慣れないカフェの軒先で、おもむろにグラスを手に取る。30分も前に空になったそれは、手の震えが伝わってカラカラと音を立てた。
意識の全ては机の上のスマホ、正確には画面上の時計に向けられている。現在13時50分、あと10分で待ち合わせの時間だ。早く来て欲しいという願いと、永遠に来ないで欲しいという思いがせめぎ合う。
慣れないマッチングアプリとやらに手を出したのはかれこれ1ヶ月も前の話だ。理由は自分でもよく分からない。色恋沙汰など無縁だと思って大学生活を送ってきたのだが、ある日カーテンを開けて朝日を浴びてたら無性に人肌が恋しくなったのだ。勢いでアプリを入れて登録したのはいいものの誰からもアクションはなく、やる気が失せて放置すること3週間。アプリの存在すら忘れた頃に1人の女からメッセージが来て、何やかんやで今日会うことになった。
そわそわしながらアプリを開くと、赤いト音記号のマークが現われる。その名もスカラ。俺にこの場を用意してくれた偉大なアプリだ。AIによるマッチングに必要だとかで100を超える質問に答え続けた時は心底うんざりしたが、ついにその苦労が報われる時が来た。
アプリのチャット欄に浮かぶ「ニックネーム:ユキ」の文字。そこからチャットに飛んで内容を読み返すが、確かに今日の14時にこのカフェで待ち合わせることになっている。ホッと胸をなで下ろして再び時計を眺める。
やけに喉が渇いてきたので2杯目を注文しようと立ち上がりかけた時、視界の端に影が映った。来たか、と咄嗟に人影の方を向く。まず目に飛び込んできたのは、もこもこと温かそうな白地に黒模様のジャンパーだった。おしゃれなマフラーを首に巻いており、その上には凜々しい顔立ちがあった。その瞳は炎のような揺らめきを帯びていて、何か大きな目的を持ってこの場に来たことが鈍感な俺にも感じられる。あまりの気迫に、油断したら喰われるとさえ思った。だから名前と服の色も相まってユキヒョウを連想した。
「あなたが、アッシュさん?」
アッシュというのは俺のニックネームである。名字をもじっただけの安直なネーミングだ。反射的に頷くと、ユキという女は何も言わずに俺の顔を見つめた。心臓が早鐘を打ち始めるのが分かる。彼女の顔から目を逸らし、俺も相手の出で立ちを観察した。そして目を奪われたのは彼女の手だった。雪のように白く細い手、古代の彫刻を思わせる形、主張しすぎない最低限のネイル。この手に触れられたものはそれだけで価値が上がるだろうとさえ感じた。その手はゆっくりと動き出し、俺もそれを目で追う。そして両手が彼女の胸の前で合わさる。そして彼女は口を開いた。
「ごめんなさい! 違ったみたい……」
謝られたことに気付くまで時間がかかった。惚けていた俺はそのポーズを見て、いただきますかな? と馬鹿なことを考えてさえいた。決意の籠もっていた彼女の凜々しい瞳は打って変わって申し訳なさと落胆に染まっていた。しばらく沈黙が場を支配する。どうやら振られたらしいと飲み込んだ俺は、停止寸前の脳みそをフル稼働して「コーヒーダケデモ飲ンデイケバ?」と発した。しばし彼女は悩んでいたが、やがて頷いてレジに向かっていった。俺は財布を取り出し、最後の意地でその背を追いかけた。
最初は遠慮がちに話していたが、同年代ということもあり徐々にユキと打ち解けていった。そして話していくうちに、彼女がとんでもなく無謀なことをしているが判明した。
「昔会った人をマッチングで探してるって!?」
「うん」
ユキはさも当然とばかりに頷いた。
「わたしが小さい頃……小学4年の時だったかな。近所の公園で一人で遊んでいたら、男の子に会ってね」
彼女は順を追って話してくれた。父と2人暮らし。ある日曜の午後。団地の小さな公園。周りに人の気配もなく、世界で存在するのは自分ただ一人。すべり台の上で自作の拙い歌を歌っていたら、突然楽器の音が聞こえてきた。見るとすべり台の下で、男の子が鍵盤ハーモニカを吹いている。その音色は確かに彼女の歌をなぞっていた。嬉しくなって歌い続けると、彼も合わせて演奏を続ける。その途中で夕方を知らせる放送が町に響き渡り、彼は演奏を止めて、ユキに手を振った。
『行かなきゃ。それじゃ』
そして男の子は一目散に駆けていく。彼女は手を振り返すことしかできなかった。以来ユキはその男の子を探し続けているという。
「名前も知らないし、顔も子供の頃のしか知らない。でも絶対会いたいんだ、あの子に」
ようやく俺は「違ったみたい」の意味を理解した。別に顔がタイプじゃないとか生理的に無理とかそういうわけではなく、ただ単に探している人ではなかったのだ。砕かれたハートが少しずつ再生していく。もちろん、俺が彼女の眼中にないことは明白だったが。
「でもさ、いざ見つかったときに分かるの?」
当然の疑問を投げかけると、彼女は真剣な顔つきをした。
「特徴はちゃんと覚えてるから大丈夫。それに何より」ユキは拳を握った。「会ったら絶対分かるよ。だって10年以上想い続けてるんだから」
その決意を目の当たりにして、凄えなと純粋に感動した。自分がこれほど何か目的を持って生きたことがあっただろうか。目の前にいるこの凜々しいユキヒョウは、ただ確率が0じゃないから、そしてかつて素晴らしい出会いを過去のままにしたくなくて、その瞳を熱く燃やしている。別に勝負をしているわけではないが負けたなと思った。
「今の話を聞いて、俺が確信を持って言えるのは」
