「もし」、と。話しかけられた。
 時は正午過ぎ。信濃町で用事を済ませたばかりで、病院裏手の御苑を抜けて新宿へと出るつもりだった。
 場所は日本庭園を右手にやり過ごせば陽射しが高い枝に遮られ始めて、ようやくこちらの汗が引く辺り。
 呼ばれた方をふりさけ見れば私より背の高い人影が木陰にぽつんと立っていた。
 口元は涼しげな微笑を湛えて。
「お久しぶりです」
 某様、と。
 彼(あるいは彼女)は私の旧姓を呼んだ。
「……どこかでお会いましたか?」
「お忘れか」
「恐縮ですが」
 然り。「遠く昔のことですから」
「……」
 昔と言うのなら、上京以前だろうかとも思うのだけど、故郷での顔見知りに目の前の彼(あるいは彼女)があったかは曖昧だった。
 それより、そう頷いた彼(あるいは彼女)が隠しきれず少し気落ちしたように見えたのが気がかりだった。
「少し歩きませんか」
 というので道を外れてついていけば、彼(あるいは彼女)の歩きかたはどこか不可思議だった。足元に影が見当たらない、とでも言えばそれらしいかもしれない。むろん、目を凝らせばそれは確からしく見える。しかしその輪郭は常に溶けかけて揺らいでいる。そのような歩きかただった。
「お身体は」
 唐突に尋ねられ。
「良くなりましたよ」
「それは。しかし今も」
 視線が、手元の薬袋をかすめたのを感じた。
「今は大学の偉い先生に診てもらってて。これでも少なくなりました」
「左様で」
 そういえば、と。
「以前私にお尋ねになりましたね」
「私が?」
 頷いて。
「人はいつから人になるのだろうか、と」
「……」、私が?
「七つまでは神のうちと言います。人よりは獣に近いのでしょう」
「やもしれません」
「道理をわきまえず、生死の恐れを知らず。妖しい胡乱につられて迷い。されど屈託なく笑い泣くのでしょう」
「……覚えて、ないですね」
 左様で。
「神の子から人の子になるのでしょうね」
「……」
 その言葉は、よく覚えていた。
「しかしごく稀に。人になれないまま、神の子のまま七つを過ぎてしまうことがある」
「私のように」
「貴方のように」
 左様。
「……されど私はもう、あの時と違って幼子ではない」
「生きとし生けるものすべては、死ぬまで誰かの子なのです」
「しかし、お前は」
 言いかけたものを飲み込んだ私を、面白そうに眺めながら。
「今すぐじゃなくとも構いません」
 ただの見舞いです。
 いずれあなたの答えをお聞かせください、と。
 そのまま彼(あるいは彼女)は、消えてしまった。
 少し先には新宿の四丁目へと抜ける木陰の終わりが、淡く白くはなやいで見えた。
 その時ようやく思い出したことには、そういえば今日は両親の命日だったか、と。