセンチメンタルな所あるんだね」
「あのなぁ、あたしだって結構頑張ったんだぞ?少しくらい感傷的にもなる」
塔の屋上に鎮座していたユメ……“ユメ見る星から愛を込めて”(勿論、名付けたのはナミだ)によって、全宇宙にこの星の記憶がばら撒かれたあの日から半年が経つ。正直、この半年のことはあまり覚えていない。余りにも忙しくあっという間に過ぎてしまったからだ。光陰矢の如しとはよく言ったものだ。
この惑星からのメッセージは、あたしの思惑通り、もしくはこの星の願い通り、見た者全ての心を鷲掴みにした。惑星φ-00の存在は瞬く間に全宇宙に知られることとなり、その事後処理として本社はこの星を一般に公開することを最終決定とした。一種の観光星のようなものとして存続させることを選んだのだ。そして今日は、いよいよ待ちに待った公開初日なのである。
「ん~、柄にもなく緊張してきた……コロちゃんスピーチかわってくれない?」
「拒否する。お前にも頑張ってもらわないとな」
「はぁ……まぁいいけど。どうせ来るのは二十人程度だし」
「頼むぞ、上司さん」
不服そうなナミを今度はあたしが笑う番だった。約半年間、本部と戦い、交渉し、協力へと漕ぎつけたのは他でもないあたしだ。スピーチくらいさぼる権利はあるだろう。毎日公宙域回線での通話相談(しかも五分の制限付きだ)に頼るほど忙しさで胃が痛くなる日々に比べれば、数分程度の歓迎スピーチなんぞ造作もないことであろう。
「ねぇコロちゃん」
「なんだ?」
こちらへ身を乗り出し、あたしの目を見つめながらナミは言った。
「私にまだユメを見させてくれる?」
あたしはその瞳をしっかりと見つめ返し、答えた。
「こっちの台詞だ」
彼女がゆっくりと顔を寄せる。呼吸を合わせるようにあたしも顔を寄せる。唇と唇が重なろうとしたその時、リビングのドアが開いた。
「助ケテクダサイ。助ケテクダサイ。心肺蘇生ガ必要デス」
そう言いながらあたしたちの前に仰向けになる一体のロボット。それをまじまじと見つめ、ナミは大きなため息をついた。
「私、初めてユメを再調整しようと思ったかもしれない」
そう言って彼女は少し乱暴な手つきで応急処置を始めた。珍しく不機嫌をあらわにする彼女に少し同情しながらも、こみあげてくる笑いを堪えられないあたしは、窓の外を見やるフリをしつつ水を飲んだ。
「心肺ノ蘇生ヲ確認シマシタ。アリガトウゴザイマス」
「ちょっとトイレ行ってくるね」
せっせとAEDの箱にパッドを詰めAEDを抱えるロボットを尻目に、ナミは部屋を出た。続けて出ていこうとするロボットは、突然扉の前であたしの方を振り返り、ハッキリとした力強い音声でこう言った。
「ナミ様ノコト、コノ星ノコト、アリガトウゴザイマス」
「お前……あ!ちょっと待て!」
制止も虚しくそそくさと出ていくロボット。その背中をあっけにとられた様子で見送るあたし。
「しまんねぇなぁ……」
あたしは笑いながらそうぼやいた。この星の見せるユメはやはりどこかずれていて、魅力的だ。これまでも……おそらく、これからも。果たしてあたしが満足できる日は来るのだろうか……そんなことを考えながら、あたしは煙草に火をつけるのだった。
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