負けを悟られないようにもったいぶって言う。彼女は俺の言葉を待っている。
「……少なくとも、その子は俺じゃないってことだな」
ユキはパチクリと目を瞬かせたあと、ふふっと相好を崩した。今日初めて彼女が見せた笑顔だった。
マッチングアプリ「スカラ」を選んだのは彼女なりの理由があった。俺を含め誰もが辟易するであろう質問攻め、あれを利用したのだ。
「ピアノ、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、それに鍵盤ハーモニカ。凄え、何でも吹けるんだな」
「まあね。あの子はきっと今も楽器をやってる。だから私もできるようにならないと」
ユキのアプリで質問の回答を少し見せてもらったが、音楽に関して言えば優秀そのものだった。それも見栄を張っているわけじゃなく、本当に習得しているらしい。ここからも彼女の本気度が伝わって来た。
「スカラの評判はアッシュも知ってるよね? あの子もスカラを入れてるなら、きっといつか会えるって思ってるんだ」
彼女の言うとおり、スカラは競合他社と比べマッチ後の満足度がかなり高い。それは俺も口コミで聞いている。友人の少ない俺ですらスカラでのカップルを4組は知っている。どういうカラクリなのか知らないが、AIのアルゴリズムが相当優秀なのだろう。だからこそ誰も彼もが2時間近くかかる質問攻めを真面目にこなすのだ。そう考えると、ユキが思い人に会える可能性もそんなに低くない気がした。年代は分かっているし、楽器好きなのも分かっている。転勤族でないなら出身地も分かっている。同じ要素を積み重ねていけば、あるいは。
「最初聞いた時は無謀が過ぎると思ったもんだけど、案外いけるかもな……」
「でしょ!」
ユキは組んでいる指を嬉しそうに振った。さっとそれから顔を逸らすと、ふと疑問が浮かんだ。
「あのさ、俺は何人目なの?」
俺の前に座るまでに一体何人男を倒してきたのか気になった。だが答えは意外なものだった。
「まだ1人目だよ」
「え、マジかよ!」
驚嘆と安堵の入り交じった俺にユキは溜め息を吐いた。
「アプリを知ったのが最近なのと……あと男性から大量にメッセージが来るから吟味が大変で」
「大量ってどんくらい?」
「100人以上かな」
あまりの数字に椅子を倒しそうになる。スカラもマッチングアプリの例に漏れず女性は無料、男性は有料のシステムだったが、その理由が深く理解できた。その上で一番の謎をユキにぶつける。
「そんなによりどりみどりならさ、なんで俺なんかにチャット送ったんだよ。楽器ができるなんて一言も書いてなかったぞ」
ユキは不服そうに答えた。
「それは……だって、アシュのアイコンがおすすめ一覧にずっと居座ってたし」
スカラには趣味や仕事など属性でマッチする機能もあるが、AIが全自動で相性が良さそうな人をピックアップするシステムもある。むしろそれが売りだ。何を見て俺と彼女を引き合わせたのかは分からないが、おそらくどこか共通点があったのだろう。デザートは最初に食べるタイプとか、多分そういうのが。
「でも悪いけど俺じゃないからなあ。で、この後どうすんの? また一からマッチング?」
「そうするつもりだけど」
そう言ってユキはスマホを手提げ鞄にしまう。俺はここが分水嶺だと直感した。ここで彼女が帰ったらもう二度と会えないという確信がある。それは絶対に嫌だ。この燃い瞳と美しい手をもう少しだけ見ていたい。だから咄嗟に口が開いた。
「そういうことなら、良いアイデアがあるんだけど」
ない。そんなものあるわけがない。だから今考える。
「ほんとに?」ユキは身を乗り出した。「ぜひ教えて! お願い!」
彼女の必死な懇願に胸が痛くなった。人探しが成功する確率が限りなく0に近いのは本人が一番知っているのだ。だから藁をもつかむ思いが声に滲み出ている。その感情を利用してしまったことに今さら罪悪感が湧いてきたのだ。だが同時に、本当に悪くないアイデアも記憶の奥底から現われた。完全に忘れていた小さな紙の存在が俺を奮い立たせる。
「俺の数少ない友達が吹奏楽部なんだが、今度学内コンサートがあるらしい。で、そいつのチケットノルマのために俺は奮発して複数枚買ってやったんだよ」
観に行くつもりは全くなかったから、チケットは筆箱の奥でクシャクシャになっているが。
「学内コンサートって言っても家族や友人くらいは来てもいいだろ。だから、ユキさえ良ければ一緒に行かないか? その、鍵盤ハーモニカの子が俺たちと同年代なら今頃大学生だ。てことは音楽系のサークルに入っている可能性は全然低くない。俺の大学は地元勢が多いしその分確率も上がる。他大学の吹奏楽部を見れる機会はそうそうないだろうし、悪くないと――」
そこまで言うと、ユキの顔が見るからに輝きだした。
「絶対行く!」それは叫びに近い声だった。「チャンスをくれて、ありがとう」
彼女の目には迷いがなかった。今日会ったばかりの男と演奏会に行くなんて常識的には考えられないが、大きな目的のためには気にもならないようだった。それに俺のことを少しは信用してくれているのもあるのだろう。そのことが無性に嬉しかった。
その後、コンサート当日の集合時間と場所だけ決めてユキとは別れた。夢心地のまま帰宅し、そのままベッドに倒れ込む。
「次会うのは2週間後か……」
なぜユキはあんなに必死に鍵盤ハーモニカの子を探しているだろう。その子が運命の人だと心から信じているのだろうか。だとしたら、その後俺は――
そこまで考えて、思考を振り払うように布団に潜った。今ここに至ってユキに対して変な感情を持ちたくなかった。次また会えるだけ上出来だ、今はユキと過ごせる時間だけを大切にしよう、そう思い込む。下心を出した瞬間、この奇跡的な出会いは低俗なものに成り果てて、か細い運命の糸がプツンと切れてしまうような気がしたのだ。
・ ・ ・
あっという間にコンサートの日になった。俺は可能な限り上等な服を選んで家から出た。服を選ぶのにかなり時間を食ったから小走りで駅に向かう。そのまま20分電車に揺られ、大学近くの駅に着いた。改札を出た瞬間ユキを見つける。青を基調にしたロングコートで、彼女の凜々しい顔に似合っていた。
「悪い。待たせた」
「気にしないで。わたしが早く来すぎただけだから」
ユキは上機嫌だった。その目は明らかに期待に満ちていた。軽くお喋りした後、2人並んでキャンパスに向かう。入学して3年経つが、ここまで緊張しながら通学するのは初めてだった。知り合いに見られていないか周りを窺いながら歩く。ユキはといえばそんな俺とは反対に脇目も振らず進んでいて、案内する俺の方が追いかける始末だった。あまりに差が開くとユキは立ち止まって、茶目っ気たっぷりに「どうしたの、迷子?」と俺をからかった。ああ、今日ほど駅からキャンパスまでの遠さを感謝した日はない。
キャンパスに到着すると、大学の見栄を一身に集めたホールが目に飛び込んでくる。3年前に完成したらしいのだが、学内施設のくせにそのへんの公共のホールより立派な作りをしていた。入り口に行き、ユキから見えないようにクシャクシャのチケットを広げて受付に渡す。そして中に入って席を確認した。ユキには幸いなことに、演奏者の顔が見やすい前方の席だった。
ユキと2人で席につき、受付で貰ったパンフレットを広げる。見ると、演奏者の顔写真が全員分載っていた。ユキはじっとそのページを眺めた後かぶりを振った。
「……なんとも言えない。写真だけじゃピンと来ないね」
「気にすんなよ。顔ならこれから2時間見放題だ」
ユキはそれもそうね、と小さく笑う。開演のブザーがなり、吹奏楽部の部員がぞろぞろと歩いてきて所定の位置についた。部員達の前には色とりどりの楽器が並んでいるが、似ている楽器が多すぎて違いが分からない。指揮者は来客に一礼すると、振り返って指揮棒を構えた。
そこから2時間はひたすら演奏を聴いていた。初めてのコンサートだったが、お堅い音楽ばかりでなくゲームの曲も演奏してくれたので思ったより退屈はしなかった。時々チラッと横目でユキを見たが、表情の変化はなかった。演奏が全て終わると下級生が卒業生に花束を渡すという学生らしいイベントが始まった。中には涙を流す卒業生もいて、よほどサークルが楽しかったんだろうなと他人事のように拍手した。
プログラムが全て終わり、緞帳が下りて客がはけ始めた。横を見ると、ユキは立ち上がらずに緞帳をぼんやり眺めている。沈黙に耐えかねて俺は口を開いた。
「どうだった?」
彼女は振り向かない。
「良かったよ。もちろん楽器習い立てのような拙さはあったけど、とにかくエネルギーが凄い。みんな楽しそうに演奏してたね。あと指揮者のおじいさんが――」
「そうじゃなくて」
「……」
ユキは黙り込んだ。答えは火を見るより明らかだ。
「いなかったんだな。やっぱり、そんな甘くねえよな」
俺の言葉に、ユキは俯いてぎゅっと拳を握る。表情は見えないが、あふれ出しそうな感情を必死に押さえているのが席の震えで伝わった。
想像以上にユキがショックを受けているのを見て何も言えなくなった。座席に深く腰掛けて、彼女が落ち着くのを静かに待った。
やがてユキは、下を向いたままぽつりぽつりと話し出した。
「アシュの提案はさ、ほんとに良いアイデアだって思ったんだ」彼女は穏やかに言った。「だからちょっとね、今度こそ会えるのかもって希望を持っちゃって、昨日はあんまり眠れなくて……」
俺は黙って聞き続ける。
「スカラを試す前も、色々手を尽くしててさ。別の校区の友達を頑張って作って卒アルを見せてもらったり、心当たりがあれば連絡くださいってSNSで毎日発信したり、バイトでお金貯めてプロの探偵に相談したり、他にも色々。でも当たり前だけどちっとも見つからなくて、心のどこかで諦めてた気がする」
ユキは顔を上げる。表情はいつもの彼女だった。
「だからその分、ね」ユキは小さく笑う。「期待し過ぎてたみたい、わたし」
不器用な奴だな、と思った。感情を押さえるが下手なくせに、せめて人の前で泣くまいと我慢しているのが丸わかりだった。きっと彼女のプライドが許さないのだ。言い方からすると、人探しも他人に迷惑をかけないようずっと独りでやってきたのだろう。
表情こそ笑顔だが、彼女の瞳の炎は悲しく揺らめいていた。俺はそれが許せなかった。傷を負ってなお気高くあろうとするユキヒョウを放っておけなかった。だからぶっきらぼうにスマホを取り出して、急いで検索をかける。俺が求めていた情報はすぐにヒットした。
「来週」
「え?」
ユキの戸惑いを意に介さず、ひたすら画面上で親指を動かす。
「来週の土曜は国際大の演奏会が文化ホールである。日曜は市大の演奏会がキャンパス内で。その次の週末は同じ時間帯に2大学同時にあるから、俺が片方に行く。せめてパンフレットだけでも持って帰ってくる。年末だからどこもかしこも卒業公演やってんぞ。チャンスは今しかない」
呆気にとられているユキに検索結果を見せつける。
「俺も手伝うからさ。だから――」
そんな悲しい目をしないでくれ。その言葉を言い淀んでいると、ユキの肩から力が抜けていくのが感じられた。やがて彼女は立ち上がり、俺と向かい合った。
「そろそろ行こっか」
ユキと目が合う。見ると瞳の炎が少しずつ勢いを取り戻していて、俺は心底ホッとした。座席を立とうと手すりに力を込める。するとユキは俺の耳元にさっと近づき、
「ありがと」
と一言そう言うと、何でもなかったかのように元気に歩き出した。宙に揺れる綺麗な手に一瞬見惚れたあと、我に返って彼女を追いかけた。
・ ・ ・
「まーたダメだったなあ」
体育館を出て俺が背伸びをすると、ユキは満足そうにパンフレットを鞄に入れた。
「でもここの吹奏楽部はかなりレベル高かったよ。さすが県の強豪ね」
今日は足を伸ばして山の上の私立大学まで来た。かれこれ7,8回は演奏会を回っている。俺も少しずつ目が肥えてきて、オーボエとファゴットの違いくらいは分かるようになっていた。
ただし未だユキの目的は果たされていない。最初の演奏会以来ユキは極端に気を落とさなくなったが、それでもどこかで悲しんでいるに違いない。ここまで来たら何とかして見つけてあげたかった。
一方で尋ね人が見つかった瞬間、俺とユキの時間は終わりを告げるのも分かっていた。何回もユキと過ごして分かったのは、彼女は想像以上にストイックであることだ。1回だけ食事に誘ったことがあったのだがあっさり断られた。と思えば図書館に行こうと言うとどんなに忙しくても時間を作ってくれた。俺が眼中にないというより、目的を達成するまで誰も眼中に入れる気はないという風に見えた。ならチャンスがあるかもと思っていた時期もあったが、彼女の努力の量はそのまま想いの量でもある。どっちにしろ俺が入り込む隙間はほとんどないのだ。
ならば余計なことを考えるな、と自分に言い聞かせる。その分の思考を人探しに使おう、ユキがそうしているように。俺はユキの状況を聞くことにした。
「そういえば、スカラ、使ってんの?」
演奏会行脚のきっかけスカラ。俺がいない間に別の男と会ってるかもしれないと考えるとしんどいが、背に腹は代えられない。あるものは活用しないともったいない。ユキはスマホを取り出してアプリを開いた。
「んー、チャットは色んな人としてる。楽器をやってる人に絞ってね」
「その言い方だと会うところまでは行ってないって感じか」
ユキは苦笑した。
「だって全員あまりにもにもこう……露骨というか」
がっつきすぎだ、と彼女は言外に言っていた。姉とLINEする感覚でチャットしてた俺はなんとか不合格を免れていたらしい。
「それになんかアプリの調子悪いんだよね。おすすめ一覧もエラー出てるし」
口には出さなかったが、無料だからいいじゃないかと少しだけ思った。数千円払ってる男側でそうなったら俺ならぶち切れてる。俺がそんなことを考えてるとは露知らず、ユキは残念そうにスマホの画面を消した。
「あーあ。初めてスカラの広告を見た時は、このアプリなら絶対見つかるって確信があったのにな」
「それはデザイナーが凄かっただけだな」
実際は冴えない大学生が一人捕まっただけだから、過大広告もいいところである。
学内をのんびり歩いていると、グラウンドが見えてきた。野球場が建てられるくらいでかい。冬休みだからか人の姿はなかった。ユキは目を輝かせる。
「すっごい広いね!」
ユキは飛び跳ねるように階段を降りていき、まるで檻から出された動物みたいグラウンドを駆け回った。普段より数倍元気な様子に少し驚く。コンサートホールでじっとしているユキしか知らなかったが、今こうしてはしゃぎ回っている方が恐らく素の、いや野生の彼女なのだ。しばらく走り回った後、彼女は額に手をかざして空を仰ぐ。
「今日は空が高いね」
言われて見上げると、雲一つない青空が広がっていた。こんなにマジマジと空を眺めるのは数年ぶりかもしれない。
2人で一緒に空を眺めていると、ユキは懐かしむように言った。
「あの日も、こんなに高い空だったな」
ズキ、と胸の中のささくれが疼く。
「すべり台の上でね。空を見上げながら歌ってた。……もう10年か。まるで昨日のことみたい」
俺は目を閉じる。闇のかにに小さな公園が浮かび上がる。すべり台の上には少女、すべり台の下に鍵盤ハーモニカを持った少年。その様子を小さい俺は公園の外からただじっと眺めている。そんな妄想をしながら、ユキに話しかけた。
「聴いてもいいかな。どんな歌なのか」
ユキは少し悩んだ後、グラウンドを見渡して誰もいないのを確認する。そして親指を立てたあと、グラウンドの中央で大きく息を吸い込み――
一瞬、体に何が起きたのか分からなかった。それが鳥肌だと気付くのに時間がかかった。
ユキの美声は圧倒的声量で喉から放たれ、巨大なグラウンドを支配した。
歌いながら広げられた手は、それだけで絵になった。その情景は脳裏に強烈に焼き付き、俺はただただ呼吸を忘れた。
歌詞の内容は確かに小学生の作ったような叶わない夢に満ちた愛すべきものだったが、ユキの声で歌われるとそれはことごとく現実になるように感じられた。
ユキの生き様と魂を具現化した歌声は聴くもの全てを後ずさりさせる。さながら王の前で道を空けるように。今彼女の前に立ちはだかるものなど何もなかった。
歌い終わったユキは肩で息をする。彼女は気持ちよさそうにふう、と息を吐くと、圧倒されて固まっている俺を振り返った。
「どう? 上手いでしょ。賞を取ったこともあるんだ」
ようやく体を動かせるようになった俺は、あまりの感動に拍手すらしながら手放しで褒めた。
「凄え、マジで凄えよ! 歌で感動したのは初めてだ」
俺の言葉足らずの称賛でも、ユキは嬉しそうに微笑んだ。それから彼女は静かに俺の方を見る。だがその目は俺のずっと後ろ、空の彼方を見ているように思えた。ユキの纏う空気が寂しさを帯びているのに気付いた瞬間、彼女は口を開いた。
「お母さんは、歌手だったんだ」
別の意味で俺は固まった。ユキは言葉を続ける。
「小学2年まではお母さんがいてね、わたしに歌を教えてくれてた。わたしは歌がへったくそだったけど、お母さんは丁寧に一小節ずつ付き合ってくれたんだ。わたしの手を握って一緒にピアノの鍵盤を押して、音階を一音一音聴かせてくれて……わたしは、その時間がたまらなく大好きだった」
グラウンドに冷たい北風が吹く。ユキの吐く白い息が顔の近くを横切った。
「お母さんが亡くなったあと、音楽の時間で歌う日があった。結果は分かるよね。音程も歌詞も滅茶苦茶なわたしは散々みんなに馬鹿にされて……だから決めた。もう二度と人前で歌うもんかって」
下手だったとしてもユキの歌は亡くなった母親の愛の結晶だ。彼女が受けた痛みは俺には想像もつかない。
「だから歌うときは公園でこっそり。で、私が下手な歌を口ずさんでいるとき、あの子に会ったの」
そこまで言うと、ユキは柔和な表情を浮かべた。
「突然鍵盤ハーモニカの伴奏が聞こえて、びっくりしてすべり台の下を見たら男の子がいたんだ。慌てて逃げようとしたら、目で『続けて』って。わたしがビクビクしながらちょっとずつ口ずさむと、凄いんだよ、あの子は私の音程でそのまま演奏してくれた。だから私はへったくそなまま気持ちよく歌ったの。あの時間は人生で一番楽しかったな」
言葉が出ない。それを運命と言わずしてなんと言うのか。
「その時ついた自信が、今もわたしを動かしてる。歌も猛特訓して上達したしね。お母さんがくれた音楽を今みんなの前で披露できるのは、あの子のおかげなんだ」
そう言ってユキは優しく微笑んだ。俺は努めて平静を装ったが、頭の中で様々な思考がぐるぐる対流していた。
俺は考える。こんな生き方をする彼女が探し人に会えないなんて嘘だ。そんなことが許されるはずがない。きっと会える。そうなる運命だ。
俺は思う。俺は何なんだ。俺は一体何なんだ。俺がいていい場所なんてどこにも無いじゃないか。ユキのどこまでも大きく尊い夢の前で、どうやって息をすればいいんだ。
だが、それでも俺は、と沸き立つ感情を抑えつけた。そんな彼女だから、俺は――
「だったら!」俺は無理やり笑った「何がなんでも見つけないとな!」
彼女は優しく頷いて、俺の横まで歩いてくた。そして並んでグラウンドを後にする。こうして2人で歩くのはもうすぐ終わるような予感がした。だからなるべく遠回りして、校舎の中を歩いて帰った。
ポスターを見かけたのは、そんな時だった。
・ ・ ・
JRと地下鉄を乗り継いで1時間。ユキと2人で小さな会館にたどり着いた。手に握られているのは3日前に見かけた講演会のパンフレットだ。タイトルは「音楽と数学の調和」。和音を方程式で表現したりだとか、円周率で作曲したりとかそういう話をするらしい。
ユキはポスターに載っている講師や講演内容を見て、数学メインの講演だから関係なさそうと行くのを渋った。だったらその時間で図書館行って過去の新聞を見たい、と。だが俺は「講演会を聞きにくる客にもしかしたら探してる子がいるかもしれない」みたいな話をして説き伏せた。正直に言えば、もうコンサートは食傷気味だったのだ。
ユキは席につくなり周りを見渡して、
「いないね、よし」
と言うや否やスマホを取り出し、無言で情報検索を始めた。いつになく膨れているのは、俺が半ば強引に連れてきたからだ。
多少の気まずさを感じながらステージを眺める。チェックのためにで講演のスライドが表示されており、小さい文字がびっしり並んでいた。なんだか眠くなりそうな予感がした。
結論から言うと予感は大的中し、講演は酷く退屈なものになった。おっさんがスライドの文字を読み上げているだけで、聞いているだけで欠伸が喉をせり上がってきた。隣を見るとユキもうつらうつらしている。最近外出が連続しているから流石に疲れていたらしい。
『演目は以上となります』
司会の声が響いてきて、慌ててユキの肩を揺さぶる。ユキは一瞬で起きて口の周りに手を当て、変なものが垂れてないのを確認するとコホンと咳払いした。
「あれ?」
ユキは時計を確認して首を傾げる。
「時間、あと30分あるはずだよね?」
ポスターを見ると、確かに講演は15時半までと書いてあった。今はまだ15時だ。
おっさんが早口だったのかな、と席を立とうとすると、再び司会の声が響いてきた。
『ですが、実は本日、講師の井上先生のご厚意でこの方にも起こし頂けることになりました。30分の短い時間ですが、サプライズで講演をして頂けるそうです。どうぞ、お入りください』
会場がざわつく中、スーツの男が演台に上がる。若いな、というのが第一印象だった。俺と同じぐらいの歳なのにすげえなあ、スーツが決まってイケメンだなあ、とぼんやり考えていると、
「あっ!」
という叫び声が会場にこだました。ハッと横を見ると、ユキは顔を真っ青にして、口元に手を当てていた。会場中の視線がユキに注がれる。
『今話題のマッチングアプリ『スカラ』を手がけるベンチャー企業、スカーレット・ライン社の代表兼プログラマーの、高城肇先生です』
高城の講演はAIによる作曲についてだったが、内容はまったく頭に入らなかった。と言っても話が下手だから、とかでは全くない。むしろリアルタイム作曲の実演と本人のアコーディオン演奏も交えた流暢な語りは、その前に喋っていたおっさんの10倍面白かった。
問題は隣に座っていたユキだ。叫んだ直後、息を飲み込んで深呼吸を繰り返し元の顔色に戻したのは流石だったが、それでもまだ息は荒かった。その様子で、高城がユキにとって何者なのか大体察しがついていた。このサプライズ講演は、俺にとって終わりへのカウントダウンだったのだ。
講演が終わり、客が会場からゾロゾロ出て行く。ユキはまだ席を立とうとしない。俺は胃をキリキリさせながらステージの方を見る。すると高城はおっさんと司会に声をかけ、何か頼み込んでいた。その2人は不思議そうに会場を出て行く。バタン、と扉が閉まった後、この会場には俺たち3人しか残っていなかった。
俺はユキの心の準備が出来るのをただ待った。ユキは緊張で震えていたが、やがて自分の両の頬を大きく叩いて立ち上がった。それでもういつも通りのユキに戻っていた。ユキは顔を上げて足を踏み出す。覚悟を決めたユキの歩みは様になっていた。それはまるで気高き獣の王の凱旋のようだった。俺は席から動かず、じっとその様子を見守っていた。
ユキがステージに上がるまで高城は静かに待っていた。そしていざ向き合うと、2人は長い空白に思いを馳せるかのようにじっと見つめ合う。先に口を開いたのはユキの方だった。
「あの日」ユキの凜とした声が会場に響き渡る。「貴方がわたしの歌を弾いてくれたこと、とても、とっても感謝してる。あの時間は今もわたしにとっての宝物。あの日貴方に会えたから、今のわたしがある。だから、貴方をずっと探してた」
そうしてユキは深くお辞儀をした。
「本当に、ありがとう」
沈黙。それは優しい沈黙だった。万感のこもったお礼を、高城はしっかり受け取る。今度は彼の方が口を開いた。
「どういたしまして。あの演奏が君のためになったのなら、僕もこの上なく嬉しいよ」
その瞬間、つう、とユキの頬を何かがつたったのが分かった。それでも表情は満面の笑顔だ。これまで彼女と過ごした記憶がフラッシュバックする。良かったな、という呟きが口から漏れた。今この時だけは全てのしがらみを忘れ、心の底から2人を祝福したかった。
ユキの涙が止まるのを待って、今度は高城がユキに話しかけた。
「実は僕も君を探してた」
ユキは目をぱちくりとさせる。
「スカラを開発した一番の動機は、君にまた会うことだった。僕にも心残りがあってね。君さえよければ、僕のお願いを聞いてくれないかな」
俺は目を白黒させた。スカラはユキのために作られた? 事情がまったく理解出来ない。だがユキは全て納得いったようだった。ユキは高城の目をしっかり見つめる。
「わたしにできることなら、喜んで」
すると高城はステージの隅まで歩き、講演に使ったアコーディオンを持ち上げた。
「あの日、僕は君の歌をこっそり聴いてたんだよね。だから君の歌が4番まであることを知ってる。でも5時の放送が流れたから3番までしか演奏できなかった。それがずっと心残りで」
そうして高城はユキに向き直った。
「もし君もあの歌を覚えているなら、今度こそ最後まで演奏させてくれないかな」
高城の頼みにユキは驚く。そして次の瞬間白い歯を見せ、瞳を燃え上がらせた。
「最っ高!」
ユキは大きく息を吸い込んだ――
ユキの歌声は相変わらず素晴らしかった。
高城の伴奏も負けていなかった。むしろ完璧と思われたユキの歌を補間していて、これが真の姿なのだと悟った。
ただ、その歌のある1点のせいで俺は体を刺し貫かれる思いをしていた。
音程だ。音程が違う。俺が3日前にグラウンドで聴いた歌と音程が全く違う。
頭では分かっていた。俺が聴いた歌の方が本当の音程だと。
だけど心で理解していた。今俺の目の前で繰り広げられているこの奇跡の再演の方が「本物」の音程なのだ。
2人だけのコンサートを、俺は公園の外から眺め続けることしかできなかった。
共演が終わり、再び会場に静寂が訪れる。ユキと高城は息が上がっていた。2人とも全力だったのだろう。高城はユキに深々と頭を下げる。
「ありがとう。これで僕の心残りもない」
「それはお互いさま」
ユキと高城は笑い合った後、ユキは手をひらひら振った。俺は何が始まるのかと身構える。ユキは、
「それじゃ、ありがとう。さよなら!」
と高城に気持ちの良い別れの挨拶をし、スタスタと客席に戻ってきた。俺と呆気にとられている。何なら高城も目を点にしている。ユキは俺の前に着くと「出よっか」と声をかけてきた。そこで俺の思考は完全にフリーズした。僅かに残った脳みそをフル稼働して、辛うじて口を開ける。
「先に……外に出ててもらえないか?」
彼女は不思議そうに俺を見た後、こくりと頷いて扉から出て行った。訳が分からなかった。これからのはずだろう、全てが始まるのは。
コツコツと足音が近づいてくる。見上げると高城がいた。
「君は、あの子の彼氏さん?」
唐突な質問に俺は咳き込む。
「まさかそんな。スカラで出会った……信者みたいなもんだよ」
それを聞くと高城は驚嘆の表情を浮かべた。
「スカラで?」
「ああ」
そう返事すると、高城は一瞬だけ顔をこわばらせたが、やがて表情を和らげた。
「そっか……」彼は優しく笑う。「それにしても信者、ね。素敵じゃない。あの子を信じて支えてくれて、ありがとう」
俺は黙って頷いたが、その感謝を受け取る資格があるのか分からなかった。高城はユキが出て行った扉を見る。
「いやあ、あの子と積もる話でもしようと思ってたんだけど。あの子はこれからだけを見てるんだね」
名残惜しむ高城に、俺は話しかける。
「あのさ、1つ聞いてもいい?」
高城は「どうぞ」と言ってくれた。
「スカラはユ、あの子のために作ったって言ってたけど、どういう意味?」
「ああ」高城はそんなことか、と笑った。「そのままの意味だよ」
「そのままって、本当にあの子とマッチングするために開発したのか?」
「うん。あ、もちろん個人情報を見たりはしてないよ。自分でアカウントを持ってるだけ」
「持ってるだけ、って……」
それは、昔会った名前も知らない女の子を探すため、まずその子に使って貰えるような人気マッチングアプリを開発し、あわよくばマッチングするということだ。にわかには信じられない。でも可能性はゼロじゃない。むしろスカラのマッチング精度を考えれば勝算はある方だ。が、それを実行に移そうと普通するだろうか。俺の困惑をよそに高城は真剣に喋る。
「だってどうしてももう1回会いたかったから。僕は数学だけが取り柄だったし、そういうやり方しかなかったんだ」
ユキがユキなら、高城も高城だ。気が狂ってるとさえ思った。まったくもってお似合いだ。
「スカラみてえなアプリ作れるなら……あと必要なのは根気だけだったってことかよ」
そう呟くと、高城は首を横に振った。
「アテは外れたよ。結局君が連れてきてくれたんだから」
「いやいや、あれだけ優秀なマッチングアルゴリズムならそのうち」
「無理だったさ」高城は遮るように言った。「それに、実を言うとアレはマッチングシステムじゃない。検索エンジンなんだよ」
「は?」
俺は首を傾げた。言ってる意味がさっぱり分からない。
「検索エンジンって、なら一体何を検索してるんだよ?」
高城は困ったように笑った。
「それは……いや、言っても信じてもらえないし、言わないでおく」
飲み込めていない俺を高城はいたずらっ子のように笑った。そして彼は会場の扉を指差す。
「それよりもほら、早くあの子を迎えに行ってあげなよ。きっと待ってるよ」
高城は俺の背中をぽんと叩いた。俺は一礼して外に向かう。最後に振り返ると、高城は何だか寂しそうに手を振っていた。
照明で彼の社章バッジがキラリと光る。そのマークを見て、いつもスカラの起動画面にあるな、とぼんやり思った。
緋色の線でデザインされたト音記号。扉を閉じても、それがいつまでもまぶたの裏に残っていた。
「すまん、待たせた」
会館の前でユキはじっと立っていた。俺を見つけると歩いてきて、上機嫌に笑った。
「本当にありがとう。今日あの人に会えたのはアシュのおかげだよ」
ここで気の利いたことが言えれば良かったのだが、生憎俺はそこまで頭は回らない。むしろ最悪な質問しか頭にない。我慢できなくなった俺は、ずっと俺を狼狽させている謎をユキにぶつけた。
「あのさ、いいのかよ」
ユキは首を捻った。
「いいのかって、何が?」
「ほら、せっかく会えたんだろ、あの時の男の子に」もう止まらなかった。「ならさ、LINE交換したりとかさ、飯行ったりさ……色々あるだろ!」
自分の人生を変えてくれた素敵な男に会うためにこれまで頑張ってきたんじゃなかったのか。運命の男に再び巡り会うために全てを投げ打って探してきたんじゃなかったのか。なのに何で、1回歌っただけで彼とさよならをするんだ。俺には彼女の考えていることが分からなかった。
ユキは俺の質問にぽかんとしていたが、やがて納得したようにクスクス笑った。
「そっか、そういうこと。あー、考えてもなかった」
「考えてもって、マジかよ!」
ユキは真面目に頷いた。
「だってずっとやりたかったことは済ませたし」
「済ませた? 1回だけで良かったのかよ。連絡先さえ交換しときゃ、これからは何回でも会えるんだぞ」
「そりゃ確かにずっと会いたかったけど……それは手段だよ」
ユキの真剣な目に俺は黙るしかなかった。彼女は宝物を愛でるように胸に手を当てる。
「あの日小さな自信をくれたあの人に、わたしはずっと、ずっとお礼が言いたかった。否定されたわたしを救い上げて、変わるきっかけを作ってくれたことへの感謝をどうしても伝えたかった。そしてその願いは全部さっき叶ったの。だから、わたしは満足」
そこで俺の脳みそは爆発した。もう叫ぶしかなかった。
「ならユキがこの10年ずっと探していたのは、あんなに苦労して、打ちのめされて、それでも立ち上がってきたのは、全部ただ一言礼を言うため、そのためだけだったって言うのかよ!?」
「うん。わたしがやりたかったのは、それだけ」
ユキの顔を見て、彼女の言うことが真実だと分かった。でもそれは頭で理解できただけだ。
下心で近づいたような俺をユキは受け入れてくれた。なのに俺が色恋であーだこーだ唸っている間、ユキはたった一言感謝を伝えるためだけに頑張ってきたという。
それが恥ずかしくて、悲しくて、惨めで、何より彼女の高潔な生き方が理解不能で。たまらず俺は壁によりかかって口元を押さえた。
「悪い、信じられねえ、信じられねえよ……」
ユキはしばらく俺をそっとしておいてくれた。やがて俺の息が整うと、彼女は優しく声をかける。
「アシュ、大丈夫? 歩けそう?」
「うん」
俺が目元を拭って顔を上げると、彼女は静かに隣に立った。
「じゃ、帰ろっか」
帰りの電車では2人とも無言だった。俺も頭が冷えてきて、冷静に考えられるようになっていた。
結局、何度考えても彼女のことは理解できなかった。
でももうそれで良かった。なんなら今は喜ばしくすらあった。
なぜなら彼女のユキヒョウのような気高さは、最後まで失われなかったのだから。
隣の席を見ると、ユキは窓の外をじっと眺めていた。その横顔に心の中で頭を下げる。
ありがとう。今まで知らなかった幸せをを俺にくれて。
ありがとう。灰まみれだと思っていた世界が、実は雪景色なのだと教えてくれて。
電車が駅に到着し、2人で改札を出る。
これでもうユキに会うことはない。なぜなら2人きりの時間は手段だったからだ。彼女の願いが叶った今、それはもう必要ない。
だが不思議なことに、もう後ろ髪を引かれる思いは全くなかった。
「ユキは、これからどうするんだ?」
自然と質問が口からこぼれた。これまでライフワークで人探しを続けていたのだ。ぽっかり穴が空いても仕方ないのでは。
「そうねー。色々ほったらかしにしてきたから、今更だけど大学生っぽいことしてみようかな」
どうやら、特に深刻に捉えてはいないようだった。それで少し安心した。
「いいじゃん、今度は彼氏でも作れよ。もしかしたら人探しより時間かかるかもな!」
「彼氏かー、それはまた追々ね」
ユキはふふっと笑う。
その瞬間、17時のチャイムが構内に鳴り響く。別れの時間がやってきた。ゆっくりユキと向き合う。もう言うこともあんまりない。
「色々ありがとう。会えて良かった」
「こちらこそ。わたしも会えて良かった。今こうして笑えてるのは全部アシュのおかげ。ありがとう」
交わす言葉はそれで十分だった。俺は軽く手を振る。
「それじゃ、達者で」
「アシュもね」
そうして背を向け、ユキは歩き出した――かのように思われた。彼女はすぐに立ち止まり、俺の方を振り返った。
「そうだ、ずっと聞こうと思ってたことがあったんだった。すっかり忘れてた」
「……なんだよ」
彼女は俺の目をじっと見つめ、俺に問いかけた。
「アシュはさ、なんでわたしを手伝ってくれたの?」
「なんで手伝ったのか……?」
俺にもよく分からない。下心があったから? 惚れたから? 生き様に感動したから? 同情したから? 刺激が欲しかったから? 変わるきっかけが欲しかったから? どれも正解でどれも間違いな気がする。
だから、会って一番最初に心奪われたものを口にした。
「手が」
「手?」
「手が綺麗だったから……」
言った直後、あまりに恥ずかしくて思わず顔を逸らす。そんな俺をユキは笑ったりはしなかった。彼女は自分の手をひらひらさせてじっと眺め、ぽつりと呟く。
「初めて言われた。そんなこと」
ユキは口元を緩ませ、右手で左手を包む。彼女は自分の手を愛おしむように見た。
「お母さんがわたしの手を握ってピアノを教えてくれた時、言ってくれたの。『この手はお母さんにそっくりね』って」
ユキは顔を上げる。俺と目が合った。
「わたしもこの手が好き。ありがと、アシュ」
彼女ははにかみ、俺に右手を差し出す。俺は放心したままぎゅっと握り返した。それは日の光のような温かさだった。一瞬だけ駅の喧騒が消える。俺はこの瞬間をずっと忘れないだろう。
それからユキは手を振りながら人混みの中に消えていった。俺は揺れる白い手を、いつまでも目で追っていた。
彼女が見えなくなると、俺はスカラを立ち上げてアカウントを消した。もう必要ないし、他のことに使ってユキとの出会いを汚したくなかった。なんとなくだが、きっとユキも同じことをしたような気がした。
削除完了のメッセージが画面に浮かぶ。俺はスマホをぎゅっと握りしめた。
「結局、名前聞かなかったな」
・ ・ ・
あれから1年経った。俺はといえば、懲りずにまたカフェの軒下にいた。
再びスカラに手を出したのが1ヶ月前。理由はやっぱり自分でもよく分からない。ある日窓から夕日を眺めていたら無性に人肌が恋しくなってきたのだ。アカウントは1年前に消してしまったので、げんなりしながら2時間かけて質問に答え続け、なんとか2つ目を製作した。頑張れたのは、素敵な出会いが待っていることを自分で証明済みだったからである。
今回も放置して3週間経った頃に1人の女からメッセージが来た。何回かチャットをして会う約束をし、何やかんやで今日会うことに。
さすがに待ち合わせには慣れたもんで、手が震えることはなかった。アプリを開くと、赤いト音記号のマークが現われる。チャットを見て、時間と場所が合っているのを確認する。
あの日々に勝るものに出会えるとは思えないが、と頭の中で独り言を言う。願わくば、もう一度あの頃のように心を焦がせたら――
その瞬間、トンと音がした。驚いて前を見ると、机の上に手が置かれている。見間違えようもない。いつか、あれほど目で追いかけた手が今そこに。
顔をあげ、そこに立っている人を見て笑うしかなかった。あまりにおかしかったから、まるで旧知の知り合いのように馴れ馴れしく声をかけた。
「どうせ、次の言葉は『ごめんなさい!』だろ?」
俺の言葉に、凜々しいユキヒョウは白い歯を見せた。
「いいえ。今度は違わない」
トップに戻る